転移と邂逅
東京の片隅、雑居ビルの3階にある古びた図書館。薄暗い書庫は、陽光が埃の粒子を照らし、木の棚が軋む音が響く。
悠太、28歳、黒髪が額に乱れ、眼鏡の奥で疲れた瞳を細める。青いカーディガンの袖は擦り切れ、手は慣れた動きで本を整理する。空気には古い紙の匂いと、かすかなカビの湿った香りが漂う。
静かな午後、カウンターの時計がカチカチと秒を刻む。書庫の奥で、悠太は異様な本を見つけた。黒い革のような表紙に、タイトルも著者名もない。表面は液体のように光を吸い込み、触れると冷たく、指先に微かな震動が走る。
「…こんな本、いつ入ったんだ?」
悠太の呟きは静寂に吸い込まれる。
好奇心が疼き、ページを開いた。
すると、たちどころに黒紫の霧が溢れ出し、霧は渦を巻き、棚を這い、床を覆う。心臓が跳ね、眼鏡がずり落ちそうになる。
「何!? うわっ!」
霧が体を包み、視界が暗転。宇宙に投げ出されたような浮遊感が襲い、胃が縮こまる。
次の瞬間、冷たい土の感触が背中に走り、地面に叩きつけられた。
目を開けると、悠太は見知らぬ森にいた。
太古の樹木が天を掴まんと捻れた枝を広げ、黒ずんだ幹には苔と影の糸が絡みつき、まるで生き物のように脈打つ。葉の隙間から薄い月光が漏れ、地面を紫がかった靄が這う。靄は生き物の呼吸のようで、触れると冷たく、微かな振動が肌を刺す。空気は湿り、腐った木と鉄のような匂いが混じる。地面は柔らかな苔に覆われ、踏むたびに水が染み出す。遠くでかすかに獣の遠吠えが響き、木々のざわめきが不気味な囁きに聞こえる。
悠太は慌てて立ち上がり、眼鏡を直すが、指が震えてフレームを落としそうになる。
「ここ、どこだ…? 家は? 図書館は?」
声が掠れ、森の静寂に反響する。服に付いた土を払い、辺りを見回した。冷や汗が背中を伝うのを感じる。
背後でガサリと音がした。振り返ると、闇の中から三つの赤い目が浮かぶ。まるでアニメで見るような獣のような何かがこちらを伺っていた。体長2メートル程、黒紫の霧に覆われた体は半透明で、歪んだ骨格が透ける。尾は影の糸が束になり、液体の鞭のように揺れる。牙は結晶のように鋭く、月光を反射して妖しく光る。獣は低く唸り、爪が土を抉る。霧が濃くなり、視界が狭まる。
「うわっ、なんだよ、これ! ゲームのモンスターかよ!?」
悠太は後ずさりした。足が古樹の根に引っかかり、尻もちをつく。土の冷たさがズボンを濡らし、恐怖で体が硬直した。
獣が近づき、影の触手が蛇のように伸び、足元を狙う。空気を切り裂く風切音が耳を刺す。心臓が喉に詰まり、息が止まる。
「どこかもわからない、こんな場所で死ぬのかー」
そんな思いが脳裏を駆け巡った刹那、鋭い風切り音が森を切り裂いた。銀色の髪が月光に舞い、紫の瞳が闇を貫く。少女の影が短剣を手に獣に飛びかかる。
悠太は少女と獣の戦闘を眺め、身動き一つ取れないでいた。
スレンダーでしなやかな体躯。腰ほどまであるであろう銀色の長髪は闇夜に跳ね、月光を受けるとまるで液体の銀のように輝く。汗で額や頬に張り付くその乱れすら優雅に見える。
紫の瞳は深く、まるで星空をそのまま閉じ込めた宝石のよう。鋭く燃えるその宝石は真っ直ぐに獣を見据えていた。
黒い革の軽装は動きを妨げず、肩や腰に装飾が施され、紫の光を放つ。
短剣は、刃に影の結晶が埋め込まれ、振るうたびにキラキラと霧が尾を引く。
彼女の動きは舞踏のように流麗で、強さと美しさが融合している。
彼女の短剣が弧を描き、刃から紫の霧が尾を引く。獣の首を狙った一撃が霧を切り裂き、赤い目が揺れる。獣が反撃し、触手が鞭のように振り下ろされる。地面を抉り、土が飛び散る。彼女は軽やかに跳び、触手を避け、短剣を振るう。刃が獣の肩に当たり、霧が爆ぜるように散る。獣の咆哮が森に響き、地面が振動。彼女は着地し、銀髪が肩に落ちる。紫の瞳が獣を射抜き、冷静に次の動きを計算。
獣が横から襲い、爪が空気を切り裂く。彼女は体をひねり、髪が翻るが、爪が肩をかすめ、革の軽装が裂ける。血が滲み、彼女は歯を食いしばる。すぐに反撃し、短剣から糸のようなものが放たれ、獣の足を縛り上げた。捕らえられた獣は暴れるも、しだいに動きが鈍る。彼女の銀髪が汗で頬に張り付き、紫の瞳が燃える。
彼女は冷たく、刃のように鋭い声で、悠太に向け言葉を放った。
「動くな。外来者だな?」
悠太は息を呑み、彼女の美しさに目を奪われる。銀髪が月光に輝き、紫の瞳に警戒と孤独が宿る。
「え…あ、助けてくれて、ありがとう!」
声が上ずり、眼鏡が汗でずり落ちる。彼女は短剣を鞘に収め、カチリと音を立てる。眉をひそめ、軽く首を振る。
「言葉はわかるようだな。礼なら後でいい。まずは生き延びろ」
彼女が差し出した手は細く、指先に影の糸がまとわりつき、紫の光が揺れる。悠太は恐る恐るその手を取り、立ち上がる。
「リナだ」
彼女の手の温かい感触に、ほのかに花のような香りが混じる。リナは手を離し、背を向ける。
「ついてこい。森は危険だ」
悠太は彼女の背中を追い、銀髪が揺れる姿に目を奪われる。
「待って、ちょっと! ここ、どこ? 俺、なんでこんなとこに!?」
リナは振り返らず、淡々と答える。
「シェイドリアだ。影が支配する世界。お前がここにいる理由か? 知らない。お前が何かやらかしたんだろ」
「やらかしたって…本開いただけなのに!」
抗議に、リナが小さく笑う。銀髪が軽く揺れ、紫の瞳がちらりと彼を見る。
「本、ね。妙なきっかけだな。死にたくなければ黙ってついてこい」
その笑みに、悠太はドキリとする。冷たい態度なのに、心が軽くなる。
「…めっちゃ怖いけど、なんかスゲー人だな」
呟きながら、彼女の背中を追う。