第108話
尾張国、那古野城の空気は、もはやただの戦国の城のそれではなかった。
城内に満ちているのは、武具の鉄の匂いや、血の匂いではない。それは、炊きたての米が放つ、甘く、そしてどこか神聖ささえ感じさせる芳醇な香りだった。
城の蔵という蔵は、あの隠し田から無限に収穫される『神の米』の俵で埋め尽くされ、そのあまりの豊かさは、織田家の家臣たちの心に、これまでにないほどの自信と、そして微かな、しかし抗いがたいほどの傲慢さを植え付け始めていた。
だが、その熱狂の中心で、当主である織田信秀だけが、その鷹のように鋭い目を遥か未来へと向けていた。
評定の間。
信秀と信長、そして平手政秀や柴田勝家といった重臣たちが顔を揃える中、信秀は一つの巨大な地図を広げた。
「……皆、聞け」
その声は静かだったが、部屋の隅々にまで響き渡った。
「……この『神の米』。……そして、賢者殿が我が三郎に授けてくださった神仏の力。……これらが、我ら織田家に何をもたらすか。……ただの兵糧か? ただの武力か? ……否。……そのような矮小なものではない。……これは、天が我らに与えたもうた、『天命』そのものよ」
彼は、地図の上を指でなぞった。
「……この米をただ金に換え、兵を雇うだけでは、我らは今川や斎藤といった旧来の大名と同じ土俵で争うだけの、ただの成金に過ぎぬ。……それでは、いずれ滅びる。……我々が目指すべきは、その遥か上じゃ」
彼の指が、一つの場所を力強く指し示した。
京の都。
日ノ本の心臓。
「……我々は、この奇跡を『権威』へと変換する。……平手よ」
信秀は、最も信頼の置ける傅役の老臣に、向き直った。
「……そなたを、正使とする。……この『神の米』の中から最も出来の良いものを選りすぐり、京の帝へと献上するのじゃ」
そのあまりにも大胆不敵な提案に、評定の間がどよめいた。
「み、帝へでございますか!?」
平手が、驚愕に目を見開く。
「……ですが、殿! 今の帝は、その権威こそあれど、実権は幕府にもなく、ただ名ばかりの……。そのような場所に、この貴重な米を献上したとて、何の益が……」
「益があるのだ、平手よ」
信秀は、きっぱりと言った。
「……帝に我らの米を食んでいただく。……そして、そのお方から『日ノ本一の米である』というお墨付きを頂戴する。……これほどの誉れが、他にあるか? ……その一言さえあれば、我ら織田弾正忠家は、もはや尾張の一豪族ではない。……帝に認められし日の本の米どころとして、その名を天下に知らしめることになる。……そうなれば、今川が何を言おうと、斎藤が何を企もうと、我々の前には、大義名分という名の、決して越えられぬ城壁が築かれることになるのだ」
そのあまりにも老獪な、そしてどこまでも先を見据えた戦略。
家臣たちは、もはや言葉もなかった。
彼らは、改めて自らの主君の器の大きさに、深い畏敬の念を抱いていた。
「……そして、三郎」
信秀は、自らの息子に向き直った。
「……お主も、平手と共に京へ行け」
「……私が、でございますか?」
信長は、意外そうな顔をした。
「うむ。……うつけの評判を返上するための、社会勉強じゃ。……そして、何よりも」
信秀の目が、すう、と細められる。
「……お主のその神仏の如き力を、帝の前で軽々しく見せるでないぞ。……だが、万が一、その道中でお主たちの身に危険が迫ったならば。……その時は、存分に暴れるがよい。……織田の若獅子は、もはや人の理を超えた存在であると、京の公家どもや諸国の大名たちの耳に、たっぷりと聞かせてやれ」
それは、抑止力。
そして、究極のデモンストレーション。
信長は、父のその真意を理解した。
彼の口元に、不遜な、そしてどこまでも楽しげな笑みが浮かんだ。
「…………御意」
◇
数日後。
那古野城の城門から、一つの荘厳な行列が出立した。
先頭を行くのは、織田家の木瓜紋が染め抜かれた旗を掲げた旗手。
その後ろには、この日のために新調されたであろう美しい鞍を置いた駿馬に跨る、平手政秀と織田信長。信長の服装は、いつものうつけのそれではなく、年相応の若武者らしい、しかしどこか異彩を放つ豪華なものだった。その背中には、まるで守り神のように、あの賢者から賜った黄金の羽織『不死鳥の羽衣』が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
そして、行列の中心。
最も厳重に警備された荷馬車の上には、桐で作られた豪奢な櫃が、いくつも積まれていた。その中には、この国の未来を左右する、あの白い奇跡が眠っている。
彼らが目指すは、西。
遥かなる京の都。
その道中は、若き信長にとって、新たな発見の連続だった。
父・信秀が『神の米』で得た莫大な富を注ぎ込み、整備し始めた尾張国内の街道は、まだ途上とはいえ、比較的平坦で歩きやすかった。
だが、一度国の境を越えるとその風景は一変した。
道はぬかるみ、荷馬車の車輪は何度も轍に取られた。街道沿いの村々は痩せ細り、道行く農民たちの顔には、深い疲労と絶望の色が刻み込まれている。時折、物陰から一行を値踏みするような、野盗の鋭い視線さえ感じられた。
(…………これが、今の日の本か)
信長は、馬上で静かに呟いた。
(……なんと脆く、そしてなんと貧しいことか。……父上の治める尾張だけが、まるで異世界のようではないか)
彼の傅役である平手政秀は、そんな信長の内心を見透かしたかのように、馬上から静かに語りかけた。
「……若。……よく、ご覧になっておきなされ。……これこそが、今のこの国の現実。……そして、これこそが、若がこれから変えていかねばならぬ未来の姿にございますぞ」
「…………うむ」
信長は、短く応えた。
彼の瞳の奥で、天下布武という壮大な野望の炎が、より一層強く、そして確かな形を持って燃え上がっていた。
数週間の旅の末、彼らはついに京の都へとたどり着いた。
だが、その都の姿は、信長が想像していたものとは全く違っていた。
応仁の乱の戦火が未だ癒えることなく、都のあちこちに深い傷跡を残していた。かつては壮麗を誇ったであろう寺社仏閣は焼け落ち、公家たちの屋敷は見る影もなく荒れ果てている。
だが、それでもなお、この都には、他のいかなる場所にもない特別な空気が流れていた。
千年の歴史が育んだ文化の香り。そして、この国の全ての頂点に立つ帝という、絶対的な権威の存在。
それは、武力や富といった分かりやすい力とは全く質の違う、見えざる、しかし何よりも強固な力だった。
信長は、その見えざる力の正体を、肌で感じ取っていた。
彼らが通されたのは、御所の最も格式高い謁見の間だった。
だが、その広間は、那古野城のそれよりも遥かに質素で、そしてどこか物悲しい空気に満ちていた。柱の金箔は剥げ落ち、畳はところどころ擦り切れている。
そして、その広間の最も奥。御簾の向こう側に座す、この国の頂点。
第百五代天皇、後奈良院。
そのお姿は、見えない。
だが、その御簾の向こう側から放たれる、静かで、しかし絶対的なオーラは、信長のような不遜な若者でさえも、自然と頭を垂れさせるほどの重みを持っていた。
平手政秀が、完璧な作法で口上を述べる。
「――尾張国主、織田弾正忠信秀が名代、平手政秀。……その嫡男、織田三郎信長。……帝に、ご挨拶申し上げまする!」
そして、彼は恭しく、あの桐の櫃を帝の御前へと差し出した。
「……我が主、信秀。……先日、その領地におきまして、天からの授かり物とも言うべき奇跡の米を収穫いたしました。……この米こそ、長きにわたる戦乱で疲弊したこの日ノ本の民を救う吉兆の印に違いないと。……つきましては、この日ノ本で最も尊き御方である帝にこそ、最初にこの奇跡を味わっていただきたく、遥々尾張より献上に上がった次第にございます」
そのあまりにも荘厳で、そしてどこまでも忠義に満ちた口上。
御簾の向こう側から、か細い、しかし威厳に満ちた声が響いた。
「………………うむ。……その方の忠義、確かに聞き届けた。……して、その奇跡の米とやらを、見せてもらおうか」
女官たちが、その櫃を厳かに開ける。
中から現れたのは、磨き上げられた漆塗りの椀によそわれた、湯気の立つ真っ白なご飯だった。
そのあまりにもシンプルで、しかし完璧なまでの美しさ。そして、その湯気と共に広間に広がる、甘く、そしてどこまでも芳醇な香り。
広間にいた、痩せこけた公家たちの喉が、ごくりと鳴った。
女官が、その椀を御簾の向こう側へと運んでいく。
しばしの沈黙。やがて、御簾の向こう側から、一つの、深い、深い感嘆のため息が漏れ聞こえてきた。
「………………美味い」
たった一言。
だが、その一言は、いかなる勅語よりも遥かに重かった。
「…………なんと、なんと美味い米なのだ。……この朕が、これまで口にしてきたいかなる米とも違う。……一粒一粒が、太陽の光そのものを宿しておるかのようだ。……これを食せば、まこと病も癒え、心も安らぐ心地がするわ……」
そのあまりにも純粋な感動の声に、公家たちも、そして信長たちも、もはや言葉もなかった。
彼らは今、歴史の目撃者となっていた。
一杯の白米が、この国の頂点の心を、完全に掌握した瞬間に。
そして、その感動が最高潮に達した、まさにその時。
これまで黙って控えていた織田信長が、静かに、しかしその場にいる全ての人間を圧倒するほどの覇気を込めて、一歩前に進み出た。
平手が、そのあまりの無作法に青ざめる。
だが、信長は構わなかった。
彼は、御簾の向こうの絶対者に向かって、深々と頭を下げた。
そして、彼は言った。
その言葉は、この国の歴史そのものを永遠に変えてしまう言霊だった。
「――恐れながら、帝。……この織田三郎信長、申し上げたき儀がございます」
彼の声は若々しく、しかし揺るぎなかった。
「……先日、我が元に一匹の神仏の化身が現れ、私にこう告げられました」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、あの賢者・猫から授かった(と彼が勝手に解釈した)神託を、高らかに宣言した。
「…………『ワシがいた千年後の未来の世界においても、この日ノ本の頂点に立つは、帝ただお一人であった』……と!」
そのあまりにも衝撃的な、そしてどこまでも帝の心をくすぐる神託。
広間は、水を打ったように静まり返った。
信長は、続けた。
「……『今の帝は、その権威にふさわしい力を失い、苦境に立たされておられる。……されど、憂うことなかれ。……天は、汝、織田信長に、その帝を支え、この日ノ本を再び安寧へと導くための力を与えたもうた』……と!」
彼は、顔を上げた。
その目には、もはやうつけの影は一欠片もなかった。
そこにあるのは、天命を背負った男の、絶対的な覚悟の光だった。
「…………帝。……今はこのような苦境にございますが、ご安心めされよ。……この織田弾正忠家が、必ずや帝をお支えし、この乱れた世を平らげ、千年先まで続く安寧の世を築いてみせまする! ……この神の米は、その我らの誓いの、ほんの証にございます!」
そのあまりにも劇的な、そしてどこまでも忠義に満ち溢れた若き英雄の誕生の宣言。
御簾の向こう側で、帝が息を飲むのが分かった。
そして、やがてその口から、震える、しかし力強い声が響き渡った。
「………………うむ。……うむ! ……信長とやら! ……そなたのその忠義、確かに、確かに聞き届けたぞ! ……朕は、そなたを信じよう! ……そして、そなたの父、信秀に、この朕からの感謝の印として、従五位下、三河守の官位を授けることを、ここに約束する!」
そのあまりにも破格の、そしてあまりにも大きな褒賞。
それは、織田家が、もはやただの尾張の一豪族ではなく、帝から直接認められた、天下に冠たる大名となったことを意味していた。
平手政秀は、もはや感涙にむせび、その場に崩れ落ちていた。
家臣たちは、信じられないといった顔で、自らの若き主君を見上げていた。
うつけ。
そう侮っていた男が。
たった一日の、たった一言で、この織田家の運命を、完全に、そして永遠に書き換えてしまったのだ。
その日の夜、京の宿所に戻った信長は、一人、月明かりの下で、静かに空を見上げていた。
彼の口元には、不遜な、そしてどこまでも楽しげな笑みが浮かんでいた。
彼は、天に向かって、誰に言うでもなく呟いた。
「…………くくく。……見ておるか、賢者殿。……お主がくれたこの神の玩具。……そして、お主がくれたこの神の物語。……この信長、存分に、そして最大限に活用させてもらうぞ。……そして、必ずや、お主が退屈することのない最高の見世物を、この日ノ本を舞台に作り上げてみせようぞ」
彼の天下布武への道は、今この瞬間、絶対的な『大義名分』という名の、最強の追い風を得た。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも滑稽な神と英雄の共犯関係の始まりを。まだこの世界の誰も、そしてその片割れである張本人でさえも、全く気づいてはいなかったのである。




