第10話 【現代日本編】 究極のアウトソーシング
ふっと、意識が浮上する感覚。
まるで、深い深い海の底から一気に水面へと引き上げられたかのようだ。
新田 創は、自分が東京のワンルームマンションの固いフローリングの上に、大の字になって倒れていることに気づいた。
最後に目にした光景は、日本のトップエリートたちが呆然とこちらを見つめる、超高層ビルの特別応接室だったはずだ。
「……終わった……」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。
創はゆっくりと自分の手を見た。黒い毛に覆われた可愛らしい肉球ではなく、少しささくれた三十五歳の男のごつごつとした手だ。
人間の姿に戻っている。
ドッと、全身に鉛のような疲労感がのしかかってきた。
あれは、演技だ。
1000年を生きる大賢者。世界を渡る超越者。
そんな大層なキャラクターを演じきるのは、並大抵の精神力ではなかった。尊大な口調、古風な言葉遣い、そして何よりも、あの国のトップエリートたちを相手に一歩も引かない胆力。
たった数十分の会見だったが、十年分の会社のプレゼンよりも遥かに消耗した。
「……もう二度とやりたくねぇ……」
創は、天井を見上げながら心の底から呟いた。
だが、その疲労感に反比例して、彼の口元は自然とにやりと歪んでいく。
彼は、のろのろと起き上がると、プロジェクト計画書のノートを引き寄せた。
そして、震える手で交渉の結果を書き記していく。
【対・日本政府 交渉結果レビュー】
交渉目標:
資産形成の基盤確立 → ◎ 達成
安全の確保(不可侵約束) → △ 保留(暗黙の了解)
情報秘匿 → ○ 概ね達成
戦術評価:
ペルソナ「1000年を生きる猫の大賢者」:効果は絶大。相手の正常な判断能力を麻痺させ、完全にこちらのペースに持ち込むことに成功。インパクトは満点。
交渉内容:こちらの要求は、ほぼ全面的に受諾された。特に、最後の無理難題は見事に相手に丸投げすることに成功。
総括:
大成功と言っていいだろう。これで、当面の目的は果たした。
創はペンを置き、ノートをぱたんと閉じた。
そして、フローリングの上に再び寝転がると、腹を抱えて笑い始めた。
「ひっ、ひっひっひ……! やった……やったぞ……!」
笑いが止まらない。
最高だ。最高の結果だ。
「これでお金と資材調達、丸投げ出来てラッキー!」
そうだ。金の問題はクリアした。日本円と暗号通貨で、合計20億。
それが第一弾の報酬として、もうすぐ俺の懐に転がり込んでくる。
それだけでも、夢のスローライフへの大きな一歩だ。
だが、それ以上に素晴らしい成果。
それは、最後のあの要求だ。
『そちらで、異世界で価値のありそうな地球の物質や素材をたんまり欲しい』
あの一言。
あれこそが、今回の交渉における最高の一手だった。
「『異世界で価値のありそうな地球の物質』なんて、分かるわけねーだろ、俺に!」
創は、大声で叫んだ。
そうだ。分かるはずがない。
俺は、三十五年間この地球という星でしか生きてこなかった、ただの男だ。
地球の何が希少で、何が普遍的なのか。そんな、神のような視点を持っているわけがない。
下手に俺が知ったかぶりをして、「ダイヤモンドをよこせ」だの「レアアースをよこせ」だの、具体的な物質を指定していたらどうなっていただろう。
きっと彼らは、その物質の供給ルートを完全に管理し、取引の主導権を少しずつ握り返そうとしてきたに違いない。
だが、俺はその判断を彼らに丸投げした。
その結果、どうなるか。
日本の最高の頭脳を持つ科学者や官僚たちが。
この俺――新田 創――を満足させるためだけに、つまりは俺の金儲けのために、必死こいて地球のお宝をリストアップしてくれるのだ。
これほど効率的で、楽な外部委託があるだろうか。
いや、ない。
「偉い人が変わりに考えてくれて、ありがたい……。馬鹿だから無理だよ、これ以上は……」
創は、呟いた。
それは、彼の本心だった。
彼は、自分が天才でもなければ大賢者でもないことを、誰よりも理解していた。
たまたま、宝くじに当たったようなものだ。
その幸運を最大限に活かす。だが、実力以上の責任を背負うつもりは毛頭ない。
国家間のパワーバランス?
この発見が、人類の歴史に与える影響?
知ったことか。
そんな面倒なことは、賢くてやる気のある偉い人たちに全部押し付けてしまえばいい。
俺はただ、彼らが差し出してきたお宝を受け取って、それを異世界で売りさばき、のんびり暮らすだけだ。
「ああ、最高だ……」
創は、幸福な疲労感に身を任せ、しばらくそのまま天井を見上げていた。
責任からの解放。
それは彼にとって、何よりも甘美な報酬だった。
数時間後。
ようやく人心地ついた創は、一つの疑問に思い至った。
「ていうか、俺の事どう説明してるんだろう。異世界から来たって、話しちゃってるのかな?」
日本政府は、この前代未聞の事態を世間に対し、どう取り繕うとしているのか。
彼は、俄然興味が湧いてきた。
それは、自分の安全にも関わることだ。
下手に「日本は異世界と接触した!」などと公表されてしまっては、世界中が大騒ぎになり、面倒なことに巻き込まれる可能性が高まる。
「調べてみるか」 創はノートパソコンを開くと、ネットの海へとダイブした。 大手新聞社のニュースサイト、テレビ局の報道特集ページ、そして匿名の巨大掲示板やSNS。 彼は「つくば」「研究所」「封鎖」といったキーワードで、検索をかけていく。 だが。 「……あれ?」 創は、首を傾げた。 あれだけ大騒ぎになったつくばの一件に関するニュースが、驚くほど少ない。 どのメディアも、政府の公式発表――「特殊な実験ガスの漏洩事故。人体への影響は軽微」――を右から左へ流しているだけで、それ以上の深掘りをした形跡が全くなかった。 SNS上でいくつか、「政府の隠蔽だ!」「本当は新型ウイルスだ!」「UFOが墜落したらしい!」といった陰謀論が飛び交っているくらいで、世間の関心も既に風化し始めているようだった。
「……うまいことやったな、あの狸女」
創は、橘 紗英の怜悧な顔を思い浮かべ、感心したように呟いた。
見事なまでの情報統制。
おそらく、マスコミには相当強力な圧力がかかっているのだろう。
そして、世間の興味が薄れた水面下で、彼女たちは今頃俺への献上品を用意するために、死に物狂いで働いているはずだ。
その光景を想像すると、なんとも愉快な気分になった。
「うーん、なんか凄い物を日本政府が手に入れた、ぐらいしか伝わってないみたいだな…」
結局、これが結論だった。
国民にも、そしておそらくは海外にも、真相は一切伝わっていない。
創は、海外の大手ニュースサイトもいくつか覗いてみた。
いくつかのインテリジェンス系のサイトが、「最近の日本の防衛予算の不透明な動き」や「官邸周辺の不自然な警備体制」について小さく報じている程度で、核心に触れるものは何一つなかった。
もちろん、各国の諜報機関は必死に探りを入れているだろうが、今のところ日本政府の鉄壁のガードを崩せてはいないようだった。
創は、大きく伸びをした。
「他国の相手まで出来ないし。ていうか、面倒くさいし。日本政府に丸投げで良いか!」
そうだ。それでいい。
アメリカが来ようが、中国が来ようが、俺の知ったことではない。
その防波堤になってくれるという意味でも、日本政府は最高のビジネスパートナーだ。
彼らが、俺という唯一無二の供給源を守るために、必死になって世界と渡り合ってくれるだろう。
俺は、その安全な内側で悠々と果実を受け取るだけ。
「完璧だ……俺の計画、完璧すぎる……」
創は、自画自賛しながらブラウザを閉じた。
面倒ごとは、全て片付いた。
ならば、次にやるべきことは一つ。
非日常から、日常への帰還だ。
創は、スマホを手に取った。
そして、電話帳から一つの番号を探し出す。
『実家』。
その二文字を見つめているだけで、胸の奥が少しだけ温かくなるような気がした。
彼は、コールボタンを押す前に少しだけ躊躇した。
何と、言おうか。
一ヶ月近く連絡もせず、心配しているだろうか。
いや、あらかじめ「しばらく忙しくなる」とは伝えてある。
大丈夫だ。
彼は小さく深呼吸をすると、スマホを耳に当てた。
数回のコールの後。
スピーカーの向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。
『――もしもし? 創?』
「あ……ああ、俺だよ」
母親の声だ。
その声を聞いただけで、自分が演じていた大賢者でも、世界を揺るがすキーパーソンでもなく、ただの息子、新田 創に戻っていくのが分かった。
『まあ、創! どうしたの、急に。元気にしてるの? ご飯、ちゃんと食べてる?』
矢継ぎ早に繰り出される、母親からの質問。
その一つ一つが、十年以上離れていても変わらない愛情に満ちていた。
「ああ、元気だよ。ちゃんと食ってるって」
創は、少し照れくさそうに答えた。
『そう? なら、いいんだけど。それで、どうしたの? お金のことなら、少しはお父さんと相談して……』
「いや、違う違う、そうじゃないんだよ」
創は、慌てて本題を切り出した。
「あー……母さん? 実は、仕事が見つかったから、しばらくは家に帰らなくてよくなったんだよね」
これは、あらかじめ考えておいた嘘だ。
『まあ、本当!? よかったじゃないの! どんなお仕事なの?』
母親の声が、ぱっと明るくなる。
その純粋な喜びに、創の胸が少しだけチクリと痛んだ。
「ええと、まあ、その……在宅ワークみたいなやつで。パソコン使って、色々やるみたいな。だから、まあ結構時間は自由でさ」
『在宅? まあ、今の時代はそういうのもあるのねぇ。とにかく、よかったわぁ。お父さんにも知らせておかないと』
「ああ……。それでさ」
創は、続けた。
「とはいえ、在宅ワークで暇だから、時々家に帰るよ。その……」
少しだけ言い淀んで、そして言った。
「明後日にでも、家に帰ろうかなって思って!」
電話の向こうで、母親が息を飲むのが分かった。
そして次の瞬間、これまでで一番嬉しそうな声が返ってきた。
『……本当!? 本当に帰ってくるの!?』
「ああ、本当だよ。昼過ぎには着くと思う」
『分かったわ! じゃあ、何か美味しいものでも作って待ってるわね! 創、何が食べたい? ハンバーグ? それとも唐揚げ?』
「あー……じゃあ、生姜焼き。母さんの生姜焼きが食いたい」
『はいはい、分かったわ。じゃあ、気をつけて帰ってくるのよ。待ってるからね』
「うん。じゃあ、また」
創は、そう言って電話を切った。
スマホを耳から離すと、ふう、と長い息を吐いた。
電話をしている間、自分がずっと笑顔だったことに気づいた。
心の底から、安堵していた。
「よし」と、創は呟いた。
電話、よし。
これで心置きなく、日常に戻れる。
一ヶ月ぶりの実家。
一ヶ月ぶりの、母親の手料理。
それが今の彼にとって、何よりも価値のある報酬だった。
創は、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ソファに腰を下ろした。
プシュッ、と小気味よい音を立ててプルタブを開ける。
冷たい黄金色の液体を、喉に流し込む。
「……くぅーっ!」
最高に、美味い。
この一杯のために、俺は頑張ったのだ。
創は、ビールを片手にこれからの計画について思いを巡らせた。
「しばらくは、日本でのんびりするか」
そうだ。
まずは、骨休めだ。
政府からの報酬が振り込まれるのを待ちながら、実家でのんびりと過ごそう。
たまった漫画を読んだり、ゲームをしたり。
たまに、魔法の練習をするのもいいかもしれない。
誰にも邪魔されない、自由な時間。
それこそが、彼が会社を辞めてまで手に入れたかった宝物だった。
「その後は、香辛料を金塊に変えられる、都合のいい異世界でも見つけよう」
日本政府との取引は、あくまでメインの収入源だ。
だが、それだけに頼るのは少し心許ない。
それに、あの賢者のペルソナを演じ続けるのは、精神的に疲れる。
もっと気楽に、個人的に稼げるキャッシュポイントも確保しておきたい。
中世レベルの文明を持つ世界。
魔法学院で読んだ歴史書によれば、そういう世界は無数に存在するらしい。
そこで現代の香辛料や砂糖を売りさばけば、簡単に金塊や宝石が手に入るはずだ。
その金塊を、また別の世界の換金所で、その世界の通貨に変える。
完璧な資産運用だ。
「スローライフしたいし。家でも欲しいな。時々帰る、豪邸みたいな」
創の妄想は、膨らんでいく。
金が手に入ったら、どうするか。
まずは、家だ。
人里離れた景色のいい場所に、広大な土地を買う。
そこに、温泉付きのモダンな豪邸を建てる。
浮遊魔法を使えば、資材の運搬も楽だろう。
週末は、その豪邸で誰にも邪魔されず、のんびりと過ごすのだ。
「……こういうテンプレでは、奴隷とか雇うけど……」
創はふと、異世界転生もののライトノベルでよくある展開を思い浮かべた。
美しいエルフや獣人の少女を奴隷として買い、身の回りの世話をさせる。
だが。
「……まあ、丸投げでいいか」
創はすぐに、その選択肢を頭から追い出した。
面倒くさい。
人と関わるのは、それだけでストレスだ。
たとえ、それが自分に絶対服従の奴隷であったとしても。
感情の機微を読み取り、気を使い、指示を出す。
そんな面倒なことは、もうご免だった。
家の管理や食事の準備は、それ専門の管理会社に丸投げすればいい。
金さえあれば、何でもできる。
究極のぐうたらスローライフ。
それこそが、彼の理想だった。
創は、缶ビールを飲み干すと、空き缶をテーブルに置いた。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
明後日には、実家に帰る。
久しぶりに、母親の料理食べるの楽しみだな。
彼は、子供のような素直な気持ちでそう思った。
世界を揺るがす大事件の中心にいながら、彼が今心から待ち望んでいるのは、そんなささやかで温かい日常だった。
壮大すぎる非日常との、短いお別れ。
創は、ソファの上で心地よい眠りに落ちていった。