第114話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、子供たちは、その手にしたあまりにも強力すぎる玩具を巡って、新たな、そしてより危険な遊びのルールを、自分たち自身の手で創造し始めていた。
世界は、希望に満ちていた。
日米両政府が共同で発表した『プロジェクト・アルカディア』――一ヶ月で月面に恒久的な多国籍基地を建設するという、あまりにも壮大で、そしてどこまでも心を躍らせる計画。そのニュースは、世界中を駆け巡り、人々をSFが現実となる時代への熱狂的な期待の渦へと叩き込んだ。
だが、その輝かしい光の裏側、水面下では、地殻プレートが軋むように、新たな、そしてより静かなる戦争の予感が、日増しにその圧力を高めていた。
その日、日本の古都、京都。
東山の麓に静かに佇む一軒の料亭。そこは、この国の真の権力者たちだけが、その存在を知ることを許された、究極の聖域だった。数寄屋造りの簡素な、しかし一分の隙もなく磨き上げられた一室。その障子の向こうには、計算され尽くした庭園の静寂が広がり、鹿おどしが時折、心地よい音を響かせている。
そのあまりにも日本的な、そしてどこまでも張り詰めた静寂の中に、四人の男たちが座していた。
一方は、日本国政府。宰善茂総理大臣、その懐刀である綾小路俊輔官房長官、そして外務大臣の古賀。
そして、その対面に座すのは、中華人民共和国からの最高レベルの使節団。国家主席の最も信頼厚い腹心であり、党の序列でも五指に入るとされる王毅政治局常務委員。その隣には、鉄の女の異名を持つ外務大臣の陳が、完璧な笑みを浮かべて控えている。
テーブルの上には、この国の季節の粋を集めた懐石料理が、芸術品のように並べられている。だが、その美しい料理に箸をつけようとする者は、誰もいなかった。
「――いやはや、素晴らしい」
最初に沈黙を破ったのは、王毅だった。彼の日本語は、完璧な発音と、そして老獪な政治家だけが持つ、どこか人を食ったような響きを持っていた。
「……月面都市計画、まことに素晴らしい構想ですな。……我が国も、オブザーバーとして、その歴史的な一歩に参加できること、心より光栄に思います。……宰善総理、貴殿の指導力には感服いたしましたぞ」
そのあまりにも丁寧な、そしてどこまでも儀礼的な賛辞。
「いえいえ、王毅先生。……これも、貴国をはじめとする国際社会のご理解とご協力があってこそ。……我々は、ただ人類全体の夢の、ささやかなお手伝いをさせて頂いているに過ぎません」
宰善総理もまた、その完璧な政治家の笑顔で、その言葉を返した。
建前。
どこまでも、建前。
互いの腹を探り合う、静かな、しかし熾烈な探り合いが、数分間続いた。
やがて、そのあまりにも退屈な茶番劇に、王毅が自ら幕を下ろした。
彼は、ふっとその表情から笑みを消した。
そして、その瞳の奥に、この世界の半分を支配する龍の、鋭い、そしてどこまでも本気の光を宿して言った。
「――ええ。……建前は、これくらいにしておきましょうかな」
その一言で、部屋の空気が凍り付いた。
「……宰善総理。……単刀直入に申し上げます。……本日、我々がここに来たのは、月面都市開発の輪に入れていただいたことへの感謝を述べるためだけでは、ございません」
彼は、言った。
「…………我々は、あの神の船『やまと』の使用権を、購入したいと考えております」
使用権。
そのあまりにも直接的で、そしてどこまでも傲慢な言葉。
綾小路官房長官の、その蛇のような目が、すう、と細められた。
外務大臣の古賀の額に、一筋の冷や汗が伝った。
だが、宰善総理だけが、その表情を崩さなかった。彼は、まるでその言葉が来ることを最初から知っていたかのように、静かに、そしてただ黙って王毅の次の言葉を待っていた。
王毅は、続けた。
その声には、もはや外交的な配慮など微塵もなかった。
そこにあるのは、一つの超大国の、揺るぎない、そして絶対的な国家意志だけだった。
「…………ずばり、申し上げます。……我々中国政府として、火星にコロニーを創りたいのです」
火星。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも日本の計画の先を行く野望。
「…………いやはや」
綾小路が、その扇子で口元を隠しながら、初めて声を発した。
「……いきなり火星にコロニーでございますか。……随分と、ぶっ飛んだお話ですな。……月面では、ダメなのですかな?」
その皮肉めいた問いに、今度は外務大臣の陳が、その鉄の女の仮面を崩さず、冷徹に答えた。
「……月は、あなた方日米が主導する『ゆりかご』に過ぎない。……我々が見据えておりますのは、その先の真のフロンティアです」
彼女は、手元の端末を操作し、部屋の中央に一つのホログラムを投影した。
それは、地球と火星の公転軌道を示す、完璧な天体シミュレーションだった。
「……我々の最高の科学者たちが、貴国が公表された『やまと』のスペックを分析いたしました。……光速の10%という、その驚異的な速度。……それを用いれば、地球と火星が最も接近するタイミングであれば、所要時間は片道約30分。……最も離れた位置にある場合でも、4時間近くあれば到達可能。……往復で、一時間から八時間ですかな?」
そのあまりにも的確な、そしてどこまでもこちらの内情を分析し尽くしたデータ。
日本の閣僚たちは、もはや言葉もなかった。
彼らは、ただ黙って頷くことしかできなかった。
「……我々は、この歴史的な好機を逃すつもりはありません」
王毅が、言った。
「……つきましては、宰善総理。……多めに見積もっていただいて結構。……この『やまと』の一日の使用権。……そのお値段を、決めていただきたい」
そのあまりにも一方的な、そしてどこまでも有無を言わさぬ要求。
「…………お待ちください」
宰善総理が、ようやくその重い口を開いた。
「……王毅先生。……さすがに、値段を決めろと言われて、即座に決められるような代物ではございません。……あれは、もはやただの船ではない。……神の気まぐれが生み出した、世界の理そのもの。……固定した値段など、提示できるはずもない。……おおよそ、時価で変わるものとご認識いただきたい」
そのあまりにも官僚的で、そしてどこまでも時間を稼ごうとする老獪な返答。
だが、王毅は動じなかった。
「……結構。……ならば、その『時価』とやらを、今すぐ決めていただきたい。……いくらでも、払う用意はありますぞ」
「……ですが、仮に中国政府にその使用を許可したとなりますと、他の国々も黙ってはおりますまい」
外務大臣の古賀が、最後の抵抗を試みた。
「……アメリカが、ロシアが、そして欧州が、『我々にも使わせろ』と、そう言ってくるのは目に見えております。……そうなれば、この『やまと』の運用は、完全に……」
そのあまりにも正論な懸念。
だが、その懸念を、王毅は、この日一番の、そしてどこまでも絶対的な一言で、粉々に打ち砕いた。
「――その時は」
彼は、言った。
その瞳には、世界の半分をその掌に収めた龍の、絶対的な傲慢さと、そして自信が宿っていた。
「――その時は、我が中国政府が、その全ての使用権を買い取ります」
「…………………………………………」
静寂。
絶対的な、静寂。
日本の閣僚たちの思考が、完全に停止した。
今、この男は、何と言った?
全ての使用権を、買い取ると?
それは、もはやただの交渉ではない。
一つの超大国が、神の奇跡そのものを、その圧倒的な国力と財力で「独占」するという、あまりにも恐るべき、そしてどこまでも傲慢な宣戦布告だった。
「…………火星にコロニーを創るという名誉。……そして、その先に広がる無限の可能性」
王毅は、続けた。
「……それを手に入れるためならば、我が国は、いかなる対価も支払う覚悟があります。……それこそが、我が国が定めた最優先の国家事項なのですから」
そのあまりにも揺るぎない、そしてどこまでも狂気じみた国家意志。
宰善総理は、もはやその老獪な政治家の仮面を保つことさえ、困難になっていた。
彼の額に、一筋の冷や汗が伝う。
彼は、悟った。
自分たちが、神の玩具を手にした唯一の子供だと思っていたことが、いかに甘い考えであったかを。
その玩具を、喉から手が出るほど欲しがっている、もう一人の、自分たちよりも遥かに大きく、そして遥かに強欲な子供が、すぐ隣にいたのだ。
「…………うーん」
宰善総理が、ようやく絞り出したのは、そんな間の抜けた呻き声だけだった。
「…………心意気は分かりましたが……。……しかし、それはあまりにも先の話過ぎますな」
彼は、必死で、この危険すぎる交渉のテーブルを一旦たたむための言葉を探していた。
「…………使用権を購入したいという貴国のお考えは、理解いたしました。……ですが、この話はあまりにも巨大すぎる。……今日のところは、この話は、まだ我々だけの機密ということにしておきましょう」
そのあまりにも苦しい時間稼ぎの提案。
王毅は、それに静かに頷いた。
彼は、目的を達したのだ。
日本の、そしてアメリカの脳髄に、「火星」という名の、決して消えることのない楔を打ち込むという、その目的を。
「…………分かりました」
彼は、立ち上がった。
「…………ですが、宰善総理。……これだけは、お忘れなく」
彼は、その鋭い目で、日本の老獪な狸を射抜くように見つめた。
「…………我が国は、本気ですので」
「…………ええ。……分かりました」
その夜、京都から東京へと戻る政府専用機の、静かな機内。
宰善総理と橘と綾小路は、その窓の外を流れる夜景を、ただ無言で見つめていた。
その沈黙を破ったのは、総理の心の底からの、深いため息だった。
「…………ふー……。…………マジか」
彼の、そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも素直な一言。
「…………中国政府、ここまでやるか。……連中は、本気だ。……月面都市計画で浮かれている間に、完全にその先を行かれてしまったわい……」
彼は、頭を抱えた。
「…………日本政府として、見解を決めねばならん。……この龍の、あまりにも巨大すぎる要求に、どう応えるか。……いや、どういなすか……」
彼らは、神の不在の間に、自らが世界の新たな支配者になったのだと、ほんの少しだけ驕っていたのかもしれない。
だが、現実は違った。
神の不在は、新たな神の誕生を促すのではない。
それは、ただ古くからこの地に眠っていた、巨大な龍や鷲や熊といった古の怪物たちを、再び目覚めさせるための合図に過ぎなかったのだ。
そして、彼らは今、その怪物たちの剥き出しの欲望の、ど真ん中に立たされている。
神の玩具を、一つだけ、その手に握りしめて。
日本の、そして世界の眠れぬ夜は、まだ始まったばかりだった。




