第1話
新田 創、三十五歳。
その肩書は、昨日をもって「無職」となった。
カーテンの隙間から差し込む光が、床に散らばるダンボール箱の稜線を白く縁取っている。東京、中野区。家賃八万二千円、広さ二十五平米のワンルームマンション。それが、十年以上続いた創の会社員人生という名の戦場における、唯一絶対の安息地だった。そして、あと一週間もすれば引き払われる、仮初めの城でもあった。
「……ん」
むくりと、固いマットレスの上で半身を起こす。首を回せば、ゴキリと錆びついた蝶番のような音がした。昨日、最後の挨拶を終えて会社から持ち帰った私物の入ったダンボールが、部屋の隅にうず高く積まれている。それらをぼんやりと眺めながら、創は自分がもう、あの場所に行く必要がないのだという事実を、水で溶いた片栗粉のようにどろりとした頭で再確認した。
無職。なんと甘美で、同時に、背筋を粟立たせるような響きだろう。
昨日までは会社員だった。Web制作会社で、所謂プロジェクトマネージャーという、聞こえだけは良い雑用係をしていた。クライアントとデザイナーの板挟みになり、営業とエンジニアの緩衝材となり、日に日にすり減っていく精神と、反比例して増えていくカフェインとニコチンの摂取量。そんな日々だった。
退職の直接的な理由は、もう決まっている。田舎の実家へ帰るためだ。
しかし、本当の、心の底から湧き出た理由は、もっと単純で、ありふれたものだった。
「人間関係に、疲れた」
ただ、それだけだ。
悪意。嫉妬。無関心。過剰な期待。表面的な笑顔の裏で交わされる辛辣な陰口。飲み会での意味のないヨイショと、当たり障りのない世間話。その全てが、薄めた硫酸のように、じわじわと創の心を蝕んでいった。
もう、うんざりだった。誰かのご機嫌を伺うのも、自分の本心を殺して愛想笑いを浮かべるのも、これ以上は無理だった。
だから、辞めた。
十年以上勤め上げた会社だ。退職金は、質素に暮らせば一年は何もせずとも生きていけるくらいの額が振り込まれることになっている。実家に帰れば家賃もかからない。しばらくは骨休めをして、それから地元の小さな会社にでも再就職すればいい。もう、あんな競争社会の歯車として身を粉にするのはご免だった。
「……さて」
創はベッドから這い出し、キッチンへ向かった。シンクには昨夜食べたコンビニ弁当の容器がそのままになっている。それをゴミ袋に放り込み、電気ケトルに水を注いでスイッチを入れた。沸騰を待つ間、冷蔵庫から出した麦茶をプラスチックのコップに注ぎ、一気に呷る。寝起きの乾いた喉に、冷たい液体が染み渡っていく。
カチリ、とケトルが静かな音を立てた。
インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れ、湯を注ぐ。立ち上る香ばしいとは言い難い、ただただ苦いだけの香りを吸い込みながら、創はこれからの生活に思いを馳せた。
実家の自室は、高校を卒業してからほとんど物置と化しているはずだ。まずはその片付けから始めなければなるまい。それから、ハローワークにも顔を出して、どんな求人があるか見てみるのもいい。畑仕事でも手伝いながら、のんびりと暮らす。そんなスローライフ。悪くない。いや、最高じゃないか。
そんな、ありふれた無職の男の、ありふれた朝の風景。
その中心に、ありえないものが浮かんでいることに、創が気づいたのは、コーヒーを一口すすった、その時だった。
「……ん?」
目の前。マグカップと、窓の外の灰色のビルの、ちょうど中間あたり。
そこに、半透明のウィンドウが表示されていた。
まるでSF映画か、最新のゲームのUIのような、青白く発光する長方形。大きさは、ノートパソコンの画面くらいだろうか。その中には、ゴシック体とも明朝体ともつかない、どこか無機質で洗練されたフォントで、こう書かれていた。
>>異界渡りを取得しました
「……は?」
思わず声が漏れた。
創は目をしばたたかせる。何度か、強くこすってみもした。だが、ウィンドウは消えない。右に動けば右に、左に動けば左に、常に創の視界の中心を捉えて、そこにある。まるで、網膜に直接焼き付けられているかのようだ。
「なんだこれ……」
疲れ目か? それとも、ついに長年のストレスで脳がおかしくなったか?
彼はコーヒーをテーブルに置き、そっとウィンドウに指を伸ばしてみた。しかし、指は何も触れることなく、ただ虚空を掻くだけだ。物理的に存在しているわけではないらしい。
「異界渡り……?」
その単語を、声に出して読んでみる。
異界を、渡る。ファンタジー小説やゲームでしかお目にかからないような言葉だ。異世界転生? 召喚? まさか。自分は昨日、同僚たちに「お世話になりました」と頭を下げて回っていた、ただの三十五歳の男だ。トラックに轢かれたわけでも、神様に出会ったわけでもない。
「どういう事だこれ……」
理解が追いつかない。脳が、目の前の異常事態を拒絶している。
これは夢だ。そうに違いない。昨日は最後の出社日ということで、少し飲みすぎたのかもしれない。創はそう結論付けようとした。
だが、ウィンドウは消えない。あまりにも、くっきりと、そこにある。
「異界渡り…どう使うんだ?」
ほとんど無意識に、彼はそう呟いた。
その能力の使い方、その意味。それを、純粋な疑問として、思った。
その瞬間だった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
視界の端から、景色が急速に色を失い、中心の一点に向かって渦を巻くように収束していく。立っているはずの床の感覚が消え、全身が凄まじいGのかかるエレベーターに乗ったかのような、強烈な浮遊感に襲われた。
悲鳴を上げる間もなかった。
ほんの一瞬。瞬きよりも短い時間。
次に創が目を開けた時、彼は見慣れたワンルームマンションのフローリングの上ではなく、ふかふかとした緑の草が生い茂る、広大な野原に立っていた。
「…………は?」
呆然と、口から間抜けな声が漏れる。
何が起きたのか、全く理解できなかった。
目の前には、どこまでも続く草原が広がっている。空を見上げれば、突き抜けるような青。しかし、その青は、創が知っているどんな青よりも、深く、鮮やかだった。そして、その空には、白く輝く太陽と、それよりも少し小さい、輪郭のぼやけた淡い黄色の太陽が、二つ並んで浮かんでいた。
「な、なんだこりゃー!!」
ようやく、喉から絞り出すように叫び声が上がった。
創はパニックに陥りながら、自分の足元を見た。履いているのは、寝間着代わりにしているユニクロのスウェットと、裸足。手には何も持っていない。アパートに置いてきたはずのマグカップも、テーブルも、ダンボールの山も、どこにもない。
あるのは、見渡す限りの、異質な自然だけだ。
風が草原を撫で、さわさわと心地よい音を立てる。遠くには、屏風のように切り立った、見たこともない形状の山脈がそびえ立っているのが見えた。空気は澄み切っていて、都会の排気ガスに汚れた肺が洗われるように、清々しい。
しかし、そんな美しい風景も、今の創にとっては恐怖の対象でしかなかった。
「どこだ、ここ……!? 拉致か? ドッキリか!?」
彼はその場でくるくると回り、周囲を見渡した。人っ子一人いない。文明の痕跡も、見当たらない。あるのは、名も知らぬ草花と、時折聞こえる、鳥とも獣ともつかない奇妙な鳴き声だけだ。
そして、目の前には、相変わらずあの半透明のウィンドウが浮かんでいた。
>>異界渡りを取得しました
ウィンドウの文字は、先ほどと何一つ変わっていない。まるで、この異常事態は全てお前のせいだと、無言で主張しているかのようだ。
異界渡り。
まさか、本当に。
そんな、馬鹿なことがあるものか。
これは夢だ。悪夢だ。疲労とストレスが生み出した、極めて精巧な幻覚だ。
創は必死にそう思い込もうとした。頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。
心臓が、警鐘のように激しく脈打つ。どく、どく、と、自分の血流の音が耳の奥でうるさく響いた。冷たい汗が、背筋を伝っていくのが分かった。
まずい。これは、本当にまずい状況なのではないか。
食料も、水も、武器も、何もない。あるのは、着の身着のままの自分だけ。この広大な自然の中で、たった一人。夜になれば、気温は下がるだろう。得体の知れない獣に襲われるかもしれない。
死ぬ。
その、最も根源的な恐怖が、創の全身を支配した。
会社での人間関係のストレスなど、この絶望的な状況に比べれば、鼻くそのようなものだった。辞表を叩きつけた数日前の自分の勇気(あるいは無謀)が、遠い昔の出来事のように感じられる。
ああ、帰りたい。
あの散らかった、家賃八万二千円の、俺の城へ。
何の変哲もない、ただの日常へ。
「家に帰りたい!!」
ほとんど、祈りに近い絶叫だった。
自分の部屋。あの、ダンボールと脱ぎっぱなしの服で散らかった、けれど世界で一番安全な、あの場所へ。
そう、強く、念じた。
次の瞬間、彼の身を包んだのは、先ほどと同じ、世界が歪むような感覚だった。
視界が白く塗りつぶされ、強烈な浮遊感が再び全身を襲う。
そして、創は、立っていた。
先ほどまでと同じ場所。フローリングの床の上。目の前には、飲みかけのインスタントコーヒーが入ったマグカップが置かれた、安物のローテーブル。
鼻孔をくすぐるのは、異世界の清浄な空気ではなく、コーヒーの苦い香りと、ほのかに漂う生活臭だった。
窓の外には、二つの太陽ではなく、見慣れた灰色のビルが、いつもと同じように退屈な顔で建っている。
「……は……ぁ、はぁ……」
創は、その場にへたり込んだ。全身の力が抜け、心臓だけが、まだ状況を受け入れきれずに暴れ回っている。
夢じゃ、なかった。
幻覚でも、なかった。
足元を見る。裸足の裏に、柔らかな土と、数枚の緑の葉っぱがついていた。あの、異世界の野原の感触が、まだ確かに残っている。
彼は震える手で、足の裏の土をそっと指でぬぐった。それは、紛れもなく本物の土だった。
「ええ……?」
理解不能な現実に、声が震える。
「これって……異界、異世界にいけるようになったってコト!?」
その言葉が口をついて出た瞬間、恐怖と混乱の靄が、さっと晴れていくような感覚があった。
そして、その後にやってきたのは、純粋な、子供のような興奮だった。
「うおーー、すげー!!」
創は立ち上がり、意味もなく部屋の中をうろうろと歩き回った。
異世界。
ゲームやアニメの中だけの、空想の産物だと思っていた場所。そこに、自分は、今、行ってきたのだ。そして、自分の意志で、帰ってきた。
異界渡り。
それは、文字通り、世界と世界を自由に行き来できる能力。
途方もない、信じられないような力が、この俺の、三十五歳無職の、この俺の手に宿ったのだ。
最初は、ただただ、その事実に対する驚きと興奮だけがあった。
だが、落ち着きを取り戻し始めた創の頭脳は、すぐに別の方向へと回転を始める。
それは、十年以上の社会人生活で、彼の心に深く、深く刻み込まれた、ある一つの思考回路だった。
「これ……もしかして……」
彼の口元が、にやりと歪む。
「金儲け、出来る!?」
その考えに至った瞬間、全身に電流が走ったような衝撃があった。
そうだ。金だ。金になる。これは、とんでもない金になるぞ。
働かなくてもスローライフがしたい。
そのために、会社を辞めた。退職金と、実家というセーフティネット。それが、創の計画の全てだった。
だが、この力があればどうだ?
再就職? ハローワーク? そんなちっぽけな話じゃない。
億万長者。大富豪。一生、いや、十生遊んで暮らせるだけの富を築くことすら可能なのではないか。
創の頭の中は、一瞬にして、欲望に満ちた妄想でいっぱいになった。
「これ、例えばだぞ?」
彼は、独り言を呟きながら、部屋の中を興奮気味に歩き回る。
「胡椒とか香辛料を異世界に持ち込めば、金貨がザクザク手に入るとかもあり得る???」
中世ヨーロッパにおいて、胡椒が金と同じ重さで取引されたという話を、何かで読んだことがある。もし、転移先がそれに近い文明レベルの世界だったとしたら? こちらの世界のスーパーで数百円で売っている香辛料が、向こうでは莫大な富を生むかもしれない。
塩や砂糖だってそうだ。精製された真っ白な塩や砂糖は、きっと貴族たちが目玉を飛び出させて欲しがるに違いない。ガラス玉や、百円ライター、安物のナイフ。こちらの世界ではガラクタ同然のものが、向こうでは魔法の道具のように扱われる可能性だってある。
「……でも、金貨を手に入れても、換金出来ないか???」
しかし、すぐに現実的な問題にぶち当たる。
異世界の金貨を、日本でどうやって日本円に換えるのか。
貴金属店に持ち込んだとしても、純度や成分が地球上の金と違っていたらどうなる? そもそも、出所不明の大量の金を持ち込めば、すぐに警察に目をつけられるだろう。脱税、あるいは窃盗の疑いをかけられて、能力のことがバレたら、即座に国の研究施設にでも監禁されてしまうのではないか。
「いや、ヤクザとかに頼めばいけるか?」
裏社会。彼らなら、足のつかない金の洗浄ルートを持っているかもしれない。だが、それも危険すぎる選択肢だ。一度関われば、骨の髄までしゃぶり尽くされるのがオチだ。能力のことを知られれば、一生、彼らのための運び屋として奴隷のようにこき使われることになるだろう。
「いやいや、ヤクザはまずいか……」
創はぶんぶんと首を振る。リスクが高すぎる。目指すのは、あくまで安全で快適なスローライフだ。危険な橋は渡りたくない。
「政府に、なんとか伝手を取ってコンタクトして、換金してもらう???」
それが、最も安全で、確実な道かもしれない。
自分は異世界と行き来できる能力を持っている、と。その証拠として、異世界の物品を提示する。その上で、国益のために協力する代わりに、相応の報酬と身の安全を保障してもらう。
だが、それもまた、茨の道であることに違いはなかった。
まず、どうやって政府の信頼できる筋にコンタクトを取るのか。下手に動けば、統合失調症の妄言として処理されるか、あるいは、もっと得体のしれない、公には存在しない機関に捕縛される可能性だってある。
それに、国と取引するということは、自分の自由を差し出すことと同義ではないのか。
「国家の安全保障に関わる重要人物」として、二十四時間監視下に置かれ、好きな時に好きな場所へ行くことも許されなくなるかもしれない。それは、創が望むスローライフとは、かけ離れた生活だ。
「うーん……」
交易による金儲けは、換金という大きなハードルがある。
ならば、別の方法はないか?
「待てよ、逆はどうだ?」
創の思考が切り替わる。
こちらの世界の物を向こうで売るのではなく、向こうの世界の物を、こちらで売る。
例えば、ファンタジー世界によくある「ミスリル」や「オリハルコン」のような、地球には存在しない超硬度の金属。それを持ち帰って、金属加工メーカーや研究機関に売ればどうだ? きっと、とんでもない値段がつくだろう。
あるいは、「エルフの秘薬」のような、どんな病気や怪我も治してしまう万能薬。製薬会社に持ち込めば、特許と権利だけで、天文学的な額の金が手に入るかもしれない。
ドラゴン。その鱗や牙、心臓。全てが、研究対象として、あるいは希少な素材として、高値で取引されるはずだ。
「……いや、ドラゴンは無理だろ、死ぬわ」
自分で自分にツッコミを入れる。
そうだ。安全性。それが最大の問題だ。
先ほどの野原は、たまたま安全な場所だっただけかもしれない。一歩森に足を踏み入れれば、そこには巨大な肉食獣や、毒を持つ植物がうようよしている可能性だってある。
そもそも、知的生命体がいるかどうかも分からない。もしいたとして、友好的とは限らない。いきなり「不法侵入者め!」と槍で突き殺されるかもしれない。
「リスク管理……そう、リスク管理が重要だ」
プロジェクトマネージャーとしての経験が、ここで思わぬ形で活きてくる。
目的(Goal)は、「働かずに悠々自適なスローライフを送るための資金を得ること」。
そのための手段(Method)が、「異界渡り能力を使った金儲け」。
しかし、そこには様々なリスク(Risk)が存在する。
・転移先の安全性の問題
・現地生命体との接触の問題
・交易品の価値観の相違
・換金手段の確立
・能力の露見による身の危険
「……ダメだ、考えることが多すぎる」
興奮しきっていた頭が、少しずつ冷静さを取り戻していく。
これは、そんなに簡単な話ではない。一歩間違えれば、金を手にするどころか、命を失う。あるいは、人間としての尊厳を失うことになる。
「とにかく、計画が必要だな」
創は、そう呟いた。
そうだ。計画だ。行き当たりばったりで動いていい能力じゃない。
彼は部屋の隅に積まれたダンボール箱の一つを開け、中から使い古したノートと、一本のボールペンを取り出した。そして、ローテーブルの上で、真新しいページを開く。
ペンを握る。そのペン先が、震えていた。
武者震いか、それとも恐怖か。あるいは、その両方か。
彼は、ノートの最初のページに、大きく、こう書き記した。
【プロジェクト名:俺の悠々自適スローライフ計画】
十年以上ぶりに、自分のためだけに、自分の未来のためだけに、創は、人生で最も重要で、最も胸が躍るプロジェクト計画書を、作り始めたのだった。