第123話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、子供たちは、その手にしたあまりにも強力すぎる玩具を使い、自らの手で新たな、そして最も壮大な神話を創造し始めていた。
世界は、希望に満ちていた。
『プロジェクト・アルカディア』――人類の叡智の結晶である月面都市計画は、そのあまりにも無謀な一ヶ月という納期を前に、奇跡的なまでの速度で、その姿を静かの海の広大な平原に現しつつあった。
その歴史的な偉業を、そして日本の新たな世界における立ち位置を全世界に知らしめるため、日本政府は究極の切り札を切ることを決断した。
それは、いかなる軍事力よりも、いかなる経済力よりも強力な、静かなる力の行使。
この国の万世一系の象徴、天皇陛下ご自身の月面行幸であった。
そのニュースは、一ヶ月前から全世界に公表され、地球という名の巨大な劇場を、一つの巨大な期待感で包み込んでいた。
テロを警戒するIAROとアメリカDAAは、この日のために、史上最大規模の警備体制を敷いた。だが、彼らが本当に恐れていたのは、物理的な脅威ではなかった。彼らが恐れていたのは、このあまりにも荘厳な儀式が成功した暁に訪れるであろう、世界のパワーバランスの、決定的で、そして不可逆的な変化だった。
行幸当日。
日本の空は、まるでこの国の新たな門出を祝福するかのように、雲一つない、どこまでも澄み切った秋晴れに恵まれていた。
皇居正殿・松の間。
その最も格式高い空間で、天皇皇后両陛下は、静かにその「時」を待っていた。
そのお姿は、いつもの伝統的な装束ではなかった。JAXAと宮内庁の最高のデザイナーたちが、この日のためだけに作り上げた、純白の、しかしその生地には金糸で菊花紋が刺繍された、洋装とも和装ともつかない、未来的な、しかしどこまでも気品のある特別な衣服に、身を包んでいた。
部屋には、宰善総理と数名の政府高官だけが、緊張した面持ちで控えている。
やがて、宮内庁長官が、その震える声で告げた。
「…………陛下。……お時間が、まいりました」
「……うむ」
陛下は、静かに頷かれた。
そのお顔には、不安や緊張の色はない。ただ、これから自らが果たそうとしている歴史的な使命に対する、深い、深い覚悟の色だけが宿っていた。
彼らは、皇居の地下深くに極秘裏に建設された専用通路を通り、官邸の地下司令室へと繋がる特別なエレベーターへと向かう。
そして、そこから彼らが乗り込んだのは、黒塗りの御料車ではなかった。
それは、SF映画の中からそのまま抜け出してきたかのような、一つの銀色のカプセル。
サイト-アスカと、そして横須賀の極秘ドックとを、真空のリニアモーターで結ぶ、日本最高機密の地下トンネル『天照ライン』。
そのあまりにも非現実的な光景の中を、日本の最も古い伝統の象徴が、今、静かに未来へと滑り出していった。
横須賀の地下ドックは、この日のために、完璧なまでの静寂と、神聖なまでの清浄さに包まれていた。
ドックの中央には、あの神の船『やまと』が、その真珠色の美しい船体を静かに横たえている。
両陛下が、ゆっくりとタラップを上り、その船内へと足を踏み入れた。
出迎えたのは、星野船長をはじめとする、この歴史的な航海のクルーたちだった。彼らの、その宇宙の深淵を何度も見てきたはずの百戦錬磨の顔にも、今日ばかりは隠しようのない緊張の色が浮かんでいた。
ブリッジの中央、キャプテンシート。
陛下は、そこに座ることを固辞された。
「……朕は、船長ではない。……この船の最初の、そして最も名誉ある『乗客』として、この旅を見届けさせてもらおう」
そのあまりにも謙虚な、そしてどこまでも帝王らしいお言葉に、クルーたちはただ深々と頭を下げることしかできなかった。
星野船長が、その震える声で発進の号令を下す。
「…………宇宙船『やまと』。……これより、月へと参ります!」
彼は、その脳裏に白銀の星の姿を、強く、強くイメージした。
(――目標、月へ!)
次の瞬間、ブリッジの巨大なビュー・スクリーンに映し出されていた横須賀のドックの風景が、何の音もなく、何の振動もなく、まるでテレビのチャンネルを変えたかのように、一瞬にして漆黒の宇宙空間へと切り替わった。
そして、その漆黒のキャンバスのど真ん中に、あまりにも巨大な、そしてあまりにも美しい青い故郷の星が、その圧倒的な存在感を放って輝いていた。
「…………おお……」
皇后陛下が、その口元に手を当て、感嘆の声を漏らされた。
陛下もまた、その神々しいまでの光景に、ただ言葉を失っていた。
そして、十五秒後、船は月の静止軌道上に、完璧な静寂の中、ぴたりと静止した。
ビュー・スクリーンの向こう側には、クレーターに覆われた荒涼とした大地と、そしてその地平線の向こうからゆっくりと昇ってくる、涙が出るほどに美しい青い故郷の星の姿があった。
ブリッジは、しばし深い、深い沈黙に包まれた。
誰もが、そのあまりにも神々しい光景に、魂を奪われていた。
◇
月面都市アルカディア・ベースは、その歴史的な一日を、万全の体制で迎えていた。
中央ドームに設けられた歓迎式典会場には、日米欧露中、各国の代表団と、第一期民間居住者たちが、それぞれの国の民族衣装や正装に身を包み、今か今かと日本の象徴の到着を待っていた。
やがて、ドームの巨大なエアロックが、静かに開かれた。
そして、そこに現れた純白の衣服に身を包んだ二つの人影に、会場は割れんばかりの、そしてどこまでも温かい拍手と歓声に包まれた。
天皇皇后両陛下が、その人類史上初めてとなる月面への第一歩を、静かに、しかし確かに記された瞬間だった。
「…………すごい……」
民間居住者として選ばれた日本の家族の小さな男の子が、その目をキラキラと輝かせて呟いた。
「…………おとぎ話みたい……」
そのあまりにも純粋な感想は、この場にいた全ての人間が共有する、一つの真実だった。
陛下は、その歓迎の熱狂の中を、穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと歩まれた。
そして、中央に設えられた演台の前に立つと、その静かな、しかし全世界の隅々にまで響き渡るような声で、その第一声を発せられた。
それは、政治的な演説ではなかった。
それは、一人の詩人の魂の歌だった。
「…………ちはやぶる」
「…………神の御業か、うつし世か」
「…………月の都に、故郷の星」
そのあまりにも美しく、そしてどこまでもこの瞬間の感動を完璧に詠み込んだ御製。
その言霊は、言語の壁を超えて、その場にいた全ての者の魂を、深く、深く震わせた。
会場は、再び感動の嗚咽と、そして嵐のような拍手に包まれた。
行幸のクライマックス。
それは、日本モジュールの中に設けられた、あの奇跡の農園『豊穣の社』で執り行われた。
ガラス張りのドームの中、青々と茂る稲穂と、たわわに実る果実。そのあまりにも生命力に満ち溢れた光景の中を、両陛下はJAXAの職員の案内で、ゆっくりと歩まれた。
そして、ドームの中央に特別に設えられた、小さな、しかし清浄な水が張られた神田。
陛下は、そこで静かにその純白の衣服の袖をまくられた。
そして、地球の皇居にある神田から、この日のために特別に運ばれてきた神聖な籾種を、その手に取られた。
そして、古来より皇室に、千年以上も前から連綿と受け継がれてきた神事『お田植え祭』を、この月の大地の上で執り行われたのだ。
彼の、その皺の刻まれた、しかしどこまでも美しい指先が、魔石の粉末が混ぜ込まれた月の土に、そっとその命の種を植えていく。
そのあまりにも静かで、そしてどこまでも荘厳な光景。
それは、日本の最も古い伝統と、人類の最も新しい未来が、この月の大地の上で、完璧に、そして永遠に結びついた瞬間だった。
それは、もはやただの儀式ではない。
一つの、新たな神話の始まりの儀式だった。
その光景は、全世界に生中継され、人々の心に、決して消えることのない一つの美しい記憶として、深く、深く刻み込まれた。




