第115話
京都の夜は、その千年変わらぬ静けさで、訪れる者の魂を優しく、そして容赦なく洗い流していく。だが、その日の夜、古都から東京へと戻る政府専用機の機内を満たしていたのは、静寂ではなかった。それは、一つの巨大な衝撃波が通り過ぎた後の耳鳴りのような、そしてどこまでも重苦しい沈黙だった。
宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、綾小路俊輔官房長官、そして外務大臣の古賀。日本の外交と安全保障の全てをその双肩に担う四人の巨頭は、それぞれの座席で、窓の外を流れる漆黒の闇をただ無言で見つめていた。
彼らの脳裏には、数時間前にあの料亭の一室で繰り広げられた、あまりにも非現実的な、しかし絶対的な現実が、悪夢のように焼き付いて離れなかった。
『――火星にコロニーを創りたい』
『――その時は、我が中国政府が、その全ての使用権を買い取ります』
あの穏やかな老人の顔をした龍の、静かな、しかしこの星の地殻そのものを揺るがすかのような、絶対的な国家意志の咆哮。
その衝撃の余韻が、未だに機内の空気をビリビリと震わせているかのようだった。
最初にその沈黙を破ったのは、綾小路官房長官の、心の底からの、そしてどこか楽しげですらある深いため息だった。
「………………はー……。……いやはや、これは……」
彼は、その手に持っていた扇子をぱちりと開き、自らの顔を仰ぎながら言った。
「…………まじかよ、というのが正直な感想ですな。……ぶっ飛んでる。……さすがは中国と言うべきか。……いや、こんなことをご本人の前で言ったら、さすがに怒られますかな。……はっはっは」
そのあまりにも不謹慎な、そしてどこまでも彼の本質を突いた軽口。
それに、外務大臣の古賀が、その青ざめた顔で睨みつけた。
「……綾小路君! ……君は、これがどれほどの事態か分かっておるのか! ……これは、もはや外交問題ではない! ……人類の新たな宇宙時代の覇権を巡る、宣戦布告そのものだぞ!」
「分かっておりますとも」
綾小路は、その扇子で顔を隠したまま、くつくつと喉の奥で笑った。
「…………いやはや、しかし実際問題として、そのスケール感の違いは、我々も見習うべきところがあるやもしれませんな。……実に、勉強になる」
そのあまりにも他人事のような分析。
だが、その言葉に、これまで沈黙を守っていた橘紗英が、静かに、しかし鋭く口を挟んだ。
「……ええ。……ですが、そのスケール感の違いの根源は、我々と彼らとの間の、根本的な『前提条件』の違いにあります」
彼女の氷のような声が、機内の浮ついた空気を引き締める。
「……中国は、火星こそが次なるフロンティアだと考えている。……そこに、国家の威信と未来の全てを賭けている。……だからこそ、あの常軌を逸した提案が出てくる」
「…………しかし、火星ねえ」
宰善総理が、初めてその重い口を開いた。
「…………そこまでして、名誉が欲しいということですかな。……我々からしてみれば、まずはこの地球の足元の問題を片付けるのが先では?と、そう思ってしまいますがな」
そのあまりにも真っ当な、そしてどこまでも日本人らしい感想。
それに、綾小路が扇子の向こう側で、再びくつくつと笑った。
「……総理。……彼らが欲しいのは、もはやただの名誉ではありますまい。……火星に、最初に人類の恒久的なコロニーを建設する。……それは、すなわち、あの赤い星の事実上の『所有権』を、全世界に向けて宣言するということですぞ。……まあ、本当にそこまで話が進むのは、彼らが火星を完全に実効支配できるようになる、百年、あるいは二百年後の話でしょうが……。……あの龍は、その遥か未来への最初の布石を、今この瞬間に打ってきたのです」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも冷徹な分析。
だが、その分析を、橘は静かに、しかしきっぱりと否定した。
彼女の瞳には、この世界の他の誰にも見えていない、全く別の景色が映っていた。
「…………いいえ、綾小路長官。……それも、少し違います」
「…………ほう?」
「…………我々と彼らとの間の本当の『温度差』は、そこにはありません」
橘は、そこで一度言葉を切った。
そして彼女は、この国の、そしてプロジェクト・キマイラの最も深く、そして最も重要な最高機密を、まるで当たり前の事実であるかのように、静かに口にした。
「…………日本政府としては、正直なところ」
彼女の声は、どこまでも平坦だった。
「…………賢者様との関係を維持できていれば、今後、我々は火星どころか、全く別の、そしてより豊かで、より住みやすい『異世界』そのものへと進出することも可能になるかもしれない。……そう、考えておりますので」
「………………」
「…………我々にとって、火星という不毛の赤い大地には、もはやさして魅力を感じないのですよ」
そのあまりにも衝撃的な、そしてどこまでも傲慢な国家の真実。
機内は、再び死んだように静まり返った。
そうだ。
忘れていた。
いや、この国の最高首脳部だけが、知っていた。
自分たちが手にしている奇跡は、宇宙船『やまと』だけではない。
自分たちの背後には、いつでも、どこでも、全く新しい世界への扉を開くことができる、本物の「神」がいるのだ。
「…………あー、それな」
綾小路が、ぽん、と扇子で膝を打った。
「…………温度差は、そこにあるわけですな、なるほど。……異世界という、文字通りの『金のなる木』がある我々からすれば、火星の開拓などに国家予算を注ぎ込むのは、確かに馬鹿馬鹿しい。……その点については、この場にいる全員の共通認識と見て、よろしいですかな?」
その問いに、宰善総理も、古賀も、そして橘も、深く、深く頷いた。
「…………まあ、もちろん、この本音は決して表に出さないように、今後は細心の注意を払いましょう。……アメリカの友人たちが聞けば、卒倒しかねませんからのう」
綾小路は、そう言って悪戯っぽく笑った。
彼らは、ようやく自分たちの足元を、そして自分たちが立っているこの世界のチェス盤の本当の形を、再認識した。
自分たちは、もはや他の国々と同じルールで戦ってはいないのだ。
自分たちは、このゲームの唯一の「チートプレイヤー」なのだと。
「…………さて」
宰善総理が、その顔に再び老獪な政治家の貌を取り戻した。
「……それより問題は、中国に対する具体的な返答ですが……。……皆様、どうお考えか?」
その問いに、綾小路が待っていましたとばかりに、その蛇のような瞳を輝かせた。
そして彼は、この国の、そしてこの世界の歴史上最も狡猾で、そして最も無責任な究極の外交戦略を、そのテーブルへと叩きつけた。
「…………アメリカ政府に、丸投げしましょうかな」
「…………………………………………は?」
そのあまりにも突拍子もない提案に、外務大臣の古賀が素っ頓狂な声を上げた。
「ま、丸投げですと!? 綾小路君、君は正気か!?」
「ええ、正気ですとも」
綾小路は、その扇子で自らを仰ぎながら、どこまでも涼しい顔で言った。
「……考えてもみてください、古賀大臣。……中国のこの火星進出計画。……これを、最も脅威に感じているのは、一体どこの国ですかな?」
「……それは、無論アメリカで……。……あっ」
古賀は、言葉の途中で、そのあまりにもシンプルで、そしてあまりにも悪魔的な戦略の、その全てを理解してしまった。
綾小路は、にやりと笑う。
「……その通り。……アメリカ政府のことです。……この話を耳にすれば、彼らは必ずや我々以上の危機感を抱いてくれるでしょう。……『アジアの、そして宇宙の覇権を、あの赤い龍に渡すわけにはいかない』と。……我々がすべきことは、ただ一つ。……『中国からこのような無茶な提案を受けてしまい、我々だけでは判断に困っております。……我が国が誇る最も信頼すべき同盟国であるアメリカの皆様の、お知恵をぜひお借りしたい』と、涙ながらに泣きつくだけです」
そのあまりにも見事な、そしてどこまでも他人任せな、完璧な脚本。
「………………アメリカ政府が、可哀想ですな」
橘が、その氷のような声で、しかしその目の奥には確かな面白がる色を浮かべて、ぽつりと呟いた。
「…………はっはっは! それは、そうですな!」
綾小路が、腹を抱えて笑った。
「……だが、彼らも喜ぶでしょう。……自分たちが、再びこの世界の『リーダー』として采配を振るう機会を与えられるのですからな。……もちろん、その交渉にかかる全ての費用と、そして政治的リスクは、全て彼らが背負うことになりますが」
そのあまりにも悪魔的な、そしてどこまでも官僚的な解決策。
宰善総理は、しばらくの間、目を閉じていた。
そして、やがてその口元に、深い、深い、そしてどこまでも楽しげな笑みを浮かべて言った。
「…………よかろう。……その線で、進めなさい」
その鶴の一声で、日本の、いや世界の新たな未来は決定された。
神の不在の間に、神の玩具を手にした子供たちは、その玩具の使い方だけでなく、その玩具を巡る面倒な揉め事を他の子供になすりつけるという、最も高度な知恵をも身につけてしまっていたのだ。
だが、その完璧な脚本の最後のページに、外務大臣の古賀が、一つの小さな、しかし決して無視できない不吉な注釈を書き加えた。
彼の顔は、まだ青ざめたままだった。
「………………ですが、総理。……一つ、よろしいでしょうか」
「なんだね、古賀君」
「………………しかし、火星にコロニーを創るという野望は、おそらくはアメリカ政府もまた、心の奥底で目指しているところでもあるでしょう」
「………………」
「……我々が、この二頭の巨大な龍と鷲の間に、火星という名の燃え盛る餌を投げ込むことは……。……彼らの闘争本能を、我々の想像を遥かに超えるレベルで、刺激してしまうことにはなりませんかな……?」
そのあまりにも真っ当な、そしてどこまでも的を射た懸念。
会議室は、再び静まり返った。
彼らは、気づいてしまった。
自分たちがやろうとしていることは、ただの責任転嫁ではない。
それは、二頭の眠れる怪物を、故意に、そして確信犯的に叩き起こす行為なのだと。
そして、その怪物たちが暴れ出した時、この矮小な島国が、本当に無傷でいられるのかどうか。
その答えを、まだ誰も知らなかった。
日本の、そして世界の眠れぬ夜は、まだ始まったばかりだった。




