第119話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ出していた。
賢者・猫が若き織田信長に接触してから、二年余り。尾張国は、神の米と、神の薬、そして神の力を宿した魔王の統治の下、戦国の世とは思えぬほどの異質な繁栄を謳歌していた。
その力は、もはや尾張という小さな国に留まるものではない。京の都にまで届くその威光は、衰退した室町幕府と、権威だけを頼りに生きる公家社会の双方にとって、無視できぬ存在となっていた。
そして、信長は待っていた。
自らの野望を、そしてこの国の未来を、次なるステージへと押し上げるための、神の再訪を。
その知らせは、秋風が吹き始めたある日の夕刻、唐突にもたらされた。
那古野城の天守閣。信長は、西の空を茜色に染め上げる夕日を眺めながら、一人チェス盤に向かっていた。それは、賢者が気まぐれで置いていった未来の遊戯。彼は、この抽象的な盤上の戦いの中に、天下統一への道筋を見出そうとしていた。
その彼の腰に下げられた黒曜石の円盤。賢者が遺した通信機が、何の音もなく、しかし確かな存在感を放って、微かに、そして温かく輝き始めた。
信長の、その常に冷徹な瞳が、カッ、と見開かれた。
「…………来たか」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
数日前、帝への謁見の許可が、正式に下りたのだ。表向きは、神の米の豊作を報告するための定例の挨拶。だが、彼の真の目的は、そこにはなかった。
彼は、その黒曜石の円盤を恭しく両手で掲げた。
そして、その魂の全てを込めて呼びかけた。
「――賢者殿! 織田三郎信長にございます! ……お約束の時が、参りましたぞ!」
◇
数日後、京の都、御所。
その空気は、戦国の武家屋敷のそれとは全く質の違う、千年の歴史が凝縮したかのような静謐で、そしてどこか物悲しい香りに満ちていた。
磨き上げられた板張りの廊下は、人の歩むたびに、小鳥のさえずりのような微かな音を立てる。壁や襖に描かれた狩野派の山水画は、その色彩のほとんどを失いながらも、未だにその気高い品格を保っていた。
だが、その美しさの裏側には、隠しようのない「寂れ」があった。柱の金箔は剥げ落ち、庭の手入れも行き届いていない。この国の全ての権威の中心であるはずのこの場所が、もはやその栄光の残照だけでかろうじて成り立っている、巨大な遺跡のようでもあった。
その最も格式高い謁見の間、『紫宸殿』。
そこに、織田信長は、たった一人で静かにひざまずいていた。
彼の後ろには、緊張で顔を青ざめさせた公家たちが、数名控えているだけ。
そして、その遥か前方。
幾重にも垂れ下がる豪奢な、しかしところどころが擦り切れた御簾の向こう側に、この国の頂点が、存在していた。
第百五代天皇、後奈良院。
そのお姿を、直接見ることは許されない。
だが、その御簾の向こう側から放たれる静かで、しかしこの世の何よりも重いプレッシャーは、第六天魔王を自称するこの不遜な若者でさえも、自然と頭を垂れさせるほどの力を持っていた。
「…………信長とやら」
御簾の向こう側から、か細い、しかし芯の通った声が響いた。
「……面を上げよ」
「ははっ!」
信長は、その声に促され、ゆっくりと顔を上げた。
「……そなたの父、信秀よりの毎月の献上、まことに大儀である。……あの神の米のおかげで、この内裏の者たちも、久しく忘れておった満腹という幸福を味わっておるわ。……礼を言うぞ」
「もったいなきお言葉にございます!」
「……して」と、帝は続けた。
「……そなたが、朕に会うことを強く望んだと、関白より聞いておる。……用件は、何じゃ」
そのあまりにも単刀直入な問い。
信長は、一度深く息を吸い込んだ。
そして彼は、この日のために用意した最高の、そして最も危険な切り札を、そのテーブルへと叩きつけた。
「はっ! ……実は、本日参上いたしましたのは、他でもございません! ……帝に、ぜひともお引き合わせしたい御方が、おりましてな!」
そのあまりにも無礼な、そしてどこまでも前代未聞の申し出。
公家たちの間に、激しい動揺が走った。
「なっ……!」
「無礼者めが!」
「帝への謁見の場で、他の者を引き合わせるなど……!」
だが、その彼らの怒号を、信長の雷鳴のような一喝が、完全に黙らせた。
「――黙らっしゃい!」
その声には、もはやただの若武者のそれではない、神の力を宿した魔王の絶対的な覇気が宿っていた。
「…………帝! ……今からここにお呼びする御方は、ただの人間ではございません! ……この信長に、そしてこの日ノ本に、大いなる奇跡をもたらした、神仏の化身そのものにございますれば!」
彼は、そう言うと、懐からあの黒曜石の通信機を取り出した。
そして彼は、叫んだ。
「――賢者殿! ……お約束の刻にございます! ……お越しを!」
そのあまりにも劇的な呼びかけ。
それに、呼応するかのように、奇跡は起きた。
謁見の間の、高い、高い天井。
その格天井に描かれた美しい花々の絵の中心あたり。
何もないはずの空間が、まるで水面のように、静かに揺らめき始めたのだ。
そして、その空間の中心から、一つの小さな黒い影が、まるで夜空から舞い降りる一滴の雫のように、音もなく、そしてどこまでも優雅に降りてきた。
それは、一匹の黒猫だった。
夜の闇そのものを吸い込んだかのように、艶やかな毛並み。そして、人の心の奥底までも見透かすかのような、神秘的な翠色の瞳。
そのあまりにも場違いな、しかしどこまでも神々しい闖入者は、広間の中心、信長の目の前に、ふわりと、猫特有の完璧な静けさで着地した。
「…………………………………………」
紫宸殿は、死んだ。
全ての音が、消えた。
公家たちは、その口をあんぐりと開けたまま、完全に石化していた。
そして、御簾の向こう側で、帝が息を呑む気配だけが、確かに感じられた。
そのあまりにも重く、そしてどこまでも張り詰めた静寂の中で、黒猫が、静かに、しかしその場にいる全ての者の魂に直接響き渡るかのような声で言った。
「…………うむ。……ワシが、賢者・猫じゃ」
彼は、御簾の向こうの見えざる絶対者へと、その翠色の瞳を向けた。
「…………お主が、この国の帝か。……ふむ。……なかなか、良い魂の色をしておるのう」
そのあまりにも不遜な、そしてどこまでも神の如き物言い。
そして彼は、続けた。
「…………まあ、そう固くなるな。……ただの世間話をしようではないか」
その一言が、凍りついていた時間の、その氷を砕いた。
御簾の向こう側から、帝の震える、しかしどこか楽しげな声が響いた。
「………………面白い。……面白いではないか、化け猫よ。……よかろう。……その世間話とやら、この朕が聞いてやろう」
こうして、歴史上最も奇妙で、そして最も壮大な謁見は始まった。
神の化身と、人の世の頂点。
その二つの孤高なる魂の、静かな、しかしこの国の未来の全てを決定づける対話が。
「…………して、賢者殿」
帝は、静かに問いかけた。
「……そなたは、神仏の遣いであると、信長は申しておったな。……ならば、そなたの目には、この乱れきった日の本の未来の姿も、見えておるのか?」
そのあまりにも根源的な、そしてどこまでも切実な問い。
賢者は、その問いに、静かに頷いた。
「…………まあ、少しばかりはな」
彼は、少しだけ遠い目をした。
「……千年後とはいかぬがな。……まあ、今から五百年ほど後の未来であれば、ワシの目にも、ぼんやりとではあるが、見えておるよ」
「…………ほう。……して、その五百年後の日の本は、どのような姿をしておるのじゃ」
「うむ」
賢者は、語り始めた。
その声は、もはやただの猫のものではなかった。それは、悠久の時の流れを旅してきた、観測者の声だった。
「…………その頃には、日の本は平和じゃぞ」
平和。
そのあまりにも甘美な響き。
御簾の向こうで、帝が息を呑む気配がした。
「……戦などという愚かな行いは、とうの昔に終わっておる。……人々は、刀ではなく鍬を手に取り、この国の豊かな大地を耕しておる。……城壁は、もはや敵から身を守るためのものではなく、ただ美しい風景の一部として、静かにそこに在るだけじゃ」
「…………素晴らしい……」
「……そして、その平和な国の頂点に立つその頃の帝はな。……お主のように、この薄暗い御所の中に閉じこもっては、おらんぞ」
「…………ほう?」
「…………その頃の帝は、わりと忙しいそうじゃな」
賢者は、楽しそうに喉を鳴らした。
「…………日本全国、津々浦々を巡り、民と直接言葉を交わし、その暮らしぶりをその目で見て回っておる。……ある時は、北の果ての漁師たちと共に、凍える海で網を引き。……またある時は、南の島の農夫たちと共に、汗だくになってサトウキビを刈る。……民と同じものを食い、民と同じ歌を歌い、そして民と同じ痛みに涙する。……それこそが、五百年後の帝のお姿じゃよ」
そのあまりにも具体的で、そしてどこまでも理想に満ちた未来の君主の姿。
御簾の向こう側から、帝の深い、深い感嘆のため息が漏れ聞こえてきた。
「…………ほう。……それは……それは、まことに素晴らしい……。……それこそが、朕が、そして歴代の帝たちが夢見てきた、真の『仁政』の姿そのものではないか……」
「うむ」
賢者は、頷いた。
そして彼は、まるで今思いついたとでも言うかのように付け加えた。
「…………ああ、そうだ。……最近だと、月に行っておったのう」
「…………………………………………は?」
帝の、その威厳に満ちていたはずの声が、完全に素っ頓狂な音へと変わった。
「…………つ、月じゃと……? ……あの、夜空に浮かぶ月か……?」
「うむ」
「…………あそこへ行けると申すのか!? 人の身で!?」
そのあまりにも純粋な、そしてどこまでも人間的な驚愕。
それに、賢者はくつくつと喉の奥で笑った。
「…………うむ。……まあ、ワシが少しばかり力を貸してやれるようになったからのう。……今や、月へ行くのは、隣町へ行くのとさして変わらん」
「………………」
「…………ああ、『てれび』でも大々的にやっておったわい。……まあ、てれびと言っても、お主には分からぬか。……まあ、よい。……『天皇陛下、月へ行く!』と、まあそんな感じじゃな」
そのあまりにも常識を逸脱した、そしてどこまでも楽しげな未来の光景。
御簾の向こう側から、帝の、もはや隠しようもない心の底からの感嘆の声が響いた。
「…………な……。…………なんという……。…………夢のような……」
「…………夢のような、世界ですね……」
そのあまりにもか細い、しかしどこまでも純粋な魂の呟き。
「ふふふ」
賢者は、満足げに笑った。
「…………ワシからすれば、他愛のないことじゃがな。……まあ、人類にとっては偉業であろうよ」
そのあまりにも傲慢で、しかし否定しようのない神の視点からの言葉。
謁見は、終わった。
賢者は、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっ、とその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、神が語った未来の物語の、あまりにも巨大な余韻に、ただ魂を打ち抜かれてしまった人間たちだけだった。
帝は、しばらく無言だった。
やがて彼は、ゆっくりと、そして力強く言った。
「…………信長よ」
「ははっ!」
「………………見事であった」
「…………もったいなきお言葉」
「……そなたが連れてきた、あの神の化身。……そして、そなたが伝えてくれた、あの神の物語。……この朕の、その魂の最も深い場所に、確かに届いたぞ」
帝は、立ち上がった。
そして彼は、この国の頂点として、絶対的な、そして揺るぎない宣言を下した。
「…………信長よ。……そなたに、命ずる」
「…………その五百年先の平和な未来。……この朕が夢見た、理想の国の姿。……そなたの手で、築いてみせよ」
「…………この朕が、そしてこの日の本の全ての神々が、そなたの背中を見守っておるぞ」
それは、もはやただの官位の授与などではなかった。
それは、大義名分。
この国の全ての権威の中心からの、絶対的な、そして神聖なる「天命」だった。
信長は、その場で深々と、そして完璧な武士の礼をもって、ひれ伏した。
その顔には、これ以上ないほどの歓喜と、そして武者震いが浮かんでいた。
「――御意に!!!!!」
その力強い声が、古びた、しかしどこまでも神聖な紫宸殿に響き渡った。
歴史の歯車は、今、確実に、そして神の気まぐれな戯言によって、その回転を狂おしいほどに早め始めていた。
尾張のうつけが、天命を背負った真の魔王へとその貌を変える、その本当の物語は、まだ始まったばかりだった。




