第117話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、子供たちは、その手にしたあまりにも強力すぎる玩具を巡って、新たな、そしてより危険な遊びのルールを、自分たち自身の手で創造し始めていた。
世界は、希望に満ちていた。
『プロジェクト・アルカディア』――人類の叡智の結晶である月面都市計画は、そのあまりにも無謀な一ヶ月という納期を前に、奇跡的なまでの速度で進捗していた。
日米両政府が主導し、G7各国がオブザーバーとして参加するその壮大な事業は、かつての冷戦時代の宇宙開発競争とは全く質の違う、一種の奇妙な、そしてどこか祝祭的な熱狂に包まれていた。
だが、その輝かしい光の裏側、水面下では、地殻プレートが軋むように、新たな、そしてより静かなる戦争の予感が、日増しにその圧力を高めていた。
ワシントンD.C.、ホワイトハウスのシチュエーションルーム。
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンは、その鷲のような鋭い瞳で、目の前のホログラムスクリーンに映し出された三次元の火星儀を、忌々しげに見つめていた。
数週間前、日本の老獪な狸どもが、友情という名の美しいリボンをかけて丸投げしてきた、あの悪魔の外交カード。
『――中国政府、火星コロニー建設のため、『やまと』の独占的使用権購入を打診』
そのあまりにも衝撃的な情報は、アメリカという超大国の最も深い場所にあるプライドと、そして安全保障上の悪夢を、同時に、そして完璧に刺激した。
「………………」
トンプソンは、深い、深いため息をついた。
彼の隣で、国防長官ソーン元帥が、その熊のような巨体から低い声で唸った。
「……ミスター・プレジデント。……これは、もはや看過できませぬ。……中国の龍が、あの赤い星にその爪を立てるというのなら、我々アメリカの鷲もまた、その翼を広げねばなりますまい。……月面都市計画と並行し、我が国独自の火星探査計画、『プロジェクト・マーズ・フロンティア』の即時始動を、ここに具申いたします!」
そのあまりにも勇ましい、そしてどこまでも予算を度外視した進言。
だが、トンプソンは首を横に振った。
「……焦るな、将軍。……日本の狙いは、そこにあるのだからな」
彼は、スクリーンに表示されたもう一つのウィンドウを指し示した。
そこには、日本の宰善総理との極秘会談の議事録が表示されていた。
『――このあまりにも巨大すぎる問題。……我々だけでは、もはや抱えきれません。……どうか、我らが最も信頼する同盟国として、そしてこの自由世界のリーダーとして、貴国のお知恵と、お力をお貸し願えないでしょうか……?』
「……奴らは、この厄介なボールを、完全に我々に押し付けたのだ」
トンプソンは、吐き捨てるように言った。
「……我々が中国と対立すれば、彼らは高みの見物を決め込むだろう。……我々が中国と妥協すれば、彼らは漁夫の利を得る。……どちらに転んでも、日本の狸どもは決して損をしない。……そして、その全ての交渉の主導権は、『やまと』の唯一の所有者である彼らが握っている。……これが、今の世界の現実だ」
そのあまりにも屈辱的な、しかし否定しようのない真実。
シチュエーションルームは、重い沈黙に包まれた。
彼らは、気づいてしまったのだ。
自分たちが今、足を踏み入れているのが、かつてのような単純な二国間のパワーゲームではない、日本というトリックスターが仕掛けてきた、あまりにも複雑で、そしてどこまでも先の読めない三次元のチェス盤の上であるということに。
火星を巡る、静かで、しかし熾烈な政治劇の幕は、今まさに上がったばかりだった。
◇
そして、その人間たちの矮小な駆け引きなど、まるで意に介さぬかのように、月は、ただ静かにその青い母星を見守っていた。
だが、その静寂の星の風景は、この一ヶ月で劇的な変貌を遂げていた。
かつて、アポロの宇宙飛行士たちが、その偉大なる孤独を刻み込んだ『静かの海』。
その広大な平原に、今、一つの巨大な、そしてどこまでも人工的な都市が、その産声を上げていた。
それは、まだ都市と呼ぶにはあまりにも粗削りで、機能的すぎる代物だった。
居住区画、研究区画、そして動力区画。それぞれの目的のために設計された規格の違う無骨なモジュールが、まるで子供がブロックを無造作に繋ぎ合わせたかのように、雑然と、しかし確かな生命力を持って連結されている。
その混沌とした建築群の中心を、気密性の高いチューブ状の通路が、血管のように結んでいた。
その通路の透明な窓から見えるのは、漆黒の宇宙と、荒涼とした灰色の月面、そしてその地平線の向こう側に浮かぶ、息をのむほどに美しい青い地球。
そのあまりにも非現実的な光景の中を、人々は当たり前のように行き交っていた。
月面都市、アルカディア・ベース。
その中央広場に面した最も大きなドーム状の共同食堂は、昼時を迎え、活気に満ち溢れていた。
その喧騒は、もはやJAXAやNASAの科学者たちだけの、専門的なものではなかった。
建設作業のために世界中から集められた、屈強な労働者たち。彼らの肌の色も、話す言葉も様々だった。
そして、何よりもこの都市の空気を特別なものにしていたのは、彼らの間に混じって、目をキラキラと輝かせながら食事をとる、一般の「観光客」たちの存在だった。
あの日、日米両政府が発表した民間人居住者の公募。
それは、世界中から文字通り億を超える応募が殺到する、歴史的なオーディションとなった。
そして、その中から記念すべき第一期生として選ばれたのは、ノーベル賞を受賞した科学者でもなければ、莫大な富を持つ億万長者でもなかった。
選ばれたのは、ごく普通の、しかし星々への尽きることのない夢を持つ、様々な国籍の十組の家族だった。
アフリカの小さな村の、星を見るのが大好きだった少年。
紛争地帯で生まれ育ち、平和な世界を夢見ていた少女。
そして、日本のどこにでもいる、ごく普通のサラリーマンの家族。
彼らの存在そのものが、この月面都市が、もはや一部のエリートだけのものではない、人類全体の新たな故郷であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
だが、その幸福な喧騒の中心で、今、一つの小さな、しかし確実な革命が起ころうとしていた。
食堂の一角に設けられた、ひときわ長い行列。
人々のお目当ては、いつもの栄養バランスだけは完璧な、しかしどこまでも味気ない宇宙食のペーストではなかった。
彼らの視線が注がれているのは、その隣に新設された、小さな、しかし清潔なサラダバーだった。
そのカウンターの中では、JAXAから派遣された日本の若い栄養士たちが、誇らしげな、そしてどこか緊張した面持ちで、色とりどりの野菜を盛り付けていた。
その野菜は、地球から運ばれてきたフリーズドライのものではなかった。
それは、今朝、この月面で収穫されたばかりの、奇跡の野菜だった。
アルカディア・ベースの最も陽当たりの良い(と言っても、太陽光は特殊なフィルターを通して調整されているのだが)区画に、日本のモジュールはあった。
その名は、『豊穣の社』。
その内部は、もはや宇宙船の区画ではなかった。
一つの、完璧な植物工場。
水耕栽培の棚には、LEDの紫色の光を浴びて、青々としたレタスやハーブが育っている。そして、その中央には、この奇跡の心臓部とも言うべき、ガラス張りの特別な温室があった。
その温室の土壌は、黒々としていた。
それは、月の砂に、地球から持ち込まれた有機物と、そしてあの神の石『魔石』を砕いた粉末を、完璧な比率で混ぜ合わせた、究極の魔法の土だった。
その土の上で、トマトが、キュウリが、イチゴが、地球上では考えられないほどの速度で、そしてありえないほどの生命力に満ちて、その実をつけていた。
「……すごい……」
収穫作業をしていた若い日本人研究員の一人が、呆然と呟いた。
「……昨日収穫したばかりなのに。……もう、次の実が赤くなっている……」
その奇跡の光景は、彼らにとってさえも、まだ日常にはなりきっていなかった。
そして、その奇跡の最初の果実が、今、月面都市の住人たちの前に供されようとしていた。
食堂のサラダバーの前に並んでいた一人のアメリカ人の建設作業員が、半信半疑の顔で、その真っ赤なミニトマトを一つ、口に放り込んだ。
彼は、屈強な男だった。これまで数々の過酷な現場を渡り歩き、その舌は、安物のビールと塩辛いだけのビーフジャーキーに慣れきっていた。
だが、その彼の舌が、生まれて初めて本当の「美味さ」を知った、その瞬間。
彼の労働で荒れ果てた顔が、くしゃり、と歪んだ。
そして、その大きな瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
「………………スイート」
彼の口から漏れ出したのは、かすれた、しかし心の底からの感嘆の声だった。
「…………なんてこった。……甘い。……こんな、こんなに甘いトマト、生まれて初めて食ったぞ……」
彼は、もう一つ、またもう一つと、夢中でその赤い奇跡を頬張った。
そのあまりにも劇的なリアクション。
それが、合図だった。
行列に並んでいた人々が、我先にとそのサラダバーへと殺到した。
そして、次の瞬間、食堂は一つの巨大な感動のシンフォニーに包まれた。
「うわあああああっ! 美味い!」
「なんだ、このキュウリは! パリパリじゃないか! 水分がすごいぞ!」
「見て、ママ! イチゴが私の顔くらい大きいわ!」
「……信じられない……。……俺は今、月の上で、故郷のばあちゃんが畑で作ってくれたトマトよりも美味いトマトを食ってるのか……?」
その熱狂の渦の中で、一人のヨーロッパから来たジャーナリストが、隣に座っていたJAXAの職員に、興奮気味に尋ねた。
「……素晴らしい! これは、素晴らしい奇跡だ! ……だが、一体どうやって? ……この月面で、これほどの品質の野菜を……?」
JAXAの職員は、その質問を待っていたかのように、誇らしげに、そしてあらかじめ用意されていた完璧な脚本を読み上げた。
「……ええ。……これは、我々日本が『星見子の遺産』の中から発見した、特別なアーティファクトの力なんですよ」
彼は、さも当然といった顔で言った。
「……この特別な土壌を使えば、どんな不毛の大地でも、数日でこれほどの作物を育てることが可能になるんです。……まあ、残念ながら、この『神饌(SHINSEN)』ブランドの野菜は、地球では日本国内限定で、しかも超高級品として販売されているんですがね。……ですが、ここ月面都市では、プロジェクトの成功を祈願して、当面の間、全ての居住者に無償で提供させていただいております」
そのあまりにも気前が良く、そしてどこまでも日本の優位性を誇示する説明。
ジャーナリストは、目を丸くした。
「…………つまり……。……我々は今、地球のどんな億万長者でも、滅多に口にできないという幻の高級野菜を、この月の上でタダで食べていると……?」
「……まあ、そういうことになりますかな」
そのあまりにも衝撃的な事実に、ジャーナリストは、もはやペンを握ることも忘れ、ただ目の前のサラダを、まるで神への祈りを捧げるかのように、敬虔な手つきで口へと運び始めた。
その日の夜、彼の書いた記事が、地球へと配信された。
『――アルカディア・ベースからの第一報:月面都市の飯は、地球のどんな三ツ星レストランよりも美味かった』
そのあまりにも扇情的で、しかしどこまでも真実のレポートは、地球上で新たな、そしてより巨大な熱狂の炎を燃え上がらせることになる。
月へ行きたい。
ただ、あの奇跡の野菜を食べるためだけに。
そのあまりにも純粋で、そしてどこまでも本能的な欲望が、人類の宇宙への憧れを、さらに、さらに加速させていったのだ。
そのあまりにも平和で、そしてどこまでも幸福な月面の食卓の風景を、日本の山奥の究極の理想郷で、全ての元凶である男が、縁側で寝転がりながら、スマートフォンの小さな画面で、実に満足げに眺めていた。




