森の洞窟へ
小村での戦いから一夜が明け、悠太とリナは流浪の民のキャラバンの天幕に囲まれていた。
朝の紫の霧が薄く漂い、荷馬車の周りで子供たちが馬に干し草を投げる。
色あせた布の天幕が風に揺れ、木枠には鉄の遺民の刻印が刻まれた水瓶が置かれていた。
馬が小さくいななき、子供の笑い声が霧に溶ける。
老女が荷馬車の陰からぼろ布の地図を広げ、震える指で森の奥を指した。
「安定石だ。村の結界を保つには、あれが必要だ。森を20キロ進んだ洞窟にある。鉄の遺民の機械が眠ってる場所だよ」
リナが地図を覗き、紫の瞳を細めた。
「洞窟か。20キロなら一日で行けるが、腐敗が濃いエリアだ。徘徊獣や使徒がうろついてるな」
悠太が老女の隣で地図を見た。
黒紫の川と洞窟が描かれ、影の神殿への道が廃墟を通る線で示されていた。
「安定石ってどんなの? 結界にどう使うんだ?」
老女が咳き込み、鉄の遺民の刻印が輝くペンダントを握った。
「影の脈から生まれた紫の結晶だ。光を閉じ込めて、結界柱を強くする。神殿への道の手がかりも、洞窟の鉄の遺民の記録にある。だが、黒の深淵の霧が濃い。気をつけな」
悠太がポケットの欠片を握ると、紫の脈光が指先で揺れ、鋭い痛みが腕を突いた。
まるで冷たい刃が骨を抉るような感覚だった。
「黒の深淵って…なんで徘徊獣や使徒が襲ってくるんだ?」
リナが短剣を手に、立ち上がった。
「ゼルヴァスの意識だ。昔の影の王が外来者の術で腐って、黒の深淵になった。封印されてるけど、その意志が霧になって獣や使徒を操る。心核や安定石を壊して、影の民を滅ぼそうとしてるんだ」
老女が頷き、声を震わせた。
「使徒はゼルヴァスの復活を企む。安定石を狙ってるよ。洞窟には気をつけな」
悠太が息を呑み、欠片を握り直した。
「…わかった。リナと一緒なら、なんとかなるだろ」
リナが鼻で笑い、視線を逸らす。
「…バカ、調子に乗るな。遅れたら置いてくぞ」
彼女が悠太の荷物を軽く持ち直すと、悠太が慌てて追いかけた。
「お前が持つと重いって。俺が持つよ」
「…黙ってついてきな」
リナの声はそっけないが、口元に小さな笑みが浮かんだ。
悠太は彼女の銀髪が揺れる背中を見つめ、頼りになると感じた。
キャラバンの子供が手を振る中、二人は森の奥へ踏み込んだ。
交易路を外れ、森の深部へ進む。
紫の霧が膝まで這い、黒くひび割れた樹木が白骨のようにそびえる。
腐敗の黒い疫気が地面から漏れ、まるで土が毒を吐いているようだった。
風が欠片を運び、紫の脈光が宙で瞬く。
悠太が欠片を握ると、痛みが胸まで響き、まるで心臓に冷たい火が灯るようだった。
「この森、ほんと気味悪いな。神殿まで40キロ以上あるんだろ?」
リナが短剣を手に、周囲を警戒した。
「50キロだ。廃墟を通って3~4日。洞窟は20キロ先、腐敗した川を渡る。鉄の遺民の機械が残ってるが、使徒が目を光らせてる」
森の奥で水の音が響いた。
腐敗した川が現れ、黒紫の水が渦を巻く。
水面は油のような光沢を帯び、死んだ魚が白い腹を浮かべていた。
魚の目は濁り、腐敗の黒い疫気が水面から立ち上る。
まるで川が毒の息を吐くようだった。
岸辺の木々は根元から黒く溶け、幹がひび割れて骨のように折れていた。
腐敗の匂いは鼻を刺し、まるで焼けた革と腐った果実が混ざったようだった。
悠太が鼻を覆った。
「うっ、めっちゃ臭い! 腐った油みたいだ。これ渡れるのか?」
リナが枯れた枝を拾い、川に投げた。
枝が水面に触れると、黒紫の泡が弾け、シューッと音を立てて枝が溶けた。
泡が弾けるたび、疫気が濃くなり、悠太の喉が焼けるように痛んだ。
「腐敗の毒だ。触ると皮膚が焼ける。影の糸で橋を作るぞ」
リナが腕を振ると、影の糸が光の縛鎖のように伸び、対岸の岩に絡んだ。
紫の光が脈打ち、細い橋が形作られた。
糸はしなやかで、まるで光が編まれた帯のようだった。
「すげえ! リナ、どうやってるんだ?」
「イメージだ。欠片を心で縛れ。風の流れを掴むんだ。失敗すると痛むぞ」
悠太が欠片を握ると、紫の脈光が指先で揺れた。
痛みが腕を刺し、まるで冷たい針が骨を突くようだった。
光の縛鎖をイメージしたが、糸が揺れ、すぐに崩れた。
「くっ、ダメだ! 痛くて集中できない!」
リナが悠太の手を掴み、指の位置を直した。
「落ち着け。欠片に逆らうな。流れに身を任せろ」
彼女の指は冷たく、力強かった。
悠太はリナの声に集中し、紫の光が光の縛鎖となって伸びた。
細い糸が川に届き、橋を補強した。
「…できた! やったぞ!」
リナが小さく頷く。
「悪くない。さっさと渡れ」
二人が糸の橋を渡ると、黒紫の水が下でうねり、泡が弾けた。
水面の死骸が揺れ、疫気が鼻を刺す。
悠太がリナの背中を支えると、彼女が一瞬振り返る。
「…バカ、余計なお世話だ」
「いや、落ちたらヤバいだろ」
リナの口元が緩み、紫の瞳が揺れた。
橋を渡り終え、森の奥へ進む。
腐敗の疫気が濃くなり、遠くで徘徊獣の咆哮が響いた。