旅立ち
村の広場は重い静寂に沈んでいた。
紫の霧が地面を這い、結界柱の中心に嵌め込まれた結晶が弱々しく点滅している。かつては鮮やかな紫の光で村を包んだ結界も、今は黒紫の腐敗に侵され、ひび割れた石柱からかすかな光しか漏れない。
住民たちは広場に集まり、革鎧を着た数少ない戦士たちが影の糸を織って結界を補強しようとしていた。だが、糸は途中で千切れ、紫の光が霧に溶けるように消える。子供の泣き声が遠くで響き、住民の顔には不安が広がっていた。
悠太は広場の端に立ち、眼鏡を直しながら周囲を見回した。シェイドリアに来て数週間、元の世界の記憶と異世界の現実がまだ心の中でせめぎ合う。
胸のポケットで、影の欠片が小さく脈動していた。ガラス片のような鋭い輝きを放つ紫の粒子は、触れるたびにチリチリと電気が走るような痛みを放ち、まるで意志を持つように震える。悠太がそっと握ると、指先から紫の光が漏れ、血管が熱くなる感覚が走った。外来者の彼にとって、欠片は共鳴するたびに吐き気と痛みを伴うが、同時に不思議な力を感じさせた。まるで、欠片が彼に何かを語りかけているようだった。
「悠太、ぼーっとすんな。長老が呼んでる」
リナの鋭い声が響き、悠太はハッと顔を上げた。銀髪を結んだリナは、紫の瞳を細め、革の短剣を腰に差して立っている。彼女の背後では、戦士たちが疲弊した顔で結界柱に糸を巻きつけていたが、黒紫の腐敗の霧が柱を侵し、糸が溶けるように崩れる。リナの瞳が一瞬、住民たちを映し、すぐに悠太に戻った。
「…ったく、こんな時に呑気な奴」と呟き、彼女は悠太の腕を軽く叩き、広場の中心へ促した。
悠太は苦笑し、リナの後を追った。彼女の歩調は力強く、革鎧の擦れる音がリズムを刻む。リナの指導で影の糸を織る練習を始めてから、彼女の強さと厳しさに圧倒されつつ、どこか心強い存在だと感じていた。リナがそばにいると、未知の世界への不安が少し和らいだ。
広場の中心で、長老が杖を地面に叩きつけた。白髪の老女の紫の瞳が夜空の星のように輝き、杖の先から紫の光が一瞬広がった。住民たちが息を呑み、長老の声が低く響く。
「影の民は、かつて数百の村でシェイドリアの均衡を守った。だが、黒の深淵の腐敗は我々を追いつめ、村は次々と滅んだ。今、戦える者はわずかだ。流浪の民は交易路を彷徨い、鉄の遺民は機械の残骸に隠れる。この村も、結界が崩れれば数日で終わる」
長老の視線が悠太とリナを捉えた。悠太は欠片を握り、チリチリした痛みに耐えながら背筋を伸ばした。
長老が続ける。
「影の神殿に『影の心核』がある。紫の結晶は均衡の源、触れるだけで力が脈動する。あれを回収しなければ、村は腐敗に飲み込まれる。悠太、お前の異常な共鳴は予言の鍵だ。リナ、お前が導け」
悠太の胸が締め付けられた。心核――紫の結晶が脈動し、触れるだけで全身に力が満ちるという。それがなければ、結界は崩れ、黒紫の腐敗が全てを灰に変える。腐敗はまるで生き物のように、木々を骨のようにひび割れさせ、土から黒い煙を立ち上らせ、触れた者を弱らせる毒素を放つ。
悠太は村の外の森を思い出した。黒く枯れた樹木、紫の霧が地面を這い、遠くで徘徊獣の咆哮が響く不気味な世界。徘徊獣は腐敗で変異した獣で、黒い毛皮に赤や紫の目が光り、鋭い爪や牙で襲いかかる。
「俺で…いいのか? 影の糸もまだちゃんと織れないのに」
悠太の声は震えたが、リナが鋭く睨む。
「バカ言うな。お前の共鳴は異常だ。死にたくないなら、私についてこい」
リナの紫の瞳が燃えるように輝き、短剣を握る手が力強い。悠太は欠片を握り、痛みを堪えて頷いた。
「…わかった。リナと一緒なら、なんとかなる気がする」
リナの頬が一瞬赤らみ、視線を逸らした。
「…ふん、調子に乗るなよ。さっさと準備しろ」
彼女の口調は厳しいが、どこか温かみがあった。悠太は小さく笑い、荷物を背負った。リナのそばにいると、どんな危険も乗り越えられる気がした。
長老が杖を掲げ、紫の光が広場を照らす。
「流浪の民は荷馬車で交易路を彷徨い、鉄の遺民は錆びた機械に隠れる。だが、黒の深淵は全てを腐らせる。悠太、リナ、行くのだ。影の神殿へ。心核を手にしろ」
住民たちの視線が二人に集まる。子供が怯えた目で悠太を見上げ、老人が祈るように手を握る。
流浪の民のキャラバンが村の外で待機し、荷馬車に積まれた色褪せた布や干し肉が風に揺れる。鉄の遺民の噂――機械の残骸に隠れる者たち――が住民の囁きに混じる。悠太は欠片を握り、熱い脈動を感じた。リナが肩を叩き、短剣を抜く。
「行くぞ、悠太。遅れるな」
「遅れないよ。置いてかないでくれよな」
悠太の軽口に、リナが「…バカ」と呟きつつ、口元が緩む。二人の絆はまだ脆いが、確実に根を張り始めていた。
村を出た二人は、腐敗した森の入口に立った。黒くひび割れた樹木が骨のようにそびえ、紫の霧が地面を這う。遠くで徘徊獣の咆哮が響き、紫の光が空を揺らす。腐敗の匂いは鼻をつき、まるで焦げた鉄と腐った果実が混ざったようだった。
リナが影の糸を振ると、紫の光が弧を描き、枯れた枝を切り裂いた。糸は蜘蛛の糸のようにしなやかで、鋼のように強く、紫の光が流れる川のようだった。まるで空気を縫うように、糸が風を切り、地面に紫の軌跡を残した。
「影の欠片を紡ぐんだ、悠太。イメージしろ。川の流れ、風の動き。集中しないと、欠片が暴走して刺さるぞ」
リナの指導に、悠太は欠片を握り直した。紫の粒子が指先で脈動し、チリチリした痛みが走る。まるで小さな星屑が皮膚を刺すようだ。糸を織ろうとすると、欠片が暴走し、腕に突き刺さるような激痛が走った。
「うっ…くそ、痛え!」
悠太が顔を歪めると、リナがため息をつく。
「集中しろって言ったろ。ほら、もう一回」
彼女が悠太の手に触れ、欠片を握る位置を直す。リナの指は冷たく、だが力強かった。悠太は彼女の手の感触に一瞬胸が高鳴り、すぐに集中した。欠片が脈動し、紫の光が糸となって指先から漏れる。細い糸が空中で揺れ、木の枝に絡まった。
「…できた! ちょっとだけだけど!」
悠太の声に、リナが小さく頷く。
「…初めてにしては上出来だ。ほら、さっさと歩けよ」
リナが悠太の荷物をさりげなく持ち直すと、悠太が慌てて追いかける。
「お、お前が持つと重いだろ。俺が持つよ」
「…余計なお世話。黙ってついてこい」
リナの声はぶっきらぼうだが、彼女の紫の瞳にはほのかな温かさが宿っていた。悠太はリナの背中を見つめ、心強いと感じた。彼女の指導と行動が、彼に力を与えていた。
森の奥へ進む二人の背後で、徘徊獣の咆哮が近づく。黒紫の霧が濃くなり、腐敗の匂いが鼻をついた。悠太は欠片を握り、痛みを堪えた。リナの銀髪が紫の霧に揺れ、彼女の短剣が紫の光を反射する。冒険の始まりは、危険と希望の狭間にあった。