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川の畔、夕空に実る

作者: 小口充

 ミーンミーン。六月、蝉の鳴き声が聞こえ始める頃、枯藤(かれふじ)高校はテスト期間に入っていた。

 高校生になって一年がたったが、どうにもテスト特有の空気感は好きになれない。

 そんなことを考えていると先生の話に集中できずに四限目の授業が終わった。

 先生が教室から出て行った後で前の席の(はやて)が話かけてきた。

「ねえ浩人、テスト勉強しとる?」

 そんな質問、答えは決まっている。俺は真剣な眼差しで答えた。 

「当たり前だろ。しとるわけない」

「そうだよな」と二人で笑う。テスト前はこんな会話ばかりしている。

「まだ二年やけん、余裕よ、余裕」

 手をひらひらさせながら颯は笑って言った。

「華の高校生活やけんね。青春せんと」

「青春と言えば浩人(ひろと)、お前好きな人とかおらんと?例えば六組の伊藤さんとか、一組の堤さんとか」

「…ごめん、誰と誰って?」

「嘘だろお前、二人知らないのか?枯藤高二年の二大美女やぞ」

「あーなんか部活のやつらが言いよった人たち?」

「そうそう、興味ないと?」

「あんまりかな」

「草食系男子かよ」

「あーやだやだ。なんで青春イコール恋愛になるのかね。これやけん恋愛脳は」

「まあ、でも俺は彼女おるし。楽しいよ、日々が充実しとって」

「知ってる」

 颯には彼女がいる。二人は幼馴染らしく、ところかまわずイチャイチャしているというより、むしろ周りまで温かくなるような、そんな感じである。羨ましいとは思わないが、少し悔しくはなる。

「部活に友人、青春とかそれだけでも十分すぎるやろ」

 そう僻むなよと言わんばかりに、にやにやしながら颯は俺を見ている。

 もちろん今の発言が本心ではない。彼女は作りたいに決まっている。誰にも言ってはいないけれど好きな人だって本当はいる。

 けれども必ずしも恋愛というものが美しく愛すべきものではないことを俺は知っている。世間で謳われる恋物語の主人公になれなかった者達も当然にいる。

 俺を含めたその人達は、果たして恋愛が美しいものだと言い切れるだろうか。少なくとも俺はそうではない。後悔と喪失感に溺れてしまいそうになる。

 この感情を一途だと言ってやっぱり恋は綺麗で美しいと思えるのはその人が俺自身ではないからなのであって、俺は何も褒められるような感情ではないと思う。未練たらたらで過去しか見ていないのだから。

「まあいいや。浩人、学食行こうぜ」

 一足早く廊下に踏み出して俺を急かしてくる。

「ちょっと待って。今行く」

 早足で颯の後を追う。

「あ、言い忘れとったけど、莉由も一緒でいい?」

 時塚莉由(ときづかりゆ)。例の颯の彼女だ。

「今更やろ。わざわざ毎回言わんくていいよ」

「まあ、それもそうやね」


 教室から歩いて一分足らずのところに学食がある。

「颯、深澤君。こっちこっち」

 先に行っていた時塚が席を取ってくれいていたらしい。

 うちの学食は広い方だと思うが生徒数も多いため、昼休みには三人まとまって席を取るのが難しいこともある。だから席を取ってくれているのはとても助かる。

「莉由、ありがとう」

「ううん。全然大したことないよ」

 なんてことない会話だが、二人が醸し出す雰囲気はカップルのそれである。二人だけの世界が広がっているようなそんな感じである。

「ごめん、俺のこと忘れんで?」

 やや呆れた口調で二人が世界に入り込むのを止めた。

 俺は唐揚げ定食、颯はちゃんぽん、時塚はカレーを持って再度、席に着いた。

「そういえば今日、転校生来たっちゃん」

 たしかに朝、二組の方が騒がしかった。

「女の子でさ、……可愛かった」

 時塚がちょっと照れながら言った。

「へー、でも珍しいね。この時期に」

「そうよね。私の隣の席でさ、仲良くなりたいけん、明日の昼ごはん誘ってもいい?」

「別にいいよ。浩人もいいやろ?」

「うん、いいよ。その人名前はなんていうと?」

「さいとうあかりちゃん」

 ゴホッゴホッ、思いもよらない名前に飲んでいた水で咽てしまった。

「ごめん。なんだって?」

「やけん、さいとうあかり。斎藤に茜の里で茜里」

「大丈夫?」

「う、うん大丈夫。ちょっと咽た」

 彼女の名前をもう一度耳にするなんて俺は思いもしなかった。

 斎藤茜里、そう彼女こそ俺が中学時代、片思いをし続けた相手なのだ。青春の記憶といってもいいかもしれない。

 顔は見ていないし同姓同名という可能性もあるが、漢字まで一緒ということはあまりないだろう。

 彼女にまた会えるという高揚感を俺は抑えられなかった。


 しかし、その高揚感は一瞬にして潰えた。

「初めまして。斎藤茜里といいます。よろしくお願いします」

 次の日の昼休み、斎藤さんは俺と颯の目をまっすぐ見て言った。目の前にいるのは紛れもなくあの斎藤さんなのである。

 俺の見た目が中学から高校で大きく変わったわけではない。むしろ斎藤さんの方が今までとは雰囲気が違う。まるで、今までの記憶が無くなったかのように。

「俺は橋本颯。よろしくね」

 初対面の人間は気にするわけがない。完璧で典型的な挨拶なのだから。

「俺は、深澤浩人です。よろしく」

 名前を聞いても斎藤さんは特にこれといった反応も示さない。

「よし、じゃあ食べようか」

 時塚が俺の思考を遮るように言った。

 いや、実際は何も考えられないでいた。みんな、「いただきます」と言ってもう食べ始めている。

 颯も時塚もぐいぐい距離を詰めるタイプではないので、きっと他愛のない話をしたのだろう。周りに合わせて表情を作っていたが何を話していいのかわからなかった。

 時塚が中心となって場を盛り上げていた。

「明日も一緒に食べてもいいですか?」

 解散するときに斎藤さんが言った。

「もちろん。あ、それとさ、敬語使わんくていいばい。同い年やけん」

 時塚が返す。

「うん、ありがとう」

 斎藤さんが笑う。中学二年間同じクラスだった俺が見たことない笑い方だった。


 放課後、部活終わりのことだった。颯の携帯に時塚からメッセージが入った。

「茜里ちゃんのことで言っておきたいことがあるけん、昇降口で待っとる。深澤くんも連れて来て」

「ってことだ。ちょっと来い浩人」

 颯に連れられて昇降口まで行った。

「あ、来た来た。最終下校まで時間ないけん、帰りながら話そう」

 校門を出た後、いくつかの交差点を曲がって生徒の数が減ってきたところで時が本題を切り出した。

「それで、茜里ちゃんの件っちゃけどさ、今日のホームルーム終わり茜里ちゃんのお父さんが来たっちゃん」


「皆さんの時間を少しだけお借りして話しておきたいことがあります。聞いていただけると幸いです。……話というのは私の娘、茜里のことです」

少しの間の後、また続けた。

「茜里は記憶を失っているんです。……先月のことです。私の妻で茜里の母が病気で急逝しました。それから少し経ったときにやっと現実を受け入れたのか、その現実から逃れるように茜里は記憶を失いました。それまで通っていた高校での交友関係もすべて白紙になってしまったので、茜里がゆっくりできるように私の実家に帰ってきてこの学校に転校してきました。今は十分な休養が必要と医師の方も言っていたので茜里に中学時代のことや前の高校のことを聞くのを控えてほしいんです。身勝手なお願いではありますが、失った記憶を刺激したくはないんです。ご協力お願いします」


「ってことがあって二人にも知っとって欲しくて」

 時塚は「それだけ」と言って笑った。

「そっか。……でも、気を付けることはあっても俺たちが変わることもないし、今までどおりだな」

 颯もそう言って微笑み返した。その言葉にほっとしたようで、時塚は「ありがとう」と言って、優しく口元を緩めた。

「どっちがいいんだろうな」

 考えていたことが思わず口に出ていた。

「どういうこと?」

 颯の頭の上にクエスチョンマークが出ている。時塚も同じ顔をしている。

「いや、記憶をなくしたままか、記憶を取り戻すのか本人にとってはどちらの方がいいのかなって思って。もちろん今は安静にってのが一番だけど」

 これは俺にとっても大事なことだ。

 せっかくもう一度チャンスが巡ってきたのだから、今のままこれまでのことを無かったことにしてもう一度彼女との関係を築きたい。

 けれど果たしてそれでいいのだろうか。なにか彼女を騙しているような颯たちを裏切ったようなそう思ってしまう。

「これは投げやりっていうか、他人事って思うかもしれんけどさ、きっと茜里ちゃん自身が何とかするんだと思う。何の根拠もないけど、たとえ記憶を取り戻したとしてもそれに向き合える強さをちゃんと持っとるよ。まだ会って二日やけど」

 えへへと時塚は自信ありげに笑った

「そっか。そうよね」

 確かにそうだと思う。なら俺はどうするのが正解なんだろう。

「じゃあ、俺はここで。また明日」

 二人に別れを告げて家に帰る。


 結局、昨日の問いに答えを出せないまま次の日になっていた。とりあえず二人には相談してみようと思う。

「あ、深澤さん。おはようござい…じゃなくておはよう」

 登校途中でばったり会った。

「おはよう、斎藤さん」

 これは二人で登校する雰囲気だ。察した通り、何かを言うでもなく自然と二人並んで歩いていた。

「学校はもう慣れた?」

 話題が見当たらず何の捻りもない話を振る。

「うん、みんな話しかけてくれるし、勉強はちょっと頑張らなくちゃだけど」

「そっか」

 気まずいというのとはまた違う気がする。ただ、頭が働かなくなるというか、何も考えられなくなる。朝だからということではなく、隣に斎藤さんがいるからであるが。いつもの調子で話せていれば、ある程度はこの場を盛り上げれる自信がある。

「莉由ちゃん達とは中学から同じとかなの?」

 昨日も感じたがこう言われるとやはり記憶がないんだなと感じる。仕方ないといえば仕方ないが、少し寂しいというか胸のどこかが少し痛むような。

「ううん、こっちには親の転勤で高校に上がるときに引っ越してきて、颯と時塚は高校でできた最初の友達。ずっと二人と一緒にいるかも」

 少し目を見開いて、さながらびっくりという表情だ。

 こういう顔に出やすいのは変わっていないらしく、そう思った時心の中で何かが跳ねた。

「てっきりずっと一緒なのかと。あっだから、標準語に近いんだね」

「うん。若干イントネーションとかがうつってるんだけど。慣れてない時はたまに何言ってるのかわからないことがあった」

「そうだよね。私はおばあちゃんとおじいちゃんが方言めっちゃ使うからさ、そこは困らないんだけど」

「なんしよーととか本当にあると思わなかった」

「あはは、ちょっと美化されてる節はあるけど、こっちじゃ普通に使うけんね」

「今もやね」

「あ、確かに。私もちょっと混ざってるかも」

 いつの間にか、自然体に近くなっているのに気付いた。そう気付いてしまうと、また意識してしまいそうだから知らないふりをして、彼女の顔を見る。

 学校まで約十分の道のり、ショート動画など簡単に時間が消費される現代で一番充実した十分だったのではないだろうか。

 

「ねね、今度、四人でどこか遊びに行かん?」

 昼食中の思いもしない時塚の提案に危うく、箸の先のチキン南蛮を落とすところだった。まさか、昨日の今日でプライベートで遊ぶ提案をしてくるとは思わなかった・

「いいね、二人はどう?」

 颯がその提案に乗った。

「私も行きたい」

「うん、俺も」

 部活もないし断る理由がない。というか断りたくない。が、いささか早すぎる。

「じゃあ、どこ行く?」

 こういう時、時塚は何も決めていないことが多い。

「なんか案考えてないと?時塚」

「うん!ないよ」

 今回もそのパターンだ。

「じゃあ、遊園地とかどう?」

 斎藤さんからの提案だった。

「いいね」

「橋本君と深澤君は?」

「俺らもいいよ。な、浩人?」

「うん」

 すんなり決まった。斎藤さんとはもちろんだが、三人でも颯とでも遊園地は行ったことがなかった。というかまず、このあたりに遊園地があること自体知らなかった。

「どこにあると?」

「電車で五十分くらいだよね、颯」

「そうだね。久しぶりに行くね」

 二人は地元なのだからやはり行ったことがあるのだろう。そしてこの雰囲気はきっと二人でデートにでも行ったのだろう。なんとまあ青春をしているんだろうか。

「へー、初めて行くんだよね」

「深澤君も?私も初めて行く。入ったら正面に空中ブランコがあるんだよね。」

「そうそう。あれ結構楽しくて」

 あまりにも自然に話すから、会話の中に潜んでいた矛と盾に気づかなった。三人がワンテンポ遅れてそのことに気づいた。

「茜里ちゃん…なんで行ったことないのに知っとると?」

 彼女は眉を寄せて首をかしげた。

「確かに。なんでだろう。わかんないね」

「なにそれ。茜里ちゃん、ちょっと天然気味かもね」

 笑いながら、時塚がすかさずフォローした。

「それ、貶してるでしょ?」

 斎藤さんはちょっとだけむっとした表情を見せる。

「全然、可愛かったよ」

「ちょっと。からかわないでよ」

 二人がイチャイチャし始めた。まだ会って二日だというのに距離が縮まるのが早すぎる。流石といったところか、コミュニケーションが抜群にうまいのだ。

 俺と颯は一度顔を見合わせ、静かに微笑みながらご飯の続きを食べた。

「そういえば、いつ行くか決めてないね」

「確かに!」

 三人同時に言った。こういう計画は日程を決めなければ自然と忘れられ、おじゃんになるのがあるあるだ。それを颯が救ってくれたのだ。

「じゃあ、今週の土曜とかはどう?」

「いや、莉由。一週間後にはもうテストだぞ」

「何言ってんの、颯君。そんなわけないじゃない」

 目がキマっている。相当追い詰められているようだ。

「うん、莉由……。現実を見よう」

「あー嫌だあああ」

「時塚、前回も赤点取ってたよね?」

「やめて、言わんで」

「折角だし、勉強会でもしようか」

「颯天才。三人で私を囲んでくれ」

 こんな清々しい他力本願は初めて見た。

「じゃあ、今週の土曜みんな大丈夫?」

 全員うなずく。


 土曜日、今日は颯の家集合ということになっている。最寄駅から電車で二駅上り、そこから徒歩十分程度で到着だ。

 六月といえど、なかなかに暑いので自転車という手はなしだ。トータル二十分弱で颯の家に着いた。

 九時五十分。十時集合なのでちょうど良いだろう。インターホンを押すと中から「はーい」と聞こえ、すぐに玄関のドアが開いた。

 迎えてくれたのは颯のお母さんだった。

「あ、浩人くんね。どうぞ」

「ありがとうございます。お邪魔します」

 何度か来たことがあるので覚えられている。

「ごめんね。颯、まだ寝てて、部屋まで行って起こしてきてくれる?」

「わかりました」

「何度か起こしたんだけど、まだ大丈夫とか言ってもう一度寝るの」

「怠惰ですね」

「ほんとよ」

 軽く談笑した後で「起こしてきます」といって部屋に向かった。

 トントン。ノックをしてもやはり返事はない。

 ドアノブを捻ると同時に小声で「失礼しまーす」と言ってから入った。冷房の冷気がまだ少し残る部屋でスマホを手に持ったまま寝ている。三度寝か四度寝のときに時間を確認してそのまま寝たのだろう。

「おーい、颯起きろ」

「うーん、もうちょい」

 寝ぼけているらしい。

「もうちょいじゃなくて、もうみんな来るよ」

 ここで母親の声ではないことに気づいたようだ。急にばっと飛び起きあがった。

「びっくりしたわ。ゆっくり起きろよ」

 首を九十度左に回して俺の方を見る。

「なんでおると?」

「もう十時よ」

 手に持っていたスマホを確認してぽかんとしている。

「固まってないで顔洗いに行けよ。もうみんな来るよ」

「ほんとやん。やばっ」

 部屋を飛び出し、勢いよく階段を下りる。バタバタと足音が聞こえてくる。

 一分足らずで歯ブラシを咥えて戻ってきた。

「勉強はどこでやると?」

「んー、逆にどこがいい?」

「じゃあ、ここで」

「まあ、部屋散らかっとるし、リビングかな」

「何がしたいと?」

「口ゆすいで来るわ」

 洗面所に向かう颯を追いかけて一緒に降りた。

 ちょうど二人が着いたときだった。チャイムが鳴って、颯のお母さんが出迎えていた。

「ごめん、俺まだ着替えてないけん、もうちょっと待って。」

 今度はバタバタと階段を上る。

「お、早いね。今の音は颯?」

「うん、そうだよ」

「おはよう、橋本君は?」

「遅刻」

 二人同時に言った。

「何回も経験しとるけんね。私か深澤君、早く来た方が起こしに行っとった」

「大変だね」

 あははと声を出して笑いながら同情してくれた。

「毎回寝坊しとるわけじゃないよ。ちゃんと起きとる時もある」

 パジャマを着替えた颯が階段の途中から入ってきた。

「よし、全員集まったし始めよっか」

「お前待ちだ」「颯待ちだよ」「橋本君待ち」

 三人からの突っ込みをくらって颯は「ごめんごめん」と少しだけ申し訳なさそうにしていた。

 リビングの四人用のテーブルに着き、時塚が一番やばいという数学から始めた。

「ねえ、みんなはこの前の小テストどうだった?」

 時塚が少し不安そうに聞いた。

「私は98点やったよ」

「俺は90点やった。浩人は?」

「俺は95点だったと思う」

 時塚の顔が曇っている。

「もしかして、結構、私やばい?」

「莉由、何点だったの?」

「…………48点。」

「ああ、うん。あのテストでそれは結構……ねえ」

 彼氏でも答えに詰まるほどだ。

「知っとったよ、二人は。でも、まさか茜里ちゃんまで私を裏切るなんて」

「大丈夫だよ、私が教えるから。一緒に頑張ろう。ね?」

 母性が溢れ出ている。理不尽な言いがかりにこんなに優しく対応できるだろうか。

「うう、聖母だ。早速甘えてもいい?」

 もう、抱き着いている。

「はいはい、どこが分からないの?」

「こことここ。あ、あと、ここの2番と3番とこっちとこっちとこれも」

「え、ほぼ全部じゃん」

 今度は斎藤さんの顔が曇っていった。

「よ、よし。じゃあ、やるぞ」

「おー。」

「俺は数学いい感じやけん、別の教科しよっかな」

 颯は早々に数学を終わらせていた。

「何すると?」

「家庭科」

「勉強会で家庭科やるやつがどこにいるんだよ」

「お前、家庭科なめんなよ。結構、暗記の量あるけんね?」

「尚更、一人でやれよ」

「確かに」

 負けを認めたのはいいが、颯の家庭科を勉強する手は一向に止まろうとしない。どうやら、漢に二言はないらしい。全くもって漢だ。


 ふと辺りを見ると陽が沈み始めている。

「ここらへんでお開きかな?」

 家庭科の勉強も進んだようで満足気に颯は言った。

「うん。もういい時間やしね」

「きつい……」

 この前、「勉強は頑張らなくちゃ」と言っていた斎藤さんは時塚の面倒を見つつ、しっかりと自分の勉強もしていた。

「すごいよ斎藤さん。今まで俺と颯の二人がかりでもこんなに進まんかった」

「そうだよ、天才だよ茜里ちゃんは」

「莉由が威張るな」

「でも、莉由ちゃん、ちゃんと理解してて、教えやすかったよ」

 川上さんの方を見なくてもわかる。ドヤ顔である。

 各々荷物を持って橋本家を後にする。

「じゃあ、またね。お邪魔しました」

「またね」

「お邪魔しました」

「お邪魔しました」

 颯と颯のお母さんに挨拶をして帰路に就いた。

 駅までは三人一緒で、川上さんだけ上りの電車だ。

 ちょうど上りの電車が到着したときに駅に着いた。

「じゃあね、二人とも。深澤君、ちゃんと茜里ちゃんを送っていくんだよ」

「はいはい、じゃあ」

「またね、莉由ちゃん」

 下りの電車はあと五分後に到着する。

 田舎ということもあって、茜色に包まれる駅のホームには俺たちしかいない。

「この前斎藤さんさ、勉強はあんまりみたいなこと言っとったやん?なのに今日の教え方とかめっちゃ上手くてびっくりした」

「いや、もちろん勉強してたんだよ。……ここだけの話さ、転校する前ちょっとだけ病院にいたから、勉強も遅れてたし転校ってことで友達とかの不安もあったしで、せめて勉強くらいはって思って復習とかしてたんだよ」

 時塚の面倒で疲れているのもあるだろう。それでも一週間一緒にお昼を食べていた中でこんなふうに自分の話をしたり、弱音を吐いているのを見たことが無かったから、少しうれしくなってしまった。

「でも、杞憂だったていうか莉由ちゃんが話しかけてきてくれたし、橋本君も深澤君もね」

 普段、颯や時塚から褒められても一度は揶揄いを疑ってしまうが、素直に斎藤さんの力になれていることが嬉しかった。

 前からこうなんだ。たとえ記憶を失ったとしても斎藤さんの聲は、自然と体に馴染んでくる。

「だからね、うん。ありがと」

 あの笑顔だ。きっと記憶を失う前と後では、同じ斎藤茜里でも違う斎藤茜里なのだろう。

 俺が恋した斎藤茜里ではないのだ。わかっていても、笑い方が違っていても笑顔を見るだけで、心が弾み、頬が熱くなる。夕焼けでもごまかしきれないほどに。十二月なら、誰も気にしないのに。

「そんな、斎藤さんの人柄とか雰囲気とかだと思うよ。多分」

 へへ、と照れるように頬を緩めた。

「ちょっと恥ずかしい。自分で始めた話なのにね。それより、深澤君も小テストの点数、高かったよね」

「うん、そうだね。勉強は昔から得意で、勉強しかできないんだけど」

「そうなの?意外」

「…それどっちに言っとると?」

「勉強しかできないって方だよ」

「びっくりした。急にディスられたのかと思った」

「そんなことしないよ」

「そうだね。スポーツは人並みなんだけど、人付き合いというかコミュニケーションが苦手で」

「本当に?私との時はそんな感じしなかったけど」

「そう言われればそうだけど、高校入学したてなんかは、話す友達もいなくて一人だったんだよね。これこそ恥ずかしい話だけど」

 電車が着いた。二人で乗り込む。

「そんな時に話しかけてくれたのがあの二人だったな」

「じゃあ、私達二人に助けてもらった者同士だね」

「そうやね。まあ、今でこそ部活で喋る友達くらいはいるけど」

「まあ、でもさ完璧超人なんていないわけだし、私はこないだまで完璧の璧は壁と思ってたし、短所もそんなに意識することないよ……ってあれ、何の話してたっけ?」

「…なんだっけ」

 あはははと二人声を出して笑っていた。もちろん、周りの乗客の迷惑にならないように。

「それよりさ、完璧の璧が壁じゃないってほんと?」

 真剣な顔で聞いた。

 吹き出すようにびっくりしていた。

「ねえ、急に真顔で言うことそれ?」

「いや、どうしてもスルー出来んくて」

「本当だよ」

「ありえない、信じられないんだけど」

「そうだよね。でも、これが短所って考えたら、こんな短所見たくないでしょ。」

「確かに、そうだね。そんなに気にすることないかもね」

 この場にいるこの二人にしかわからない結論で話のオチが着いた。

 そしてちょうど斎藤さんが下りる駅に着いた。

「莉由ちゃんは送っていけって言ってたけど、ここで大丈夫だから。今日はありがとう。また月曜日」

「うん、こちらこそありがと。またね」

 扉が閉まる。あと一駅、英単語でも覚えようと単語帳を開いた。

「ん?」

 その、単語帳には見覚えのない書き込みがほとんどのページに書いてあった。単語帳を閉じて、裏の名前欄を見ると斎藤茜里と書いてあった。

 彼女の努力はさっき聞いたばかりだったが、まさか授業の範囲以上やっているとは思わなかった。

 言葉では隠しきれていた彼女の奥の不安が少しだけ伝わって来た気がした。

 しばらくして、自分が置かれている状況に気づいた。もう駅を出発しているし斎藤さんの連絡先も持っていない。急いで時塚に連絡を取る。

「あのさ、斎藤さんの単語帳間違えて持って帰っちゃってたから連絡してくれん?」

 五分ほどしてから返信が来た。

「いいけど、どうせなら自分でしなよ」と言って斎藤さんの連絡先を送ってきた。少しのうしろめたさを感じつつ連絡先を登録してチャットを始める。

「いきなり追加してごめん。橋本です。英単語帳を間違えて持って帰ってしまってて、今から届けに行った方がいいかな?」

 こちらはすぐに返信が来た。

「ううん、月曜日学校でいいよ。わざわざありがとう」

「わかった」

 斎藤さんとのチャットが終わると改めて時塚に連絡を取った。

「ありがとう。助かった」

 今度は十分ほど経ってから来た。

「それはよかった。(笑)」

 よくわからない(笑)がついていたが、気にしないことにした。

 そんなことより、今はテスト勉強をちょっとでも進めようと思えた。


 今回のテスト前の土日は、今までのそれと比べて倍と言っていいほど勉強したと思う。月曜日、無意識にしていた努力に気づいた。

 きっとあの単語帳を見たからだろう。いや、それだけでもない気がするが、結局は斎藤さんの影響であることは確かだ。

 試験は今週の水曜日から金曜日までの三日間、十一教科実施される。

 もうほとんどの教科が仕上げの段階にまできている。こんなに余裕があるなら焦る必要はないが、どうしても落ち着かない。

 テスト前ということもあって午前中の授業は、テスト範囲の復習が主だった。土日の勉強のおかげで授業はほとんど聞く必要がなかった。

 颯に「先に学食行っとって」と言い、昼休み少し早めに教室を出て二組のクラスに行った。もちろん単語帳を持って。

 斎藤さんの席は真ん中あたりの列で一番後ろだった。ちょうど莉由と喋っていた。

「斎藤さん」

 後ろのドアから呼びかけるとすぐ気づいて、来てくれた。

「ごめん、迷惑かけた」

 そういって単語帳を渡した。

「ありがとう。でもそんな謝ることないよ。私も深澤君の単語帳持って帰ってたし」

 そう言われて気づいたが、確かに家には単語帳は一冊しかなかった。

「え、そうだったの」

「あれ、気づいてなかったの。じゃあ、連絡入れるべきだったね。こっちこそごめん」

「ずっと、斎藤さんのことしか頭になかった」

 一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、次に少し恥ずかしそうに髪をくしゃくしゃしながら斎藤さんは言った。

「なんか……告白みたい」

 そう言われて、さっき自分が言った言葉を思い出す。「ずっと、斎藤さんのことしか頭になかった」こんなの告白以外の何物でもない。

 顔全体が真っ赤になるのが分かった。

「いや、違っ、そういうつもりで言ったんじゃなくて」

「うん、わかってるよ。そんなに慌てなくても」

 慌てて弁明しようとする俺を見て、斎藤さんはくすくすと笑いながら、からかうように言った。

 恥ずかしくて斎藤さんの顔も見れず、ばつが悪そうに必死に笑い顔を作った。

「こら、なに人前でイチャついてんねん」

 耐えきれなかったらしく、時塚からツッコミが入った。

「違うよ」

 ハモった二人を見て、時塚は何かを察したように、少しの沈黙の後「よし、じゃあ学食行こうか」と無理やり話を終わらせた。

「ちょっと時塚、何か誤解してない?」

「そうだよ、莉由ちゃん、ほんとに違うからね」

「大丈夫、誰にも言わないから」

 取り付く島もない。これはしばらくいじられるやつだ。


 特に大きなミスもなく試験の三日間が終わった。

 大抵、十分休みに答え合わせをして、間違いを見つけて落ち込むものだが、人生初と言っていいほど今回はそれが無かった。

 金曜日の放課後、時塚が皆を集めて結局決まらなかった遊園地に行く話をした。憂鬱なテストを終えてテンションも最高に達しているようだ。

「明日、みんな暇?」

「ああ、例のやつね。うん、特に何もないよ」

 颯は時塚のテンションの高さから何を言いたいのか察したようだ。

「俺も何もない」

「私も大丈夫だよ」

「じゃあ、遊園地!行こう」

 大きく目を見開いて前のめりになりながら時塚が言った。

 相当楽しみにしていたのかテストでストレスが溜まりまくったのか分からないが、学生は誰だってテスト後に遊ぶのことを生きがいにしているのだから仕方がない。

 そんなわけで今日の夜は早く寝ようと思った。颯と時塚と遊ぶことはあっても、斎藤さんと遊ぶとなるとどうしても緊張してしまう。

 さらに遊園地は小学生の時、家族と行ったっきり一度も行っていないこともあってなんかこう特別感みたいなものが押し寄せて来て、いつものように寝られない。

 イヤホンをして音楽をかけながら耳に意識を向けて目を瞑る。重なる音の中で中学校の校舎を思い浮かべていた。


 中学二年の夏、いや秋ごろだろうか。俺は一人の女子に片思いをしていた。

結果的に言って片思いであったから、まだこの頃は一寸と言わず一尺くらいの希望は持っていた。

相手は笑顔が可愛くて、誰に対しても優しくて、話しやすい。何かがきっかけで好きになったわけではないが、日々の積み重ねというかいつの間にか無意識に意識するようになっていた。

 クラスに喋る友達くらいはいたが、恋バナをするのはどうにも気恥ずかしくて、それに相手が相手だから競争率は言わずもがなで、話したところで多分「お前じゃ無理じゃね?」なんて言われるのがオチだったから誰にも言わず自分の恋心と向き合っていた。

 幸い、彼女とは接点がそれなりにあり、クラスや部活が一緒で、喋る機会もそれなりにあった。連絡先も持っていたから、やり取りも時々していた。

 ある日、定期的に喋る理由が欲しくてテストの点数勝負を持ちかけた。

「斎藤さん、今度のテスト勝負しようよ」

「いいよ。どうせなら罰ゲームでも付けようよ」

 笑顔で快諾してくれた。二人の成績にはそんなに差はないし、罰ゲームもいい刺激になると思った。

「いいね。内容はどうしようか」

「そうだね、こないだチャットで好きな人の話してたじゃん。負けた方は好きな人を暴露するってのはどう?」

 そういえば前、夜にチャットしていた時に少し恋バナチックな話をしていた。

「…いいよ。負ける気ないし」

 罰ゲームが重いような気もしたが、それくらいの覚悟は必要だと思う。というかもし買った場合は彼女の好きな人を聞き出せるのだ。

 希望は持っているが、根拠のない自信に他ならないわけで、自分じゃない他人の名前を言われる可能性はもちろんある。

 聞き出したいが聞きたくない、このモヤモヤが妙に心地よかった気がする。

 テストが終わり、すべての教科の返却が終わった。

 結果はというと負けである。五教科合計点で十八点差。勉強は今までよりも時間を取って進めていた。

 実際、自己ベストは更新しているのだ。それでも負けたのだから、素直に負けを認める以外ない。

「いやー、負けた。言い訳はしません」

「ふふ、漢だね」

 この日は俺たちの部活は顧問が出張で休みだった。ほかのクラスメイトは部活で、教室には俺たち二人しかいなかった。

「で、好きな人を教えてもらおうじゃないか」

 へへ、と少し笑って小さく息を吸った。ほんの少しの間の後、彼女の目を見て言った。

「………実は」

「待って、やっぱいいや」

 言おうとしていたところで遮られてしまった。手も唇も震えて、うまく言葉にできたかどうかはわからないが、遮られてしまった。

 彼女は少し俯いて、少し目を逸らしながら言った。

「んー、やっぱいいかな。ごめんね、私が変な話持ち出したから。今日はもう帰るね」

 口角は上がっていたが、目が合わない。

「……うん、また明日」

「また明日」

 教室を出るときも目が合わなかった。心なしか斎藤さんの耳が赤く、口元が緩んでいた気もするが気のせいだろう。拒絶されたのだろうか。

 何となくの教室の雰囲気を読み取り、これから告白されると思っての行動だろうか。

 きっとそうだろう。確かに教室はそんな空気に包まれていたし、目の前の相手が緊張しながら言葉を絞り出していたら誰でも察せる。

 言葉にはされなかったが、今の関係のままがいいということだろう。

失恋というやつだ。

 悲しかった、悔しかったでも不思議と涙は出てこなかった。どこかで諦めていたのかもしれない。

 自分はもっと上手に恋愛できていると思っていた。本気で恋愛していたつもりだったが、もっともっと本気には上があったのかもしれない。振られた後に考えることはあの時ああしていればよかったとか、もっとこうしていればよかったとかそんな後悔しか出てこない。

 この日、俺の恋は儚く散った。散った後に実るのは後悔と未練だけ。それでも枯れず心の奥深くまで根を張って呼吸し続けている。

 それからは、今まで通り。三年生になってからはクラスも別れ、部活も夏で終わり特に喋る機会もなく卒業した。


 気づいたら朝になっていた。結局、二、三時間くらいしか寝られなかった。どうして今このタイミングで中学生の頃の思い出を引っ張り出してきたのか分からない。

 たまに思い出すことはあるが、正直、一番思い出したくないタイミングで思い出した。今日は余計なことを考えずに、純粋に遊園地を満喫したい。

 遊園地は十時開園とのことで、行きにおよそ一時間、電車の時間も考慮して学校の最寄り駅に八時半集合になっている。

 朝風呂に入って身支度をしてから朝ごはんを食べる。うちは休日でも七時には全員起きている。

「浩人、何時に出るの?」

 朝ごはんの片づけをしながら母さんが聞いてきた。

「八時過ぎには出る」

「そっか、ご飯は?」

「昼も夜もいらない」

「わかった」

 父さんは仕事が忙しい時期で、俺が起きる前に家を出たらしい。

 鏡の前に立ち、身だしなみをチェックする。いつもと大して変わらないが、何度も見直してしまう。時間ぎりぎりまで確認して家を出る。

「いってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 キッチンから聞こえた声に「はーい」と返事をして自転車で駅に向かう。

 電車で待ち合わせの駅まで行ってそこから遊園地までまた電車。こういう時の移動時間はお出かけの醍醐味でもあると思う。


 友達との一時間はあっという間、何事もなく遊園地に着いた。開園十五分前。もう結構な人が並んでいる。入場券とフリーパスを買って列の最後尾に並ぶ。

 十五分後、パパパパーンという音とともにスタッフの声が響き渡った。

「お待たせいたしました。これより開園します」

 順番に中に案内されていく。

 いよいよ自分たちの番だ。入場券を見せ中に入る。外から見えていた観覧車やジェットコースターのほかにも様々なアトラクションがあった。

「どこから周る?」

 ウキウキで時塚が言った。

「そういえば、みんな絶叫系乗れる?俺は乗れるけど」

 今更だが、一番大事なことかもしれない。颯はいい所に気が付く。

「私はヨユー」

 時塚は、まあ、想像通りではある。

「俺も別に平気」

「私もいけるよ」

 誰も今までこの話をしなかったのだから、そうなのだろう。

「じゃあ、あれから行こうよ」

 時塚が指をさしていたのは、外からも見えていたジェットコースター。ただ、どうもあれは立って乗る、足が宙ぶらりん状態のものらしい。

「……結構飛ばすね」

 恐る恐る聞いた。

「もちろん、時間は限りあるんだよ。最初からトップスピードでしょ」

 なるほど、そういう感じか。睡眠時間三時間とは思えないほどやる気が出てきた。

「うわああああぁぁぁぁ」

 やはり飛ばしすぎだ。確かに平気と言ったがこれは……。足ぶらぶらの状態で普通に一回転してくる。

席は必然的に颯と時塚、俺と斎藤さんになるわけだが隣を気にする余裕もなく叫んでいた。

「あー、楽しかった。もう一回行く?」

 時塚はもうニコニコだ。颯も慣れているらしくケラケラしていた。意外にも斎藤さんもケロッとしていた。少なくとも今は初めてのはずだが。

「あれ、深澤君?」

「浩人、結構グダってるな」

「面目ない、でも平気な方がすごいと思うんだけど」

「じゃあ、一旦、ほかのジェットコースター行きますか」

 流石の時塚も手加減してくれたようで二連続は免れた。

 ただ、最初にレベル百にいったせいというかおかげで他のジェットコースターは丁度よく感じられた。

 今日は休日だがシーズンは外れているため、お客さんはめちゃくちゃ多いというわけでもない。

 とはいえ、ジェットコースターは遊園地の目玉アトラクションとあって待ち時間もそれなりにはある。園内を周る時間や待ち時間でアトラクションを五種類乗ったところでもうお昼の時間帯になっていた。

 園内のファストフード店でお昼を買ってベンチに腰を下ろした。

「午前中で結構周ったよね」

 時塚は口にケチャップを付けながら言った。

「莉由、こっち向いて」

 颯がポケットからハンカチを出してふき取る。

「えへへ、ありがと」

 なんて平和な世界だろう。久々にここまでのイチャつきを見た気がする。斎藤さんは少しツッコミしたそうに見えたが、俺が微笑ましく見ているのでやめたんだろう。

「茜里ちゃん、どっか行きたいところある?ジェットコースターじゃなくてもいいよ。」

「じゃあね、入口の空中ブランコ行きたい」

「いいね。食べ終わったら行こう」

 そう言って時塚は最後の一口を頬張った。

 空中ブランコは待っている人も少なく、すぐに乗れた。

 これが思いのほか楽しい。地上からそんなに高く上がるわけでもないが、遠心力で感じる風と上下の動きで感じるドキドキがとても気持ちいい。

 横をふと見ると「わああああああ」と笑顔で叫んでいた。ぱっと目が合ってあははははと満面の笑みを向けてくれた。

 降りて次のアトラクションに向かっている途中、斎藤さんの歩く速度がだんだん遅くなっていた。顔は俯き息も少し上がっている。

「斎藤さん、大丈夫?」

 駆け寄って顔を見ると顔色も少し悪い。

「ごめん、ちょっと酔ったみたい」

「少し休憩しよう。あそこのベンチまで歩ける?」

「うん、ありがと」

 近くのベンチに腰を掛けた。颯は飲み物を買いに行ってくれた。

「ごめんね、あたしがジェットコースターばっかり行きたがったから」

「ううん、大丈夫。少し休めば元に戻るから」

「飲み物買ってきたよ」

 颯が戻ってきて、俺と時塚が颯に視線を向けたときだった。

「痛っ」

 斎藤さんが頭を押さえてうずくまった。

「茜里ちゃん、どうしたの。大丈夫?」

「………」

 時塚の呼びかけに口を開くも言葉が出てこない。

「……頭…痛い」

 絞るように吐き出した言葉には全てが詰まっていた。

「俺、スタッフさん呼んでくる」

 颯がそう言って走りだそうとしたとき斎藤さんは顔を上げて苦しく笑いながら言った。

「大丈夫、大丈夫」

 そう言って意識がぱっとなくなった。直前の笑みは俺が見慣れたものだった。

 それからは、スタッフを呼んできて救急車で病院に搬送された。遊園地に残る気になるわけもなく三人で帰った。

「……最後の笑った顔さ、あんな茜里ちゃん見たことない」

「確かに俺も初めて見た。なんていうか、笑い方から違ったというか」

「多分あれだよね、空中ブランコ。前に空中ブランコ覚えてたことあったじゃん?テンション上がってて、そこまで考えれんかった」

「俺も、酔ったってのも今考えると少し不自然やったし。午前中、あれだけジェットコースターに乗って平気そうな顔してたんだ」

 やはり、二人は最後の斎藤さんの笑い顔が気になるらしい。

 今まで言えていなかったことを言わなくちゃいけない時だと思う。

「……ごめん、二人とも。言わなくちゃいけないことあるんだ」

「何?」

「これは誰のせいでもないよ。強いて言うなら気づけなかった私たち皆のせい。」

「実は、斎藤さんと中学校が一緒なんだ」

「……?」

 二人ともよくわかっていない。

「どういうこと?」

 二人の疑問を颯が代表して聞いた。

「いや、そのままだよ。二人とも俺が中学校こっちじゃないこと知ってるでしょ。斎藤さんも同じ中学校だったんだよ。」

「すごい偶然だね」

 二人ともかなり驚いていた。

「でも、浩人が謝ることもないでしょ。莉由から言われたようにそれは斎藤さんの記憶を刺激するかもしれないわけでさ、黙ってたってことが間違いとは思わない」

 颯は冷静に物事を見ることができる。確かに颯の言っていることを考えていなかったわけではない。

「もちろん、ただ同じ中学校だったってだけならそうかもしれないけど、……好きだったんだ。失恋したけど」

 しばらくの静寂の後、二人は顔を見合わせて声を出して笑いだした。

「何言い出すかと思ったら」

「そんなことって言いたいの?俺にとっては大事なことなんだけど」

 あまりに笑うから少しムスッとした声で言った。

「いやいや、そういうわけじゃないんだけどね?深澤君があまりに真剣な顔で言うから、もっと深刻な話かと思ったんだよ」

 それでも納得いかない。

「いや、結構真剣な話だよ」

「まあまあ。で、なんだ?まだ斎藤さんのこと好きなのか?」

 ただでさえ答えずらい質問なのに、ニヤニヤして聞いてくるから余計に答えずらい。

「……うん。そうだよ」

「いいじゃん。私は応援する」

 なぜか食い気味に時塚が言った。

「いや、そういうことじゃなくて……」

「どうせ、ずるいだとか、卑怯だとか思ってるんでしょ?」

 流石の勘の良さだ。なんでも見透かされている気分になった。

「……うん、でもそれだけじゃなくて、何というか斎藤さんを裏切ってるような感じがする。俺は誰よりも誠実に斎藤さんと接しなければいけないと思うから」

「まあ、でもさ誠実なんてすごく曖昧な基準じゃない?結局のところ茜里ちゃんがどう感じるかでしょ。その気持ちを隠すも隠さないも深澤君の自由だけど、人からの好意が気持ち悪いなんてことはないよ」

「それにもし仮に斎藤さんの記憶が戻ったら、浩人ってわかるわけだし。他人を思いやっても、それで自分が苦しむんだったら意味ないよ。自己犠牲もただのきれいごとで、どうせきれいごとを言うなら何も犠牲にせず最高の結果を望む主人公を願うべきだろ」

「まだ好きならその気持ちに素直に向き合って何回もチャレンジしなよ。引き時は私たち二人で教えてあげるから」

「…あの笑顔、俺は知ってたんだ。一瞬だけ昔の斎藤さんが見えた。好きになったのはあんな風に笑う斎藤さんなんだけど、でも記憶を失っても、俺のことを覚えてなくても、笑い方が違っていても全部斎藤さんで、斎藤さんは斎藤さんで記憶が戻ったとしても戻らなかったとしても俺は斎藤さんと一緒にいたい」

 二人は微笑みながらまた顔を見合わせた。

「よし、あとは茜里ちゃんだけど、深澤君に任せようかな」

 時塚はにこやかに言った。

「え、ちょっとそれは…」

「大丈夫、ちなみにさ、もうすぐ花火大会あるんだよ」

「うん、知ってるけど」

 毎年開催されている花火大会、去年は家族と見に行った。

「まさか…」

「うん、そのまさかだよ。茜里ちゃんと二人で行っておいでよ」


 次の日、時塚から呼び出された。斎藤さんのお父さんから連絡があったらしく、会って話したいからと斎藤さんが運ばれた病院へ向かった。

「まず、茜里がご迷惑をかけたことを謝罪します」

 三人揃ってすぐに頭を下げられた。スーツ姿に眼鏡をかけて子供相手に丁寧な言葉遣いと深々したお辞儀、真面目という感想が真っ先にでてきた。

「やめてください、俺たちも気付けたはずなんです。茜里さんを危険にさらしてしまって、すみません」

「すみません」

「すみません」

 全員で頭を下げた。

「君たちに謝らせるつもりはなかった。どこまで行っても平行線だろうから、一旦謝るのをやめよう」

 そう言われて頭を上げる。優しい笑みがそこにあった。

「本題に入ろう。お医者さんの話だと茜里が倒れたのは記憶が戻る前触れのようなものらしい。お医者さんが驚いてたんだよ、理由が理由だからもっと時間がかかると思ってたって。こっちで茜里と仲良くしてくれてるのは君たちだよね。茜里の話にもよく出てくるんだ。多分、君たちの存在が茜里を支えていて、茜里自身が前に進みたいってそう思ったと僕は思うんだ。茜里が記憶を失ったとき、一生戻らないんじゃないかって、それも仕方ないことなんじゃないかって考えてた。これは僕のわがままだけど、逃げても目を逸らしてもいいから茜里には最終的には前を向いて歩きだしてほしい。だからこれからも茜里をよろしくお願いします」

 斎藤さんのお父さんの言葉には娘を思いやる父親の暖かさが詰まっていて、所謂親バカとも違うその暖かさは周りも温めてくれる包容力があった。

「任せてください!」

 一番に時塚が自信気に言ったのに続いて俺たちも「はい」と返事をした。

 帰り道、時塚が言った。

「前に深澤君が言ってたこと、記憶が戻るのと戻らないのどっちが茜里ちゃんにとっていいのかなって覚えてる?」

「うん、覚えてる。」

「答え出たね。茜里ちゃんは戻りたがってるし、お父さんもそれを願ってる。じゃあ、私たちは最大限そのサポートをするべき」

「そうだね、莉由の言う通り。で、キーはお前だよ」

「……そうかもね」

 歯切れ悪く答えた。お父さんの話からそうかもしれないとは感じていたが、自意識過剰になっているようで疑いが晴れない。

「だから、俺たちが直接するのはお前のサポートだな」

 他人任せに聞こえるが俺の気持ちを尊重してくれているこいつらなりの優しさだ。

「頼もしいね」

 口角を上げて調子に乗らせる。


 三日間の入院を終え火曜日にはいつも通り学校に来ていた。

「ほんとごめん。せっかくの遊園地台無しにしちゃって」

 昼休み、俺たちの顔を見るなり開口一番、謝罪の言葉を口にした。

「ううん、大丈夫。そんなことより身体は大丈夫?」

「倒れた後の記憶はないんだけど、検査の結果も異状なしって言われた。とりあえず一週間ほどは激しい運動はダメでそれ以外の制限も特にしなくていいって。」

「そっか、なら良かったよ。」

 斎藤さんは終始申し訳なさそうだった。時塚が話題を変えるふりをして本題の例の件を持ち出した。

「ねえ、もうちょっと先だけど花火大会があるじゃん。私は今年も颯と行くつもりだけど二人はどうすると?」

「花火?」

「そう、毎年この時期にあっとる」

「斎藤さんと浩人で行けば?」

 まさか颯がこんなストレートなパスを出してくるとは思わなかった、が冗談っぽく言うことで自然なパスになっていた。

「二人でかあ……どうする深澤君?」

 斎藤さんも冗談っぽく流そうと笑いながら逸らした。

 ここで逃げたら何も成長していない。何より自分のために逃げちゃだめだ。

「…俺は斎藤さんが良ければ一緒に行きたいな」

 微笑みかけるように言った。決して冗談にせず、真っ直ぐに。斎藤さんの頬が赤らんでいくのと同時に自分の体温が上がるのも感じた。

「……じゃあ、行きますか。」

 少し照れながら応えてくれた。


 あの約束から今日まで本当に早かった。ろくにプランを考えていない。

花火会場はいつも通学に使っている駅で降りる。待ち合わせは五時である。ただいまの時間は四時半、こういう時は、いつもより念入りに準備をするが、なぜか時間が余ってしまう。

 気持ちは十分前に着くくらいのつもりだが、家を出る予定時刻の一時間前には準備が終わっていた。

家にいてもどうもそわそわして落ち着かないので仕方なく三十分前に来てしまった。学校へ行く時はギリギリを攻めるというのに。

 そういえばラブコメ漫画で見たことがある。ぱっとしない主人公がデートの際、張り切って三十分とか一時間とか前についてしまったシーンだ。

「わっ、早いね深澤君」

 後ろから三十分後に聞こえるはずの声が聞こえた。

「……斎藤さんこそ」

 言葉に詰まった。学生のデートでの楽しみと言えば、制服に隠されたお互いの私服を知ることでもあるが、私服よりも至福。淡い水色に牡丹柄が入った浴衣に、後ろ髪を綺麗に頭の後ろにまとめて左側を編み込んでいる。薄くチークやリップも見える。

 大抵のラブコメ漫画ではそのシーンに続きがある。ヒロインも早く着きすぎているのだ。そこで楽しみにしていたのは自分だけじゃないと自覚する。

「まあ、そうだね。早いに越したことはないし」

 きっと彼女も早く着きすぎたのだろう。照れ隠しのように笑って言った。

「そうだね」

 浴衣で来てほしいと思っていなかったわけではないが、いざ好きな人の浴衣姿を目の前にすると見蕩れてしまう。

「あ、そうだ」

 何かを思い出したように口を開いた。

「待った?」

「ううん、今来たとこりょ」

 花火大会に浴衣でデート定番の台詞、免疫がないから噛んでしまった。

「あはは、ちょっと、デートと言えばのシーンで嚙まないでよ」

 不幸中の幸い、笑ってくれて結果的に場が和んだのでよしとするが、恥ずかしさで居た堪れない。

 さらに向こうもデートと認識してくれているらしい。そのつもりで来たがいざ言葉にされると、これもむず痒さがある。

「あーなんか笑いすぎて緊張がとれたかも」

 笑いすぎて涙を拭った後、一息ついて言った。あまり感じなかったが緊張してくれていたそうだ。

「俺も恥ずかしすぎて緊張解けた」

 気付けばいつも通りに会話できるようになっていた。

「…浴衣似合ってる。めっちゃ可愛い」

 一番最初に一番恥ずかしい思いをした今なら、大胆なことも心の中の勇気だけで言える気がする。

 ストレートな言葉に面食らったように顔を背けたが耳が染まっている。

「……ありがと」

「行こっか」

「…うん」

 学校は駅から東に向かうが花火会場は逆の西に進み、しばらくした所に大きな川があり川に面した神社に開かれている。

 斎藤さんは切り替えるように「あっつ」と言って金魚柄の扇子で扇いでいる。夏も本番と言った頃なので暑い。

「ねえ、何食べる?」

 落ち着いたようでいつもの調子に戻っていた。

「そうだな、焼きそばとか冷やしパインとかかな」

「ふふ、どういう食べ合わせ?」

「いや、一緒に食べるわけじゃないけど。じゃあ、何食べるの?」

「やっぱり、焼きとうもろこしかな」

「あ、結構良いセンスしてるね」

「でしょ。口の周りが汚れるのが難点だけどね」

 誇らしそうに「でもね」と続けた。

「伊達に十七年間焼きとうもろこしを食べ続けてないんだよ。私が編み出した食べ方を特別に見せてあげる」

 この話では斎藤さんは歯も生えていない頃から焼きとうもろこしを食べていた、いやその年なら食べさせられていたということになる。焼きとうもろこし虐待とツッコミたいところだが、言葉の綾というものだろう。


 歩いて二十分ほどで会場に着いた。参道や河川敷に多くの屋台が並び、河川敷には場所取りでレジャーシートが敷かれている。

 対岸の河川敷から打ち上げられるようで打ち上げ台が準備され、職人らしき人達が集まっている。

「俺たちも場所取りしようか」

「そうだね」

 バックから銀色のレジャーシートを取り出し、川岸から少し離れた土手の緩やかな斜面に構えた。

 ただいまの時刻は五時少し手前、打ち上げは七時開始ということは今から二時間ほど二人っきりで過ごすことになる。

 あまり集合時間を遅くすると場所取りが難しくなるため、仕方ないが正直、この二時間を盛り上げられる自信はない。だがこの二時間に今日この一日がかかっているといっても過言ではない。

 場所取りを終えたら次は屋台を巡る。

「じゃあ、さっそく屋台行こう」

「そうだね、焼きとうもろこし」

「一旦、買って戻ってこようか」

「うん」

 とりあえず焼きそばと冷やしパイン、それに焼きとうもろこしを買った。

「あと、何か買う?」

「焼きとうもろこしだけじゃ物足りないから……じゃあ、たこ焼きといちご飴買う」

「俺はフレンチフライス買おうかな」

「普通にフライドポテトって言いなよ」

ナイスツッコミだ。

「飲み物も欲しいね」

「んー、ラムネとかどう?」

「いいね、風情を感じる」

「でしょ」

 二人で七つの屋台を回ってレジャーシートに戻った。ここまで三十分強、四分の一程度しか経っていないが、順調に花火までいけそうな気がした。

 とりあえず体育座りをして冷やしパインを取り出した。斎藤さんの方を見ると彼女も体育座りをして、いちご飴を持っていた。

「いたっ」

 いちご飴を一口噛んでどこかが痛んだようだ。

「大丈夫?」

 一瞬、頭を押さえたような気がして急いで駆け寄った。

「……大丈夫だよ。ちょっといちご飴が硬くて口の中切っちゃった。」

 へへと笑って飴をカンカンと指で叩いて「ほらね」と言った。

「大丈夫ならよかった」

「うん。あ、でもラムネは沁みそう」

「そうだね」

 安心して冷やしパインを一口齧った。買ってから時間が少し経っていたとはいえまだキンキンだった。油断していたせいで前歯の知覚過敏に沁みた。

 悶えていると横から「花火が始まる前からボロボロだね私達」と笑いかけられた。恥ずかしさのあまり顔を伏せたが、どこか可笑しくなって二人で笑った。

「ねえ、いちご飴と冷やしパイン交換しない?」

 思いがけない申し出に驚きを必死で隠した。いちご飴は二ついちごが串に刺さっていた。今は一つになっている。冷やしパインも半分ほど食べたところだ。

「う、うん、いいけど……口つけちゃったよ?」

「いいよ。暑いから冷たいの食べたくなった」

 そういうことならと断る理由なんて全くないのだから交換成立した。あまり間接キスを意識しすぎるのも気持ちが悪いだろうから、なにも気にしてない体でいちご飴を食べた。

「うわ、本当に硬いね」

「でしょ。気を付けてね」

「うん、冷やしパインはどう?」

「おいしいよ。ただ凍らせただけだけど侮れないね」

「夏は特にね。パインだからさっぱりするし」

 お互いにお互いのミスを見た後だから交換後は無傷で食べ進めることができた。

 食べ終わるころの空は太陽が顔を隠し夜もすぐそこというようで、会場も人で溢れていた。たこ焼きと焼きとうもろこし、焼きそばとフライドポテトは花火のお供にとっておく。

「深澤君は進路とか決まってる?」

「うーん、進路か……大学に行こうとは思ってるくらいかな」

「将来やりたいこととかは?」

「それもまだかな。部活とか勉強とかで忙しいから趣味とかもあんまりなくて」

「そっか、そうだよね。まだ二年生だし」

「斎藤さんは何かあるの?」

「……何にもない。」

 ボソッと呟くように言った。どう言葉をかけていいかわからくてしばらくの沈黙が続いた後、また彼女が続けた。

「あのね、私ね……記憶が無いの。この学校に来る前の記憶が全部」

 驚いた。話してくれるとは思っていなかった。きっと心配させないためだろうか。

「記憶が無いのはね、めちゃくちゃ怖いんだよ。自分を形作るものが何も無いっていうか、私を私たらしめるものが何も無いってことで、私が何者なのか全くわからない。過去が分からなければ未来なんて当然わかるわけないから、夜はね、明日が本当に来るかどうかそれすらも不安になるときがある」

「……そっか」

 これは俺にはわからない、わかってあげられないそういう次元の苦しみだ。

「あれ、そんなに驚かないね。お父さんから聞いてた?」

 暗くなった空気を戻すように明るく笑って言った。

「……うん、聞いてた」

「……お父さん、心配性だから」

「ごめん、なんか暗くしちゃった。なんでこんなとこで言ってんだろうね」

「……たぶん、眩しいほど青春的だからじゃないかな」

 光が強く当たるほど影も濃く映る。皆言われなくてもわかっていることだけれど、その影を意識せずにはいられない。

「……さっき言ったけどさ、俺は今が精一杯で未来のことを考えれるほど要領よくないし、ふと考えてもぼんやりしか見えてこない。多分、高校生なんてそんなもんで、話してくれた苦しみは想像もつかないけど、今を全力で生きるのも悪くないと思うんだよね。一日後のことはわからなくても、三秒先のことは何となくわかりそうな気がする。三秒先を良くするために頑張って、その積み重ねで過去ができて、未来もまたその積み重ねでできる。つまりね、何が言いたいかというと、俺も未来は不安だし、大きさは違えど皆一緒に同じものを抱えてるよ」

「……うん」

「ここに来てからは楽しい?」

「そりゃもちろん楽しいよ」

「ふふ、じゃあこれからも楽しめばそれだけでいいんだよ」

「そうだね、そうだよね」

 気づけばもう薄暗くなり、時刻ももうすぐ七時になろうとしていた。

「もうすぐ始まるよ」

 喧騒は増すばかりだが、不思議と俺たちの周りの空気は穏やかで、ただ花火への期待だけが満ちていた。

「ただいまより第三百六十四回、来女水道花火大会を開催します。ぜひ最後までお楽しみください」

ひゅー………ドン、アナウンスが終わると同時に一発目の花火が打ち上がった。すっかり陽の落ちた空に咲いては消える儚く美しい火の花。

 一発目が消えると二発目、三発目と数える間もないほど大小色とりどりの花火が夜空を彩った。

 観衆の歓声、目の前に広がる色彩、体の内側まで響く「ドン」という音、火薬のにおい、風に流れる煙どれもテレビで翌日の朝に流れるニュースからは感じることのできない、生で見る感動があった。

「すごい、綺麗」

 感動のあまり語彙が無くなっているが仕方ないだろう。

「ふふ、口、空いてるよ」

 彼女は笑って言った。

「確かにすごいよね。一夜で一万を超える花が一斉に咲く、なかなか見れる景色じゃない」

 三十分ほど経った頃、十分休憩のアナウンスが入った。花火も一旦打ち止み、屋台がまた賑わいを見せた。

 だが、なぜだろう。花火は止んでいるのにド、ドと胸の内側でどの花火よりも速く鳴り響くこの音は何だろう。さっきから頭が真っ白になり、考えがまとまらない。花火が打ち上がっている途中は会話がほとんどなかった。

「……君、深澤君」

「あ、ごめん。何?」

「大丈夫?ぽわぽわしてるけど」

「うん、大丈夫だよ。余韻に浸ってた」

「まだ終わってないよ」

 やっと気づいた。緊張だ。この音は心臓の鼓動なんだ。

 周りにはたくさんのカップルがいた。手をつないで並んで歩いている。きっとどちらかが一歩を踏み出したからそうなったのだろう。踏み出す勇気はどこから湧いてくるのだろうか。この状況でまだ怯えている。二人に背中を押してもらって、花火大会というシチュエーションまで揃えて何を怖がることがあるのだ。

「まもなく打ち上げを再開します。まずは三百発の早打ちです」

 十分はあっという間に終わった。もう一度花火の音が体中に染み渡る。言わなきゃいけない。そのためにここに来たんだ。

 颯と時塚から送り出してもらって、覚悟も決めてきたつもりだったのにそれでもまだ足りない。最後はきっと想いなんだろう。余計なことは何も考えず、自分に言い訳をせず、ただ相手に何を想い何を願うのかそれを言葉という形にする。

「さ、斎藤さん」

「ん、なに?」

「あのさ、言いたいことがあって」

 さっきあれほど感動していた花火が今はどうでもよくなるくらい、胸の内の想いが愛おしく思えた。

「痛っ」

 目の前で左手をシートについて右手で頭を抱た。慌てて「大丈夫?」と声をかけた。あの時と一緒、記憶が戻る兆候だ。

「大丈夫だよ。続けて」

 そんなはずはない。

「大丈夫じゃないでしょ。待って、救急車呼ぶから」

「やめて」

 大きな声だった。今までで一番の大きさかもしれない。

「大丈夫だから。この前よりも全然マシだし、意識も保てる。だから聞かせて。その言いたいこと」

 さっきとは対称的に囁くような小さい声で訴えかけてくる。ここまで頑固な姿は初めて見た。

「……わかった。じゃあ言うね。……斎藤さん、好きです。俺と付き合ってくれませんか?」

「嬉しい。雰囲気的に多分そうなんじゃないかと思ったんだよね」

 態勢を変えずにニコッと笑って言った。

「……うん、私も好き。一緒に居てとても安心する。その今だけを見たくなる。でも何よりも身体が、心がこの人だ、この人がいいって叫んでるような気がして」

「……それってどういう」

 ガタッ、左手で支えきれなくなってシートの上に倒れた。

「もうだめだよ。救急車呼ぶからね」

「ごめん、ありがと。やっぱりちょっと無理だったみたい。花火一緒に見れてよかった。浩人君……」


 あの後彼女は救急車で運ばれ、検査の結果からも記憶の回復が確認された。念のため一週間入院した後に復帰した。

 入院中は面会もでき、もちろん行くつもりであったが、彼女から直接連絡をもらった。

「二人で話したいから、莉由ちゃん達より一時間早く来て」

 病院に着き病室に入ると一人で窓の外で堂々と空高く見上げ咲いている向日葵を見ていた。

「もう大丈夫?」

 こちらに気付き、懐かしい笑顔をくれた。

「うん、明日には退院できるって」

「そっか、よかったよ。……それで話って?」

「そう、もう気付いてるかもしれないけど全部思い出したんだ。それでね、昨日好きって言ってくれたじゃん。その答えついてだけど」

ま、まさかと思った。息をのむ。

「……記憶戻っても浩人君を好きなのは変わらないからね。っていうか元から好きだったんだ。」

 ほっと胸を撫でおろした。

「よかった。……でも元から好きっていうのは?」

「覚えてる?中学二年生の時のこと」

 もちろん覚えている。夢にだって出で来るのだから。

「うん、覚えてるよ」

「あの時も告白するつもりだったでしょ?」

 やっぱり何かを察していたらしい。

「……うん、そうだけど」

 少し恥ずかしい。

「私ね、自分から告白したかった。浩人君は気遣いもできて面白いしどんどん惹かれていったし、それとよく喋りかけてくれてたからもしかしたらって思ってた。だからこそ、告白だけは自分からしたかった。でも、それで疎遠になるんじゃ元も子もないけど」

 思ってもいなかった答えに少し戸惑っていると彼女は続けて言った。

「あの時無茶したのはね、わかってたんだもうすぐ元に戻るって。だからもしもあっちの私の気持ちが消えてしまうことがあるならその前にちゃんと伝えたいって思ったんだ」

「そうだったんだね。」

「これは二人が来てからでもいいんだけど、お母さんのことも今度は逃げずに少し逸らすことはあっても、それでも向き合っていこうと思う。全部君のおかげだね」

「それは言い過ぎだよ。全部斎藤さんの力だよ」

「あ、それ禁止ね。これからは茜里って呼ぶこと」

「え、急に言われても染みついちゃってるから」

「はは、ごめんね。入院中だからちょっと我儘言いたくなっちゃった」

「……い、いや俺も頑張る…」

「ほんと?じゃあ、早速言ってみてよ」

「あ、茜里……」

「………」

「なんか言ってよ」

「い、いや思ったより照れるね」

「好きだよ」

「きゅ、急にやめてよ。もっと照れる」

「で茜里は?」

「……好いとうよ浩人」


 花は散った後に果実を実らせる。火の花が散った下で枯れずに細々と息をしていたこの想いが実ってくれた。昨日実ったこの恋はいつまでも枯れることを知らずに二人を繋いでくれる。


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