第12話 【交易世界編】 石工ジャックとの出会い
実家で過ごす穏やかな時間は、魔法のように早く過ぎていった。
母親の作る温かい手料理を食べ、父親の無口だが優しい気遣いに触れ、創の心は、会社員時代にささくれ立っていた部分が少しずつ癒されていくのを感じていた。
だが、スローライフ計画はまだ始まったばかり。安住の地は、まだここではない。
三日目の朝、創は母親に「仕事の資料と、必要なものを買い揃えたいから、隣町の大きな店に行ってくるよ」と告げて、慣れ親しんだ家を後にした。もちろん、本当の目的は全く別のところにある。
彼は電車に揺られ、隣町にある巨大なショッピングモールへと向かった。実家の近くにある昔ながらのスーパーではなく、あえて品揃えの豊富な大型店を選ぶあたりに、彼の元プロジェクトマネージャーとしての準備の細かさ、あるいはただの心配性が表れていた。
自動ドアを抜けると、そこは現代日本の豊かさを象徴するような空間が広がっていた。完璧に管理された空調、床にワックスの効いた清潔なフロア、そして、棚という棚にびっしりと並べられた、ありとあらゆる商品。色とりどりのパッケージが、購買意欲を煽るように鮮やかな光を放っている。
この光景だけで、創の心は少しだけ躍った。
これから自分がやろうとしていることの、あまりのスケールの大きさと、その馬鹿馬鹿しさに。この棚に並んでいる数百円の商品が、世界を一つ向こう側へ渡るだけで、一財産に化けるのだ。まるで、現代の錬金術師にでもなったかのような気分だった。
彼の足は、迷うことなく食品売り場へと向かった。
目指すは、調味料コーナー。
今回のプロジェクトにおける、最も重要で、そして最初の「商品」がそこに眠っている。
まず、塩の棚の前に立つ。
そこには、創の想像を超えるほどの、多種多様な「塩」が並んでいた。
「うわ……こんなにあるのか……」
思わず、声が漏れた。
ピンク色が美しいヒマラヤ産の岩塩、しっとりとしてミネラル豊富なフランス産のゲランドの塩、ハーブやスパイスが混ぜ込まれたクレイジーソルト、そして、日本人なら誰もが見慣れた、青と白のパッケージの食卓塩。
価格も、一袋百円程度のものから、千円以上する高級品まで様々だ。
創は、腕を組んで真剣に悩み始めた。
(どれが一番ウケるだろうか……? 向こうの世界の人間は、どんな塩に価値を見出すんだ? やはり、見た目が綺麗なピンク色の岩塩か? それとも、精製され尽くした真っ白な食卓塩の方を『奇跡の塩』としてありがたがるか……? いや、ここは複数の種類を用意して、相手に選ばせるというプレゼンテーション形式の方が効果的かもしれないな)
彼は、さながら重要なクライアントへの提案資料を準備するかのように、それぞれの塩の特性と、それがもたらすであろうインパクトを脳内でシミュレーションしていく。
結局、彼はプレゼン効果を重視し、見た目に特徴のあるピンク岩塩と、品質の高さを示すための真っ白な精製塩の二種類を買い物かごに入れた。
次に、砂糖のコーナーへ。
ここもまた、塩に劣らず百花繚乱の世界だった。
しっとりとした質感の上白糖、サラサラとして雑味のないグラニュー糖、独特のコクがある三温糖、沖縄の風を感じさせる黒糖。そして、喫茶店でお馴染みの、一つ一つが綺麗に包装された角砂糖。
「……これは、角砂糖だな」
創の決断は早かった。
ただ甘いだけの粉末よりも、このように美しく成形され、個包装までされた砂糖の方が、より「文明の利器」としてのインパクトを与えられるはずだ。まるで宝石のようだ、と相手に思わせることができれば、交渉は圧倒的に有利に進む。彼は、五十個ほど入った角砂糖の箱を一つ、買い物かごに追加した。
そして、最後に本日の主役、香辛料の棚へと向かう。
彼の計画では、これこそが最も莫大な利益を生み出す金の卵となるはずだった。
棚には、小さなガラス瓶や袋詰めにされた、世界中のスパイスがずらりと並んでいる。
胡椒。
彼は、まずそれを手に取った。
黒胡椒と白胡椒。それぞれ、粒のままのホールタイプと、挽かれて粉末になったパウダータイプがある。
(これも、両方あった方がいいな。粒のままの胡椒を見せて、その場で専用のミルで挽いて見せれば、その香り高さに相手は卒倒するんじゃないか?)
彼は、ブラックペッパーとホワイトペッパーのホールとパウダー、計四種類をかごに入れた。ついでに、プレゼン用の小道具として、百円ショップで買った安物のペッパーミルも次元ポケットに忍ばせておくことを心に決めた。
さらに、シナモン、ナツメグ、クローブ、カルダモンといった、ファンタジー世界でいかにも高値がつきそうな、甘くエキゾチックな香りのスパイスも数種類選んだ。
これだけあれば、最初のサンプルとしては十分すぎるだろう。
創は、買い物かごに収まったささやかな「お宝」たちを眺め、満足げに頷いた。
これだけ買っても、会計は数千円。
「これだけで、向こうでは馬車と馬が買えるかもしれないんだよな……」
彼は、現代日本の圧倒的な物質的豊かさを改めて実感し、同時に、これから自分が踏み込もうとしている世界のことを想像して、武者震いに似た興奮を覚えていた。
会計を済ませ、商品を詰めたレジ袋を手に、彼はショッピングモールのトイレへと向かった。
一番奥の個室に入り、鍵をかける。
狭く、清潔で、無機質な空間。ここが、今から世界と世界を繋ぐゲートウェイになる。
創は、レジ袋から商品を取り出すと、一つ一つ丁寧に次元ポケットへと収納していった。
これで、準備は万端だ。
彼は、便座に腰を下ろし、一度目を閉じて精神を集中させた。
プロジェクト計画書のノートに書き記した、【ターゲット世界の要件定義】を、脳内で何度も反芻する。
そのイメージを、より具体的に、より鮮明に、構築していくのだ。
まず、価値観。
人々が、素朴で味気ない麦の粥をすすりながら、「ああ、一度でいいから、領主様が召し上がるという、胡椒の効いた肉料理を食べてみたいものだ」と溜め息をついている。そんな光景を思い浮かべる。
次に、安全性とインフラ。
立派な城壁に囲まれた、活気のある都市。城壁の上では、槍を持った衛兵たちが退屈そうに空を眺めている。街の門からは、街道を旅してきた商人たちの荷馬車が次々と入ってくる。道は石畳で舗装され、人々は穏やかな表情で行き交っている。戦争の匂いも、貧しさからくる殺伐とした空気もない。平和で、安定した王国。
そして、最も重要な、魔法の存在。
魔法という概念そのものが、存在しない。
だが、夜、暖炉のそばで祖母が孫に語って聞かせるのだ。「昔々、この世界には魔法使いという不思議な力を持つ人々がいてね。彼らは指を一つ鳴らすだけで、何もないところからパンを出したり、空を飛んだりしたそうだよ」と。
孫は「すごい! 僕も会ってみたい!」と目を輝かせるが、祖母は「もう、そんな力を持つ人はどこにもいないのさ。おとぎ話だよ」と優しく笑う。
そんな、魔法が遠い過去の「伝承」としてのみ存在する、絶妙な世界観。
これらの複雑で多層的なイメージを、創は自身の強靭な精神力で一つの完璧なビジョンへと編み上げていく。
それは、もはや単なる願望ではない。
これから自分が降り立つ世界の、揺るぎない設計図だ。
「――異界渡り」
創は、心の中で静かに唱えた。
次の瞬間、彼の体をいつもの浮遊感が包み込んだ。
魔法学院へ行った時のような、光の粒子に分解されるような幻想的な感覚ではない。
もっと、物理的で、現実的な感覚。
まるで、超高速のエレベーターで、次元という名の階層を一つ、ずしりと移動したかのような、確かな手応えがあった。
そして、目を開けた時。
創は、自分が思い描いた通りの世界の、そのど真ん中に立っていた。
まず、彼の五感を襲ったのは、情報の洪水だった。
視覚。
目の前には、巨大な噴水が水を噴き上げる、活気のある広場が広がっていた。周囲を取り囲むのは、石と木で造られた、温かみのある三階建て、四階建ての建物。屋根は赤茶色の瓦で統一され、壁からは店の名前が書かれたであろう、木製の看板がいくつも突き出している。空は、どこまでも高く、青い。日本のそれよりも、少しだけ太陽が大きく見える気がした。
行き交う人々の服装は、麻や革で作られた素朴なものが多い。男たちはチュニックにズボン、女たちは簡素なワンピース。時折、立派なマントを羽織った商人風の男や、腰に剣を下げた冒険者のような出で立ちの者も見える。
聴覚。
人々の喧騒が、まるで一つの音楽のように響き渡っていた。威勢のいい客引きの声、女たちの井戸端会議の笑い声、走り回る子供たちのはしゃぎ声。遠くからは、荷馬車の車輪が石畳の上をゴトゴトと進む音や、規則正しい鍛冶屋のハンマーの音が聞こえてくる。そして、それらの言葉は全て、創の耳には流暢な日本語として届いていた。
嗅覚。
最も強烈だったのは、匂いだ。
焼きたてのパンの、甘く香ばしい匂い。露店で焼かれている、何かの肉の脂が焦げる食欲をそそる匂い。それらに混じって、荷馬車を引く馬の糞の匂いや、人々の汗の匂い、そして微かな下水の匂いが、渾然一体となって鼻孔をくすぐる。それは、決して芳しいとは言えないが、人々がここで確かに生きていることを感じさせる、力強い生活の匂いだった。
肌を撫でる、少し乾いた風。足元に伝わる、硬く、そして少しだけ凹凸のある石畳の感触。
創は、その全てを全身で受け止めながら、呆然と呟いた。
「……おっと、いきなり街中か……。しかも、ど真ん中だ」
スーパーのトイレの個室から、一瞬にしてこの異世界の広場へ。
そのあまりの飛躍に、彼の脳が軽く眩暈を起こしていた。
彼は、慌てて周囲を見回した。
幸い、いきなり人の群れのど真ん中に現れたにもかかわらず、誰も彼に注目している様子はなかった。広場は人でごった返しており、皆それぞれ自分の目的地に向かって忙しなく歩いている。旅人が多い街なのかもしれない。
創は、自分の服装に視線を落とした。
日本のショッピングモールを歩いても全く違和感のない、Tシャツにチノパンという出で立ち。
この中世風の街並みの中では、明らかに浮いていた。
だが、今はそれを気にしている場合ではない。
まずは、情報収集だ。
この街の名前、この国の名前、そして何よりも、プロジェクトの成否を左右する、大手商会の場所を突き止めなければならない。
彼は、広場を見渡し、声をかける相手を探し始めた。
いかにも裕福そうな身なりの商人は、供を連れて足早に歩いており、捕まえるのは難しそうだ。屈強な傭兵風の男たちは、見るからに気難しそうで、声をかけるのを躊躇わせる。
創は、元プロジェクトマネージャーとして培った人を見る目を(自分ではそう信じている)最大限に活用し、ターゲットを絞り込んでいく。
急いでいないこと。
見た目が怖くないこと。
そして、少しだけ暇そうであること。
その条件に合致する人物が、すぐに見つかった。
広場の中心にある噴水の縁に、一人の男が腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。
年は、三十代半ばくらいだろうか。日に焼けた肌と、がっしりとした体つきは、何らかの肉体労働に従事していることを窺わせる。服装は、他の人々と同じように簡素な麻のシャツと革のズボンだが、清潔に洗濯されているようだった。そして何よりも、その目つきが悪くない。退屈そうではあるが、決して他人を寄せ付けないような険はなかった。
「……よし、あの人で行こう」
創は、意を決すると、その男に向かってゆっくりと歩き出した。
心臓が、少しだけ早鐘を打っている。
日本政府との交渉とは、また違う種類の緊張感。
未知の世界の、未知の人間との、本当の意味でのファーストコンタクト。
彼は、男の数歩手前で立ち止まると、できるだけ人好きのする笑みを浮かべて、声をかけた。
「すみませーん、少しよろしいですか? 私は旅の者なのですが、道を尋ねてもよろしいでしょうか」
噴水の縁に座っていた男は、創の声に気づくと、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
その目は、好奇心と、そしてほんの少しの面倒くさそうな色が混じっていた。
「……んあ? 俺にかい?」
男は、気怠そうな声で答えた。
「ああ。見ての通り、この街は初めてでして。少し困っておりまして」
創は、あくまで低姿勢に続けた。
男は、創の頭のてっぺんから爪先までをじろりと一瞥すると、ふう、と一つ溜め息をついた。
「……で、どこに行きたいんだい、旅人さん」
無下にはしないが、積極的に関わる気もなさそうだ。創は、内心でよし、と頷いた。こういうタイプが、一番御しやすい。
「ありがとうございます。実は、この街で一番大きな商家は、どちらにあるかご存知ないかと思いまして」
創がそう尋ねると、男は初めて少しだけ興味深そうな顔をした。
「一番大きな商会? そりゃあ、この街を知らねえ奴でも知ってる『ラングローブ商会』に決まってんだろ。街の西側、一番でかい建物だから、行けばすぐにわかるさ」
男は、顎で西の方角をしゃくってみせた。
「……で、なんでそんなこと聞くんだ? あんたみたいな奇妙な格好の旅人が、あそこの大旦那に何の用だい?」
男の質問は、もっともだった。
創は、ここで相手に興味を持たせ、会話を続けるための布石を打つ。
「実は、私は珍しい品を扱う商人でして。大きな取引をしたくて、この街で一番信用できる場所を探しているんです」
「へえ、商人ねえ」
男は、創の言葉を鼻で笑った。
「その割には、荷物もねえし、供も連れてねえ。ずいぶんと身軽な格好の商人だな」
鋭い指摘だった。創は、少しだけ冷や汗をかく。
だが、ここで動揺を見せてはならない。彼は、あくまで余裕のある笑みを崩さなかった。
「ははは、私の扱う商品は、少々特殊でして。荷馬車で運ぶような類のものではないのですよ」
その言葉に、男はますます怪訝そうな顔をした。
創は、畳み掛ける。
「それで、ラングローブ商会について、もう少し詳しく教えていただけると助かるのですが……」
「ああ?」
「もちろん、ただでとは申しません」
創がそう言った瞬間、男の目の色が変わった。
「ほう? じゃあ、その心意気を見せてもらおうか。この国の通貨で、銀貨一枚。それでどうだい?」
「……すみません」
創は、両手を広げてお手上げのポーズをしてみせた。
「実は、この国の通貨の持ち合わせが、今ちょうどなくて。商売人として、実にお恥ずかしい限りですが」
その答えに、男はあからさまに呆れた顔をした。
「なんだそりゃ。金もねえのに、人にものを尋ねるんじゃねえよ。じゃあ、話は終わりだな。あっちへ行きな」
男は、しっしっと手を振って創を追い払おうとする。
だが、創はここで引き下がるわけにはいかなかった。ここで情報を得られなければ、また一からやり直しだ。
彼は、一歩前に踏み出した。
「お待ちください!」
その声には、自分でも驚くほどの張りと、力がこもっていた。
男が、少しだけ驚いたように動きを止める。
創は、その目を見据えて、はっきりと告げた。
「手付けとして、今すぐお金をお支払いすることはできません。ですが、代わりに約束をしましょう。私の商談が、そのラングローブ商会とやらでまとまれば、あなたに十分な報酬をお支払いします。私は商人です。信用が、何よりも第一。この約束は、必ず守ります」
それは、ほとんど根拠のない、ただの口約束。
だが、創の声には、日本政府のトップエリートたちを相手に大立ち回りを演じた男の、揺るぎない自信が漲っていた。
男は、最初、ぽかんとしていた。
やがて、その口元がくっと歪み、腹を抱えて笑い出した。
「くくく……あっはっはっは! こいつは傑作だ! 口約束で報酬だぁ? あんた、面白いこと言うじゃねえか!」
男は、一頻り笑うと、涙を拭いながら創を見上げた。
「普通なら、詐欺師だと思って衛兵を呼んでるところだが……あんた、妙な度胸があるな。その目、気に入ったぜ」
そして、にやりと笑った。
「よし、乗ってやるよ! その与太話、どこまで本当か見てやる。もし本当に商談がまとまったら、この街で一番美味いエールと、一番でかい肉を奢ってもらうぜ。いいな?」
「ええ、お任せください。最高の酒場にご案内しますよ」
創も、にやりと笑い返した。
第一関門、突破。
男は、一度こうと決めたら話が早いらしく、それまでの気怠そうな態度はどこへやら、急に協力的になった。
「で、あんた、一体どこから来たんだ? その妙な服といい、聞いたことねえ訛りだが。南の砂漠の国の人間か?」
「いえ。ニホンという、東のずっとずっと遠い国ですよ。ご存じないですか?」
創は、あらかじめ用意しておいた設定を口にした。
「ニホン? 聞いたこともねえな。まあ、世界は広いっていうからな。そんな国もあるのかもな。……あんた、この国には長いのかい?」
「いえ、今日着いたばかりで。なので、何も分からなくて。それで、つかぬことをお伺いしますが、この国の統治について少し教えていただきたいのですが。ここのご領主様は、どんな方です?」
創は、さりげなく、しかし核心的な情報を引き出そうと試みた。
男は、噴水の水を一口手ですくって飲むと、面倒くさそうに、しかしどこか誇らしげに語り始めた。
「領主様? ああ、この辺りを治めてんのはグランベル伯爵様だが、あの人はまあ、可もなく不可もなくってとこだな。民を虐げるような悪人じゃねえが、特に何かしてくれるわけでもねえ。それより、この国をまとめてる王様がすげえんだよ」
「王様、ですか」
「ああ。今の陛下、アルトリウス三世陛下になってから、この国は本当に変わったんだぜ。俺がガキの頃は、街道にゃ盗賊がうようよしてて、街の外に出るのも命懸けだった。税も重くて、親父はいつも溜め息ばっかりついてたもんだ。だがな、陛下が即位されてから、まず騎士団を動員して国中の盗賊を根絶やしにしちまった。それから、無駄な役人をクビにして税を軽くして、その金で街道を全部石畳に舗装しちまったんだ。おかげで、今じゃ商人たちが安全に国中を行き来できて、この街もこんなに活気があるってわけさ」
男は、そこまで一気にまくし立てると、ふう、と息をついた。
「今も昔も変わらず、陛下は優秀で、公平な方だよ。だから、ここは良い国だぜ。俺らみたいな、ただの石工でも、真面目に働けば腹一杯飯が食えて、家族を養っていけるんだからな」
その言葉は、創にとって何よりも価値のある情報だった。
政治は安定。王は名君。インフラも整備されている。
ビンゴだ。ここは、最高の取引環境だ。
創は、内心で快哉を叫んだ。
男は、立ち上がると、ラングローブ商会へと続く道を丁寧に指差して教えてくれた。
「あの広場の向こう、一番高い時計塔が見えるだろ? あの麓にある、一番でかくて立派な建物がそうだ。石造りの、三階建ての、やたらと窓が多い建物だから、すぐにわかるさ。会頭のゲオルグ・ラングローブって旦那は、そりゃあもう街一番の金持ちで、少し強欲だって噂もあるが、筋は通す人だって評判だ。あんたみたいな胡散臭い商人が相手にしてもらえるかは、知らねえけどな」
そこまで言うと、男はじゃあな、と片手を上げた。
「あ、そうだ」
彼は、何かを思い出したように振り返る。
「俺は、ジャックだ。石工のジャック。もし、あんたのその大層な商談が本当にまとまったら、夜はこの広場の南側にある『陽気な猪亭』って酒場で飲んでるから、探しに来な。約束、忘れるんじゃねえぞ」
「ええ。必ず」
創が力強く頷くと、ジャックは今度こそ満足そうに笑い、人混みの中へと消えていった。
一人残された創は、ジャックが消えていった方角をしばらく見つめていた。
ファーストコンタクトは、大成功だった。
貴重な情報を得られただけでなく、ジャックという奇妙な「債権者」もできた。
創は、ふっと笑みを漏らす。
スローライフとは、ほど遠い。
だが、これはこれで、悪くない。
会社員時代には決して味わえなかった、自分の力で未知の世界を切り拓いていくという、スリリングな手応えがそこにはあった。
彼は、ジャックに教えられた時計塔を見据えた。
あの下に、この世界の運命を、そして俺の財布の中身を大きく左右するであろう、巨大な商会が待ち構えている。
創は、次元ポケットの中にある、ささやかで、しかし無限の可能性を秘めた「商品」たちの存在を確かめるように、軽く腹を叩いた。
そして、彼の壮大な交易ビジネスの第一歩を踏み出すべく、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、広場を横切り始めたのだった。