第116話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、子供たちは、その手にしたあまりにも強力すぎる玩具を巡って、新たな、そしてより危険な遊びのルールを、自分たち自身の手で創造し始めていた。
世界は、希望に満ちていた。
『プロジェクト・アルカディア』――人類の叡智の結晶である月面都市計画は、そのあまりにも無謀な一ヶ月という納期を前に、奇跡的なまでの速度で進捗していた。
JAXA相模原キャンパスの巨大な合同設計室は、もはや国連総会よりも多国籍で、そして混沌とした熱気に包まれていた。壁という壁は、各国の技術者たちが書き殴った数式と設計図で埋め尽くされ、室内には英語、日本語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、中国語が入り乱れ、コーヒーとエナジードリンクの匂いが立ち込めている。
彼らは、殴り合わんばかりの勢いで議論を戦わせていた。
「だから! このドッキングポートの気密シールの素材は、我々NASAが開発した最新のポリマーを採用すべきだと言っている!」
「何を言うか、ハミルトン! その素材は、月の夜の絶対零度に耐えられんことが、我々のシミュレーションで証明されている! ここは、我がロスコスモスの実績あるチタン合金を使うべきだ!」
「ノン! あなた方の、その無骨な設計は美しくない! このモジュールは、人類の芸術でもあるのですぞ!」
彼らは、確かに殴り合いをしていた。
だが、その瞳の奥には、同じ夢を共有する者同士の、確かな信頼と敬意の光が宿っていた。
人類は、一つの目標の下に、確かに団結していた。
そのあまりにも美しく、そしてどこまでも理想に満ちた光景。
だが、その光の届かぬ遥か地下深く、官邸の危機管理センターでは、全く別の、そしてどこまでも冷徹な計算が、静かに、そして着実に進められていた。
その日の午後、日本の、そして世界の運命を左右する極秘のテレビ会議が、執り行われようとしていた。
官邸の作戦司令室。宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、そして綾小路俊輔官房長官が、巨大なホログラムスクリーンの前に、厳粛な面持ちで座している。
彼らの視線の先、スクリーンに映し出されているのは、ワシントンD.C.、ホワイトハウスのシチュエーションルーム。
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンが、その鷲のような鋭い瞳で、こちらを静かに見据えていた。
彼の背後には、国防長官ソーン元帥や、国家情報長官ヴァンスといった、この星の片側を支配する帝国の、最も危険な頭脳たちが控えている。
「………………」
「………………」
画面越しに交わされる、重い、重い沈黙。
トンプソン大統領の胸中には、一つの巨大な疑念が渦巻いていた。
『――日本政府より、緊急の最高首脳部会談の申し入れ』
そのあまりにも唐突な要請。
彼は、その裏に何かがあることを、その長年の政治家としての嗅覚で感じ取っていた。
(……嫌な予感がするな)
彼は、内心で呟いた。
(……あの老獪な狸どもが、ただ世間話をするためだけに、この俺の時間を奪うはずがない。……奴らは、必ず何かを企んでいる)
だが、彼はその会談を受けるしかなかった。
なぜなら、今の世界のパワーバランスは、あまりにも歪に、そしてあまりにも滑稽に、あの極東の島国が所有する一隻の神の船によって、完全に支配されてしまっていたのだから。
その重苦しい空気を破ったのは、宰善総理の、どこまでも穏やかで、そしてどこまでも計算され尽くした第一声だった。
「――トンプソン大統領。……お忙しい中、こうして時間を作っていただいたこと、心より感謝申し上げる」
そのあまりにも完璧な、そしてどこまでも心のこもっていない儀礼的な挨拶。
トンプソンは、ただ黙って頷いた。
そして宰善総理は、この日のために綾小路と共に練り上げた、最高の、そして最も悪魔的な脚本の最初のページをめくった。
彼は、その老獪な顔に、深い憂慮と、そして同盟国への絶対的な信頼の色を浮かべて言った。
「…………えー……実はですな。……本日、こうして緊急にご連絡を差し上げたのは、他でもありません。……我が国が、そしておそらくは我々人類憲章連合全体が、一つの新たな、そして極めて深刻な脅威に直面していることを、ご報告するためなのです」
そのあまりにも不穏な切り出し。
シチュエーションルームの空気が、一気に張り詰めた。
「……この話は、絶対の機密事項として扱っていただきたい。……ここだけの話にして欲しいのですが……」
宰善総理は、そこで一度言葉を切った。
そして彼は、この世界の歴史を永遠に変えることになる、嘘と真実が巧みに織り交ぜられた、究極の爆弾を投下した。
「………………先日、我が国に対し、中華人民共和国から、非公式な、しかし最高レベルでの打診がございました」
「…………その内容は、信じがたいものでした。……彼らは、こう言ってきたのです」
「――『中国政府として、火星にコロニーを創りたい。……ついては、貴国が所有する宇宙船『やまと』の独占的な使用権を、購入したい』と」
静寂。
絶対的な、静寂。
ホワイトハウスのシチュエーションルームは、まるで時間が止まったかのように、完全に静まり返っていた。
トンプソン大統領も、ソーン元帥も、ヴァンス長官も、その口を半開きにしたまま、完全に凍り付いていた。
彼らのその完璧なポーカーフェイスが、一枚、また一枚と、音を立てて剥がれ落ちていく。
そのあまりにも美しい、そしてどこまでも計算通りの反応。
それを、日本の司令室で見ていた綾小路は、その扇子で口元を隠しながら、くつくつと喉の奥で笑っていた。
(……食いつきましたな)
やがて、その長い長い沈黙を破ったのは、トンプソン大統領の、心の底から絞り出したかのような深いため息だった。
「…………はーーーーーーーーーー……」
その息遣いには、驚愕と、怒りと、そしてそれ以上に、このあまりにも面倒くさい世界の現実に心底うんざりしたという、深い、深い疲労の色が滲んでいた。
「…………おいおい、マジかよ。……中国政府……」
彼の口から、素の、そしてどこまでも人間臭い悪態が漏れた。
彼は、天を仰いだ。
そして彼は、言った。
「………………あー。……宰善総理。……そのあまりにも馬鹿げた、しかし重要な情報を我々と共有してくれたこと、まずは感謝する。……そして、率直に言おう。……こちらとしては、それは何としても阻止したい」
そのあまりにも率直な、そしてどこまでも予想通りの答え。
宰善総理は、その顔に深い苦悩の色を浮かべて頷いた。
「……ええ。……我々も、全く同じ気持ちです。……ですが」
彼は、そこで再び言葉を切った。
「…………しかし、我々だけで彼らを阻止できると、お思いか?」
そのあまりにも弱々しい、そしてどこまでも相手に判断を委ねる完璧なパス。
「………………」
「……ええ、そうですね。……我々も、この申し出をただ無下に断るのは、あまりにもまずいと感じております。……彼らは、本気です。……我々が断れば、彼らは必ずや、別の、より強硬な手段に打って出てくるでしょう」
そのあまりにも的確な、そしてどこまでもアメリカの危機感を煽る分析。
トンプソンは、ぐっと唇を噛み締めた。
「…………だよなぁ……」
彼は、唸った。
「……火星にコロニーか。……連中が欲しいのは、ただの赤い石ころではない。……火星そのもの、いや、この太陽系の未来の覇権が欲しい、という認識で良いのだな?」
「……ええ。そうでしょうな」
宰善総理は、深く頷いた。
「……実効支配を目指すという、明確な方針でしょう。……そして、その野望を、彼らは隠そうともしていない」
そのあまりにも絶望的な未来予測。
シチュエーションルームの空気が、さらに重くなる。
その中で、トンプソンが、ふと、まるで独り言のように呟いた。
「…………うーん。……アメリカ政府としても、火星にコロニーは欲しいのだがな……」
そのあまりにも正直な、そしてどこまでも本音の言葉。
それを、宰善総理は待っていた。
彼は、その老獪な顔に、これ以上ないほどの困惑と、そして純粋無垢な表情を浮かべて言った。
「…………ええ。……そうでしょうな。……ですが、不思議なもので」
彼は、首を傾げた。
「…………日本といたしましては、我々は月で充分ですね。……ええ。……まずは足元の、この美しい月を人類全体の故郷とすること。……それ以上の野心は、我々にはございませんでな」
そのあまりにも謙虚で、そしてどこまでも無欲な(ように見える)宣言。
(……まあ、日本はそこまで野心はないから良いか)
トンプソンは、内心でそう思った。
そして彼は、この問題が、もはや日米中という三カ国だけの問題ではないことに気づいた。
「…………我々だけではない。……いずれ、ロシアからも、この要求は来ると考えておいた方が良いな」
「…………おっしゃる通りです」
「………………」
トンプソンは、立ち上がった。そして、シチュエーションルームの中を、まるで檻の中の虎のように、苛立たしげに歩き回り始めた。
そして彼は、結論に達した。
「………………『やまと』の運用に関する、国際的なルールが必要だ」
そのあまりにも真っ当な、そしてどこまでも彼が言うべきではなかった一言。
それを、日本の司令室で聞いていた綾小路が、扇子の影で勝利の笑みを浮かべた。
(……かかりましたな)
「…………あー……やっぱり、そういう話になりますよねえ」
宰善総理が、心底困ったというように、そしてどこまでも計算通りに答えた。
「……ええ。……我々も、もちろん、その必要性は痛いほど理解しております。……ですが」
彼は、その老獪な顔に、深い、深い憂慮の色を浮かべた。
「…………今のところ、そのルールを細かく決めてしまうと、結果として、その船の唯一の所有者である我々自身が、最も雁字搦めになってしまう。……他国の様々な思惑に、その運用を縛られてしまう。……そうは、思いませんか?」
「…………故に、我々といたしましては、今はまだ、その細かい運用ルールを決めたくはない。……というのが、正直なところでして……」
そのあまりにも見事な、そしてどこまでも自分勝手な、しかし絶対的な正論。
トンプソンは、完全に詰んでいた。
そうだ。
その通りだ。
ルールを作れば、一番損をするのは、ルールを作るように仕向けた張本人ではなく、そのルールの対象となる唯一のプレイヤー、つまり日本なのだ。
そして、日本がそのルール作りを拒否すれば、この混沌とした状況は永遠に続く。
その混沌の中で、最も得をするのは誰か。
中国だ。
そして、その混沌の尻拭いをさせられるのは誰か。
世界の警察を自負する、このアメリカ合衆国だ。
「…………だよなー……」
トンプソンは、その場に崩れ落ちるように、椅子に深く身を沈めた。
「…………中国政府も、そこまで読んで、この手を打ってきたのだろうしな……」
彼は、完全に敗北した。
日本の、この老獪な狸たちが仕掛けた、あまりにも美しく、そしてどこまでも残酷な外交的チェスゲームの前に。
そのあまりにも重く、そしてどこまでも絶望的な沈黙の中で、宰善総理が、その最後の、そして最も慈悲深い(ように見える)とどめの一撃を放った。
「…………つきましては、トンプソン大統領」
彼の声は、どこまでも優しかった。
「……このあまりにも巨大すぎる問題。……我々だけでは、もはや抱えきれません。……どうか、我らが最も信頼する同盟国として、そしてこの自由世界のリーダーとして、貴国のお知恵と、お力をお貸し願えないでしょうか……?」
そのあまりにも見事な、そしてどこまでも責任を丸投げする究極の一手。
トンプソンは、もはや笑うしかなかった。
彼は、その疲れ切った顔に、乾いた、そしてどこまでも哀愁に満ちた笑みを浮かべて答えた。
「………………ああ。……分かったよ、宰善。……その厄介なボールは、確かに我々が預かろう」
会議は、終わった。
日本は、その最大の懸案事項を、最も信頼する同盟国へと、完璧な形で押し付けることに成功した。
アメリカは、その望まぬ形で、再び世界の警察官としての重すぎる責務を、背負わされることになった。
そして、その全ての茶番劇の裏側で、中国の龍は、静かに、そして満足げに、その次の、そしてより巨大な一手を打ち始める準備を整えていた。
神の不在の間に、子供たちは、神さえも驚くほどの狡猾さと、知恵をその身につけてしまっていたのだ。




