第118話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ出していた。
賢者・猫が若き織田信長に接触してから、二年余り。
尾張国は、もはやただの戦国の小国ではなかった。
それは、一つの異質な、そして圧倒的な輝きを放つ奇跡の王国へと、その姿を変えつつあった。
その力の源泉は、二つ。
一つは、「銭」。
賢者がもたらした神の石、『魔石』。その奇跡によって無限に収穫される『神の米』は、織田信秀の老獪な商才によって、莫大な富へと変換された。飢饉に喘ぐ他国へと高値で売りさばかれ、その代価として得られた黄金は、那古野城の蔵に山と積まれている。その潤沢な資金力は、最新鋭の火縄銃を他国の数倍の規模で揃えることを可能にし、兵士たちには常に十分な報酬と食料を与え、その士気は天を衝くほどに高かった。
尾張は、銭の力で他国を超える勢いで成長し続ける、無双の経済大国と化していた。
そして、もう一つ。
その力の源泉は、「武」。
信秀が築き上げた盤石な国力の上で、その嫡男、織田信長は、もはや人の域を超えた「魔王」として、その才覚を存分に開花させていた。
『不死鳥の羽衣』をその身にまとい、神の力『身体強化』を宿した彼の武勇は、もはや伝説となっていた。
月に一度、那古野城の練兵場で開かれる御前試合。そこには、織田家の威光を慕い、あるいはその力を疑い、日ノ本中から我こそはと腕に覚えのある武芸者たちが集まってくる。
だが、その結末は常に同じだった。
剣豪も、槍の名手も、忍びの頭領でさえも、信長の前に立てば、まるで子供扱いであった。
彼の動きは、もはや人の目では追えぬ。
敵が刀を振りかぶった瞬間には、既にその背後に回り込み、鞘に収めたままの刀の柄で、その首筋を軽く突いている。
「――終わりじゃ」
その一言と共に、歴戦の猛者たちが、まるで赤子のようになすすべもなく、地面に崩れ落ちていく。
そのあまりにも圧倒的な、そしてどこまでも優雅な蹂躙劇。
人々は、もはや彼を「うつけ」とは呼ばなかった。
畏怖と、そしてほんの少しの恐怖を込めて、彼らはその若き主君をこう呼んだ。
『第六天魔王』と。
米は無双。そして、武力では天下一を謳う。
尾張は今、その歴史上最も輝かしい黄金期を迎えようとしていた。
その日の昼下がり、那古野城の最も見晴らしの良い天守閣。
信秀と信長は、親子二人きりで、眼下に広がる自らの王国を満足げに見下ろしていた。
城下町は活気に満ち溢れ、その遥か向こうには、黄金色の稲穂がどこまでも続く『神の田圃』が広がっている。
「……ふん。……見事なものよな」
信秀が、その髭に覆われた口元に満足げな笑みを浮かべて言った。
「……この信秀が、生涯をかけて夢見てきた光景が、今この目の前にある。……民は飢えることなく、兵は強く、そして国は富む。……尾張は、順調よ」
「はっ」
信長は、力強く頷いた。
「……ですが父上。……これは、まだ始まりに過ぎませぬ。……我らが目指すは、この尾張という小さな箱庭ではない。……この日ノ本全てを、この神の国の如き豊かさで満たすこと。……それこそが、賢者殿が我らに与えたもうた、天命にございますれば」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも揺るぎない野望。
信秀は、その息子の顔を眩しそうに、そしてどこか誇らしげに見つめていた。
「……うむ。……お主になら、それも成し遂げられよう」
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも力強い親子の対話。
その静寂を、一つのあまりにも場違いな、そしてどこまでも呑気な声が破った。
「――うむ。……なかなか良い眺めじゃのう」
天守閣の屋根の上。
そこに、いつの間にか一匹の黒猫が、ちょこんと座っていた。
夜の闇そのものを吸い込んだかのように、艶やかな毛並み。そして、人の心の奥底までも見透かすかのような、神秘的な翠色の瞳。
「おお、賢者・猫殿!」
信長がその声に気づくと、ぱっとその顔を輝かせた。
その顔は、もはや魔王ではない。
尊敬する師の来訪を、心の底から喜ぶ、ただの若者の顔だった。
賢者・猫は、屋根の上からふわりと飛び降りると、二人の前に音もなく着地した。
「うむ。ご苦労。……少しばかり暇でのう。……お主たちが、面白い話の相手にでもなるかと思ってな」
そのあまりにも気まぐれな、そしてどこまでも神の如き来訪の理由。
それに、信秀は苦笑を浮かべながら、深々と頭を下げた。
「……これはこれは、賢者殿。……ようこそ、お越しくださいました。……貴方様が退屈しておられるのであれば、それは我らの怠慢。……いくらでも、お話の相手をいたしましょうぞ」
「はっはっは!」
信長が、高らかに笑った。
「では、賢者殿! あれからのことを、お話しいたしましょうか!」
彼は、まるで最高の戦果を報告する若武者のように、その目をキラキラと輝かせながら、この二年間の成果を誇らしげに語り始めた。
「……我ら織田家、貴方様より賜りました『神の米』の奇跡を、まずは京の帝へと献上いたしました。……そしてその際に、貴方様より伺った神託も、帝にお伝えしたのです」
「……ほう? 神託、とな?」
「ええ! ……『賢者・猫殿より、千年後の未来においても、この日ノ本の頂きに君臨しておられるのは、帝ただお一人である』と! ……それを聞いた帝は、それはもう、涙を流さんばかりにお喜びになられましてな! ……この信長と父・信秀に、破格の官位を授けてくださったのです!」
「……それ以来、今も毎月欠かすことなく、『神の米』を献上品としてお送りしております。……おかげで、帝はすっかりお元気になられ、公家衆も、今や我ら織田家を帝の最も忠実なる臣下として、絶大な信頼を寄せてくれておりますぞ!」
そのあまりにも見事な、そしてどこまでも計算高い外交的勝利の報告。
それに、賢者は満足げに喉を鳴らした。
「…………なるほどのう。……なかなか、上手くやったようじゃな。……まあ、お主ならそれくらいはやると思っておったが」
そして賢者は、ふと、まるで今思いついたとでも言うかのように呟いた。
「…………よく考えると、ワシ、帝とやらにはまだ会ったことがないのう。……ふむ。……今度、一度会ってみるか……」
そのあまりにも軽い、まるで近所の名所旧跡にでも観光に行くかのような一言。
それを、信長が聞き逃すはずもなかった。
彼のその天才的な頭脳が、瞬時に、その言葉の裏にある計り知れないほどの政治的価値を弾き出す。
(……面白い……! ……面白いぞ! ……この神の化身が、直接帝と謁見なさる……! ……そうなれば、もはや帝の権威はただの伝統ではない! ……現人神のお墨付きを得た、絶対的なものとなる……! ……そして、その仲立ちをしたこの信長もまた……!)
「ほほう!」
信長は、その興奮を隠しきれない様子で、身を乗り出した。
「……それは、帝もさぞかしお喜びになりましょうぞ! ……ぜひ、賢者殿! ……この信長、また帝にお会いになるその時には、この私めに、お立ち会いの栄誉を賜りたく!」
そのあまりにも抜け目のない、そしてどこまでも野心に満ちた申し出。
賢者は、その小僧の魂胆を見透かしたかのように、その翠色の瞳を細めた。
そして彼は、にやりと笑った。
「…………よし、分かった」
彼は、次元ポケットから、一つの小さな、黒曜石で作られたかのような滑らかな円盤を取り出した。
「……次に、お主が帝と会う時が来たら、この通信機に話しかけるが良い。……ワシの世界に直接通信が届くように設定してあるからのう。……その時が、ワシが、お主たちの帝とやらに会う時としよう」
「おお……! ありがたき幸せにございます!」
信長は、その神の道具を、まるで聖杯でも受け取るかのように、恭しく両手で受け取った。
「……さて」
賢者は、立ち上がった。
「……まあ、手ぶらで来て、お主たちの自慢話を聞いてやるだけというのも、芸がない。……少しばかり、土産をくれてやろう」
彼は、そう言うと、何もない空間から、まるで手品のように、いくつかの奇妙な、そしてどこまでも魅力的な「贈り物」を取り出し始めた。
「……そうじゃな。……お主たちの国の食事は、どうにも淡白で面白みに欠ける。……これでも、使うが良い」
彼が、ドン、と床に置いたのは、一つの巨大な麻袋だった。
その口から、これまで誰も嗅いだことのない、複雑で、芳醇で、そしてどこまでも食欲をそそる香りが、部屋中に広がった。
中には、様々な色と形をした、乾燥した植物の葉や、実や、粉末が、ぎっしりと詰め込まれていた。
胡椒、唐辛子、砂糖、そして醤油。
「…………これは……?」
「……調味料じゃ。……まあ、料理の味を少しばかり面白くするための、魔法の粉よ。……これを使えば、お主たちの食文化も、少しは花開くであろうよ」
そして彼は、次に、いくつもの美しいガラス瓶を取り出した。
その中には、琥珀色の液体や、深紅の液体が、美しい光を放って揺らめいていた。
「……それと、酒も山ほどあるぞ」
ウイスキー、ワイン、そしてラム酒。
「…………おお……!」
そのあまりにも美しい、そしてどこまでも芳醇な香りを放つ神々の酒を前にして、信長の目が、これ以上ないほどキラキラと輝いた。
「…………これは……! ……これは、素晴らしい! ……柴田権六や前田又左衛聞に飲ませてやれば、奴ら、涙を流して喜びましょうぞ! ……この酒は、武士全員で分けて飲まねばなりますまい! ……ありがとうございます、賢者殿!」
そのあまりにも純粋な、そしてどこまでも酒飲みらしい感謝の言葉。
「うむ、うむ」
賢者は、満足げに頷いた。
そして彼は、最後の、そして最も重要な問いを投げかけた。
「…………ところで小僧よ。……あの魔石の在庫は、まだあるか?」
「はい! 賢者殿より賜りました魔石は、まだ十分に余っております!」
「うむ。……ならば、良いことを教えてやろう」
賢者は、言った。
「…………氷室は、知っておるな?」
「はっ。……冬の間に切り出した氷を、夏まで貯蔵しておくための……」
「そうじゃ。……だが、その魔石を使えばな。……もっと、面白いことができるぞ」
彼は、その翠色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「…………魔石は、氷室そのものを創り出すこともできるのじゃ」
「…………何!?」
信長と信秀の声が、完全にハモった。
「……魔石に、強く『冷えよ』と念じながら、小さな蔵の中に置いてみるが良い。……その蔵は、たちまち真冬の最も寒い日よりも、さらに冷たい、絶対的な氷の空間へと変わるであろう。……そうなれば、どうなる? ……季節を超えて、冷たいものを食べることができるのじゃ。そして夏の暑い日に冷たい飲み物は格別じゃ。」「更に、港に氷室を作り、中に出来た氷と共に魚を運べば長距離輸送でも魚は新鮮なままじゃ。」
そのあまりにも革命的な、そしてどこまでも贅沢な発想。
「…………なんと……!」
信長は、戦慄した。
「…………神の米を創るだけでは、なかったのですな……! ……なんとなんと、奥深き石か……!」
「……早速、試させまする!」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも楽しげな神の置き土産。
それを前にして、織田家の父子は、もはや言葉もなかった。
彼らは、ただこの神がもたらす奇跡の奔流に、その身を委ねるしかないのだと、改めて実感していた。
尾張の国の、そして日ノ本の本当の変革は、まだ始まったばかりだった。
神の気まぐれという名の、あまりにも巨大すぎる追い風を受けて。




