第110話
賢者・猫が、神の如き気まぐれで去っていった後の那古野城、信秀の執務室は、静まり返っていた。だが、その静寂は、安らぎとは程遠い。それは、あまりにも巨大すぎる奇跡と、そしてあまりにも重すぎる宿題を前にした人間たちの、畏怖と、興奮と、そして計り知れないほどの重圧が渦巻く、嵐の前の静けさだった。
織田信秀、信長、そして平手政秀。三人の男たちは、ただ黙って、机の上に置かれた一つの木箱を見つめていた。
その中には、穏やかな乳白色の液体が満たされた百本の小瓶が、まるで神々の涙の結晶のように、静かな輝きを放っている。
『怪我治癒の霊薬』。
手足がちぎれようとも、腹に風穴が開こうとも、これを飲めば治るという神の薬。
そのあまりにも現実離れした言葉の響きが、彼らの頭の中で、何度も、何度も反響していた。
「………………」
長い沈黙を最初に破ったのは、傅役である平手政秀の、かすれた声だった。
「…………殿。……若。……これは、まこと……まことなのでございましょうか。……かの賢者殿は、時に我々をからかうような、子供じみた悪戯をなさる御方。……これもまた、その一つということも……」
その言葉は、目の前の奇跡を信じたいと願いながらも信じきることができない、老臣の最後の理性から絞り出された、悲痛な叫びだった。
そうだ。
あまりにも、話が出来すぎている。
人の理を、この世の摂理を、あまりにも容易く覆しすぎる。
だが、その弱々しい疑念を、信長が一蹴した。
「平手」
その声は若々しく、しかし絶対的な確信に満ちていた。
「……疑うか。……あの御方を。……この信長のこの力も、この羽衣も、そして今やこの尾張を黄金の国へと変えつつあるあの神の米も、全てはあの御方がもたらした『真実』ぞ。……疑うは、愚者のすることよ」
「……なれど、若……!」
「……まあ、待て、三郎」
その二人を制したのは、信秀だった。
彼は、その鷹のように鋭い目で、霊薬の木箱をじっと見つめていた。
「……平手の申すことも、一理ある。……これは、人の命そのものを左右する代物じゃ。……万が一、ということがある。……その真偽、そしてその効能が真であるか、我々自身の目で見極めるまでは、軽々に信じるわけにはいかぬ」
彼は、立ち上がった。
その顔には、もはや驚きや混乱の色はない。
そこにあるのは、一族郎党の命を預かる当主としての、冷徹な、そして揺るぎない覚悟の表情だった。
「…………試すぞ」
彼は、静かに、しかしきっぱりと言った。
「……この神の薬が、本物であるかどうかをな」
◇
その日の深夜。
那古野城の最も奥深くにある一室。
そこは、普段、重臣たちが密談を交わすために使われる、窓のない、完全に外界から隔絶された部屋だった。
その部屋に、数本の蝋燭の明かりだけが揺らめき、壁に男たちの巨大な影を映し出していた。
部屋の中央には、織田信秀、信長、平手政秀。そして、織田家お抱えの、最も腕の立つ老医師の姿があった。
そして、彼らの前に、一人の若き武者が静かにひざまずいていた。
彼の名は、前田又左衛門利家。まだ元服したばかりの、血気盛んな若者。槍の又左の異名を持つ、信長が最も信頼し、そして可愛がっている小姓の一人だった。
彼は、この恐るべき実験の被験者として、自ら名乗りを上げたのだ。
「……又左。……まことに、よいのだな」
信長が、その声に珍しく感情の色を滲ませて問うた。
「はっ!」
利家は、その若々しい顔に一点の曇りもない、絶対的な忠誠の笑みを浮かべて答えた。
「……この前田又左衛門の命、元より若のため、織田家のために捧げたものにございます! ……この身を以て神の奇跡を証明できるのであれば、これに勝る誉れはございません!」
そのあまりにも潔い覚悟。
信秀は、静かに頷いた。
「……その忠義、見事である。……この織田信秀、生涯忘れぬぞ」
彼は、傍らに控えていた柴田勝家に目配せをした。
勝家は、無言で頷くと、一振りの鋭い脇差を手に、利家の前に立った。
部屋の空気が、張り詰める。
「…………又左。……腕を出せ」
信秀の非情な声が、響いた。
利家は、何の躊躇もなく自らの左腕の小手を外し、その鍛え上げられた若々しい腕を差し出した。
勝家は、一瞬だけ目を閉じた。そして、次の瞬間、その鬼神の如き剛腕が閃いた。
ザシュッ、という生々しい音。
利家の左腕、その前腕部に、骨まで達するほどの、深く、そして長い一筋の斬り傷が刻み込まれた。
鮮血が、噴水のようにほとばしる。
「…………ぐっ……!」
利家の口から、押し殺したような呻き声が漏れた。
だが、彼は決して悲鳴を上げなかった。
「……傷の深さ、骨にまで達しております。……筋も、幾本か断裂。……通常の治療であれば、完治までに数ヶ月。……下手をすれば、この腕は二度と元のように槍を振うことはできなくなりまするぞ」
老医師が、青い顔で、冷静に所見を述べる。
「…………うむ」
信秀は頷いた。そして、彼は震える手で、あの木箱の中からポーションの小瓶を一つ取り出した。
そのコルクの栓を抜くと、部屋の中に、これまで誰も嗅いだことのない、甘く、そしてどこか生命の息吹そのものを感じさせるような清浄な香りが広がった。
彼は、その乳白色の液体を、利家の夥しい血を流す傷口の上へと、ゆっくりと、数滴だけ滴下した。
次の瞬間。
その場にいた全ての人間が、神の御業の目撃者となった。
奇跡が、起きた。
霊薬が傷口に触れた瞬間、あれほど激しく流れ出ていた出血が、まるで時間を逆再生するかのように、ぴたりと止まったのだ。
そして、裂かれた肉が、断裂した筋が、まるで意思を持つかのように蠢き始めた。
肉芽組織が、通常では考えられないほどの速度で盛り上がり、裂かれた断面が、互いを求め合うように引き寄せられていく。
ジジジ、という微かな、しかし確かな組織が再生する音さえ、聞こえてくるかのようだ。
それは、もはや治癒ではなかった。
創造だった。
生命そのものの、再創造。
ものの数十秒。あれほど深々と裂かれていたはずの傷口は、完全に跡形もなく塞がっていた。
そこには、うっすらとピンク色の、生まれたての赤子のような皮膚があるだけで、傷跡さえ残っていない。
「…………………………………………」
誰もが、言葉を失っていた。
老医師は、その場に腰を抜かし、ただぱくぱくと口を動かすだけだった。
勝家は、自らが握る脇差を、まるで呪われた魔剣でも見るかのように、信じられないといった顔で見つめている。
そして、被験者である前田利家。彼は、自らの左腕を、恐る恐る動かしてみた。
指を開き、握りしめる。手首を回し、肘を曲げる。
痛みは、全くない。
違和感も、全くない。
それどころか、傷を負う前よりも、遥かに力が漲ってくるような感覚さえあった。
彼は、立ち上がった。
そして、その場に深々とひざまずくと、その額を床に擦り付け、もはや声にならない、嗚咽混じりの歓喜の声を上げた。
「…………おお……! ……おおおおおおっ……! ……な、治っております……! ……完全に……! ……若! 殿! ……これぞ、これぞまさしく……!」
「………………神仏の力じゃな!」
信秀が、わなわなと震える声で言った。
その目には、もはや疑念の色は一欠片もなかった。
そこにあるのは、人知を超えた絶対的な力に対する根源的な畏怖と、そしてそれを手にした為政者としての、計り知れないほどの興奮だけだった。
「…………素晴らしい……! ……これさえあれば……! これさえあれば、我が織田家は不死身の軍団となる……! ……これぞ、手札として最高じゃ!」
◇
その夜、再び評定の間。
だが、その空気は昼間のそれとは全く違っていた。
そこには、もはや賢者への漠然とした期待や不安はない。
ただ、神の力を現実に手にした者たちだけが共有できる、熱狂的な、そしてどこまでも危険な高揚感が渦巻いていた。
「…………皆、見たな」
信秀が、その場に集まった重臣たちを見渡し、静かに、しかし力強く言った。
「……賢者殿の薬は、本物であった。……いや、本物などという言葉ではあまりにも生ぬるい。……あれは、神の血そのものよ」
その言葉に、その場にいた誰もが、深く、深く頷いた。
「……さて」と、信秀は続けた。
「……問題は、この神の血を、どう使うかだ」
その問いに、これまで黙って成り行きを見守っていた信長が、初めて口を開いた。
彼の目は、もはやただの若者のそれではなかった。それは、天下という巨大な盤面を冷静に見据える、冷徹な勝負師の目だった。
「父上」
彼は、言った。
「…………これは、身内でこそ使うべきものではありませぬか?」
「…………ほう?」
「……考えてもみてください。……この薬があれば、我ら織田家の武将は、もはや戦場での死を恐れる必要がなくなります。……たとえどれほどの深手を負おうとも、この薬一滴で、翌日には再び槍を振うことができる。……柴田権六のような、かけがえのない猛将を、我々は二度と失うことがなくなるのですぞ?」
そのあまりにも合理的で、そしてどこまでも魅力的な提案。
評定の間にいた、武骨な武将たちの目が、一斉に輝いた。
「おお……!」
「若の仰せられる通りだ!」
「不死身の織田軍団……! ……考えただけでも、武者震いがいたしますな!」
彼らは、もはや自分たちが無敵の軍隊となる未来を夢想していた。
「…………うむ。……それは、そうだな」
信秀もまた、その息子の提案に深く頷いた。
武将は、国の宝だ。一人の熟練した将を育てるには、十年以上の歳月と莫大な金がかかる。そのかけがえのない資産を、失うことがなくなる。
その軍事的なアドバンテージは、計り知れない。
「…………とはいえ」
信秀は続けた。その目は、老獪な為政者のそれに戻っていた。
「……この神の薬の力は、それだけにとどまらぬ。……手札として、重病に苦む他国の大名や、京の公家への切り札としても使えるからのう」
彼は、地図を指差した。
「……例えば、美濃の斎藤道三。……あの蝮も、もう歳じゃ。……いつ病に倒れてもおかしくはない。……その最後の時に、この薬をそっと差し出してやれば、どうなる? ……あの老獪な蝮でさえ、我ら織田家に一生頭が上がらなくなるであろうよ。……あるいは、力を失ったとはいえ、未だに日ノ本の権威の象徴である帝。……そのお方がもし病に伏せられた時に、この薬でその御命を救ったとすれば……。……我ら織田家は、この日ノ本の真の『救世主』として、その名を永遠に刻むことになる」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも政治的なビジョン。
今度は、平手政秀をはじめとする文官たちの目が、感嘆に輝いた。
「…………おお……! さすがは、殿……!」
「……武力を用いずして国を、天下を手中に収める……! まさに、覇王の策にございますな……!」
武力か、政略か。
二つの究極の選択肢を前にして、評定の間は再び激しい議論の渦に包まれた。
その混沌の中心で、信秀は、静かに、そして最終的な決断を下した。
「…………どちらもだ」
彼の声が、静寂を取り戻した評定の間に響き渡った。
「…………だが、どちらもまだ早い。……この神の薬は、あまりにも強大すぎる。……あまりにも、危険すぎる。……これを、軽々しく使うべきではない。……これは、我ら織田家が真に天下をその手に収める、その最後の、最後の瞬間まで、決して抜いてはならぬ伝家の宝刀なのだ」
彼は、立ち上がった。
そして、きっぱりと命じた。
「…………まあ、これは厳重に保管しておくか」
「……この百人分の神の薬は、この信秀が、この城の最も奥深く、誰にも知られぬ場所に厳重に封印する。……そして、その存在は、この場にいる者だけの絶対の秘密とする。……よいな?」
「「「ははっ!」」」
そのあまりにも慎重な、しかし為政者として最も賢明な判断に、もはやいかなる異論も存在しなかった。
「…………さて」
信秀は、その顔に再びいつもの猛将の顔つきを取り戻した。
「……夢物語は、ここまでじゃ。……我々が、今、足元で為すべきことは、もっと地道で、そして確実なことよ」
彼は、評定の間の壁に掛けられた尾張国の巨大な地図を指差した。
「…………とりあえずは、尾張中にこの『神の田圃』を広めるのじゃ! ……賢者殿が与えてくださったあの無限の魔石を使い、この尾張を、日ノ本一の、いや世界一の穀倉地帯へと変えるのだ! ……それこそが、我らの全ての力の源泉となる!」
そして、彼は信長に向き直った。
「……三郎! ……そして、お主には賢者殿からのもう一つの宿題を任せる! ……あの茶器だの、能面だの、名刀だのという面倒な代物! ……それらを、何としてでもかき集めてくるのだ!」
彼は、その顔に、苦々しい、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「…………これは、骨が折れるぞ。……だが、あの神との契約を果たさぬ限り、我らに未来はない。……なんとしてでも、成し遂げるのだ!」
「「「御意!!!!!」」」
評定の間に、家臣たちの力強い声が、一つの巨大な鬨の声となって響き渡った。
彼らの心は、今、完全に一つになっていた。
神の奇跡を、ただ待つのではない。
自らの手で、自らの国の未来を、そして天下を掴み取るのだ。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも困難な挑戦の始まりを前にして、彼らの魂は、戦国の武士として、これ以上ないほどの歓喜に燃え上がっていた。
その熱狂の中心で、若き魔王、織田信長だけが、静かに、そして冷徹に、その先の未来を見据えていた。
(……ふん。……父上も、まだ甘い。……この信長ならば、あの神の薬を、もっと、もっと面白く使ってみせるわ……)
彼の不遜な野望の炎は、もはや誰にも、たとえその父である信秀にさえも、消し止めることはできはしない。
尾張の国の、そして日ノ本の本当の嵐の時代は、まだ始まったばかりだった。
最後までお付き合いいただき、感謝します。
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