第109話
季節は夏。尾張国は、黄金色の熱狂に包まれていた。
賢者・猫がもたらした神の石、『魔石』。その奇跡は、織田家の隠し田という小さな実験場を遥かに超え、今や尾張の国の隅々にまで、その圧倒的な豊穣の祝福を広げ始めていた。
刈っても、刈っても、翌朝には再び実る黄金の稲穂。
そのあまりにも非現実的な光景を前に、農民たちは、最初こそ化け物憑きだと恐れおののいた。だが、その米がもたらす圧倒的な美味さと、満腹という名の絶対的な幸福を知るにつれ、その畏怖は、やがて熱狂的な信仰へと変わっていった。
「織田の殿様は、龍神様と契約を結ばれたのだ!」
「我らが尾張は、神に選ばれし約束の地なのだ!」
そんな噂が、国の隅々にまで広まっていく。
民は満ち足り、兵は飢えることなく、そして織田家の蔵には、他のいかなる大名も夢見ることさえできぬほどの、黄金色の富が山と積まれつつあった。
その全てを差配するのは、当主である織田信秀。彼の老獪な手腕によって、神の米は、単なる食料ではなく、他国との外交を有利に進めるための強力な武器となり、そして莫大な富を生み出す金のなる木となっていた。
そして、その父の背中を見ながら、若き魔王、織田信長は、その身に宿した神の力と、日に日に増大していく国の力を、静かに、しかし確かな手応えをもって自らのものとしていた。
全ては順調だった。
順調すぎた。
そして、彼らは待っていた。
この壮大な、そしてどこまでも危うい砂上の楼閣の真の持ち主である、あの気まぐれな神の再訪を。
その日は、またしても唐突に訪れた。
那古野城、信秀の私的な執務室。
そこでは、信秀と信長、そして傅役の平手政秀が、秘密の帳簿を前にして唸っていた。
彼らの目の前には、いくつかの重厚な千両箱が置かれ、その蓋が開け放たれている。中には、神の米を京の都や堺の豪商たちに売りさばいて得た、眩いばかりの輝きを放つ金の延べ棒が、ぎっしりと詰め込まれていた。
「…………ふむ」
信秀が、満足げに、しかしどこか疲れた声で言った。
「……これだけあれば、賢者殿への最初の対価としては十分であろうか。……いや、足りぬか。……神の奇跡の値段など、人の身には到底測れぬわ」
「父上。案ずることはありませぬ」
信長が、不遜な笑みを浮かべて言った。
「……あの化け猫は、金そのものよりも、我らがこの金で何を成すか、その『物語』の方をこそ楽しんでおるはず。……この金で兵を雇い、国を富ませ、天下への道を突き進むことこそが、奴への最高の返礼となりましょう」
そのあまりにも若々しく、そしてどこまでも傲慢な言葉に、信秀が苦笑を漏らした、まさにその時だった。
「――うむ。……なかなか見事な黄金じゃな」
部屋の隅の、影が最も濃い場所から、何の気配もなく、その声は響き渡った。
三人は、弾かれたようにそちらを振り返る。
そこにいたのは、いつの間にか、一匹の黒猫だった。
夜の闇そのものを吸い込んだかのように艶やかな毛並み。そして、人の心の奥底までも見透かすかのような、神秘的な翠色の瞳。
賢者・猫が、まるでずっとそこにいたかのように、静かにちょこんと座っていた。
「け、賢者殿!」
信秀が、慌ててその場にひざまずく。信長と平手も、それに続いた。
「……い、いつの間に……!?」
「うむ。……お主たちが、金の勘定に夢中になっておる間からのう」
賢者は、大きなあくびを一つした。
そして、千両箱の中の黄金を一瞥すると、満足げに喉を鳴らした。
「……まあ、よい。……ワシの見込んだ通り、お主たちは良い働きをしたようじゃな。……その黄金、ありがたく貰い受けてやろう」
彼はそう言うと、その千両箱の数々を、まるで小石でも拾い上げるかのように、次元ポケットの中へと音もなく吸い込んでいった。
そのあまりにも常識を超えた光景に、平手政秀は、もはや気を失いかけていた。
「さて」
賢者は、毛づくろいをしながら続けた。
「……ワシも商人じゃ。……一度、良い取引ができた相手とは、長く付き合いたいと思うておる。……どうじゃ、信秀、信長よ。……ワシと、新たな『契約』を結ぶ気はないか?」
「…………新たな契約、でございますか?」
信秀が、緊張に声を震わせながら問い返した。
「うむ。……お主たちが用意したこの黄金も、もちろん素晴らしい。……だがな、正直に言えば、ワシの世界では、金などというものはさして珍しいものではない。……ワシが今、本当に欲しいのはな。……金では買えぬ、この日ノ本という国にしか存在せぬ、もっと面白く、そして美しい『玩具』なのじゃよ」
そのあまりにも不穏な言葉。
信長が、その鋭い目で問い返した。
「……『玩具』と、申されるか」
「うむ」
賢者は、楽しそうに尻尾を振った。
そして、彼は、その恐るべき、そしてどこまでも面倒くさい「お買い物リスト」を、まるで子供がクリスマスにサンタクロースにお願い事をするかのように、無邪気に、そして無慈悲に告げ始めた。
「――まず一つ。『この国で最も美しいと評判の茶器を十揃え』じゃ」
「…………ちゃ、茶器でございますか?」
平手が、呆然と聞き返した。
「うむ。……ワシが時折立ち寄る別の世界にはな、その『ワビサビ』とやらいう、お主たちの国の独特の美意識を、狂おしいほどに愛する者たちがおってな。……かの有名な『九十九髪茄子』や『平蜘蛛の釜』のような、一国一城に値するとされる名物中の名物。……あれらを、十揃えほど集めて欲しいのじゃよ」
そのあまりにも無茶な要求。
茶器一つで、城が一つ。
そんな国宝級の名物を、十も。
信秀の顔から、血の気が引いた。
だが、賢者の要求はまだ終わらない。
「――次に、二つ目。『観阿弥・世阿弥の時代の能面を蔵から出してこい』」
「…………の、能面……?」
「うむ。……これもまた、別の世界で高く売れるのじゃよ。……人の喜怒哀楽、その魂の全てを一枚の木の面に封じ込めるという、お主たちの国のその異常なまでの精神性。……それを芸術として理解する好事家どもがおってな。……特に、室町のあの応仁の乱の炎の中を生き抜いてきた、古い、古い面の持つオーラは格別じゃ。……それらを、蔵の奥底から探し出してくるがよい」
その要求は、もはや金銭の問題ではなかった。
それらは、時の権力者である足利将軍家や、あるいは最も格式高い寺社仏閣の最も奥深くに秘蔵されている、秘宝中の秘宝。
それを手に入れることは、武力や富だけでは不可能。
絶対的な権威と、そして外交的な駆け引きが必要となる。
「――そして、三つ目じゃ」
賢者は、とどめを刺した。
「…………『最高の刀匠が打った刀を百振り』じゃな」
「…………ひゃ、百振り……!?」
今度は、信長が絶句した。
「うむ。……刀は良い。……人の魂を最も純粋な形で映し出す、美しい鉄の芸術品じゃ。……これもまた別の世界ではな、その神秘性と切れ味故に、魔法の剣として、とんでもない高値で取引されるのじゃよ。……備前の長光、相州の正宗、山城の粟田口吉光……。……まあ、その辺りの名工が打った一級品を、百振りほど見繕ってくれ」
そのあまりにも狂気じみた、そしてどこまでも具体的な要求の数々。
執務室は、死んだように静まり返っていた。
信秀も、信長も、そして平手でさえも、もはや言葉を失っていた。
彼らは、ようやく理解したのだ。
目の前のこの神が、自分たちに何を求めているのかを。
それは、金ではない。
それは、もはやこの国の「全て」だった。
文化、歴史、芸術、そして権力。
その全てを駆使しなければ、到底達成不可能な絶対的な試練。
「……くくく」
その重苦しい沈黙を破ったのは、信長の乾いた笑い声だった。
「…………面白い。……面白いではないか、賢者殿。……金ではなく、この信長の器そのものを試そうというわけか。……よかろう。……その無理難題、この織田三郎信長が、必ずや成し遂げてご覧にいれようぞ」
そのあまりの不遜な、しかし力強い宣言。
信秀は、その息子の顔を、驚きと、そして微かな誇りの色を浮かべて見つめていた。
「……うむ。……それでこそ、ワシが見込んだ男よ」
賢者は、満足げに頷いた。
「……まあ、もちろん、ただ働きさせるわけではない。……これは、その無理難題に対する『前金』じゃ」
彼はそう言うと、次元ポケットから一つの巨大な麻袋を、ドン、と床に出現させた。
袋の口が解かれ、中から溢れ出したのは、きらきらと輝く無数の青黒い石ころ。
魔石の山だった。
その量は、前回彼らが授かったものの、百倍はあろうかという圧倒的な物量。
「…………おお……!」
信秀が、息を飲む。
「……とりあえず、これで尾張の国全ての田畑を『神の田』へと変えるが良い。……そうすれば、お主たちの国力は、今の十倍、いや百倍にもなろう。……その力をもってすれば、茶器の一つや二つ、くれてやらぬ大名もおるまい」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも計算高い神の投資。
そして賢者は、まるで今思い出したかのように付け加えた。
「……ああ、そうだ。……これもくれてやろう」
彼が次に取り出したのは、一つの美しいガラスの小瓶だった。
その中で、穏やかな乳白色の液体が、微かな黄金色の光の粒子を伴って、静かに揺らめいていた。
「…………これは……?」
「……『怪我治癒の霊薬』じゃ」
賢者は、こともなげに言った。
「……まあ、見ての通り、ただの薬じゃがな。……これを飲めば、まあ、大抵の病魔や怪我は治る。……たとえ手足がちぎれようとも、腹に風穴が開こうともな」
そのあまりにもさらりとした、しかしあまりにも衝撃的な説明。
執務室の空気が、凍りついた。
手足が、ちぎれようとも。
腹に、風穴が開こうとも。
それは、もはや薬ではない。
死者さえも蘇らせかねない、神の奇跡そのものだった。
「………………」
信秀も、信長も、もはや言葉を発することができなかった。
彼らは、ただ呆然と、その小さな小瓶を見つめていた。
「…………まあ、ここに百人分ほどある」
賢者は、その小瓶をいくつも入った木箱を、こともなげに差し出した。
「……これを、お主たちの切り札にするもよし。……あるいは、手懐けたい大名への最高の懐柔の手段にするもよし。……まあ、好きに使うが良い」
そのあまりにも悪魔的で、そしてどこまでも戦略的なアドバイス。
それは、この戦国の世の全てのルールを、根底から覆す禁断の一手だった。
「…………じゃあのう」
賢者・猫は、そのあまりにも巨大すぎる爆弾を置き去りにすると、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の不在の静寂と、その神が置いていったあまりにも巨大すぎる奇跡と、そしてあまりにも重すぎる宿題を前にして、ただ呆然と立ち尽くす織田家の父子の姿だけだった。
彼らは、しばらく無言だった。
やがて、その沈黙を破ったのは、信長の低い、そしてどこまでも楽しげな笑い声だった。
「…………くくく。……はっはっはっはっは! ……面白い! 面白いではないか、父上!」
彼は、立ち上がった。
その目には、もはやただの尾張の一大名のそれではない、この日ノ本全ての運命をその掌の上で転がそうとする、真の魔王の輝きが宿っていた。
「……茶器、能面、そして名刀。……そして、この死さえも克服する神の薬。……これさえあれば、もはやこの日ノ本に、我ら織田家の敵はなし! ……見ておれ、賢者殿! ……この信長、必ずや貴殿の期待を遥かに超える、最高の見世物を作り上げてご覧にいれようぞ!」
彼の壮大すぎる野望の炎は、今、神が自ら注いだ油によって、もはや誰にも消し止めることのできない業火となって燃え上がっていた。
そのあまりにも危険で、そしてどこまでも魅惑的な時代の幕開けを。夏の夜の、生暖かい風だけが、静かに見守っていた。




