4.奴隷でありながら作法を学ぶ
「この先も、私の為に働き学びなさい」
マチルダは、夫人の言葉に深い感謝の念を抱いた。
奴隷の身でありながら、このような機会を与えられるとは、夢にも思っていなかった。
教師としてやってきたのは、宮廷にも出入りする年配の女官だった。彼女は、優雅な歩き方から、正式な場での挨拶、会話の作法、食事の仕方、そして宮廷に仕える者としての心構えまで、丁寧にマチルダに教え込んだ。
最初は戸惑うことも多かったが、マチルダは持ち前の吸収力で、教えられたことを素早く自分のものにしていった。かつて故郷で多少なりとも礼儀作法は学んでいたが、この国のそれはより複雑で洗練されていた。
それでも、マチルダは懸命に学び、教師もその熱意に感心していた。
ハープの演奏においても、宮廷で好まれるような華やかで技巧的な楽曲を教わるようになった。
マチルダの元々の才能に加え、熱心な練習によって、その腕前は目覚ましい進歩を遂げた。
以前は弾けなかった宮廷で好まれる難しい曲も弾けるようになり、音色もより豊になった。
宮宰夫人が、なぜそこまでマチルダに手をかけるのか、邸の他の者たちは訝しんでいた。
しかし、夫人は多くを語らなかった。ただ、時折、マチルダの稽古の様子を静かに見守り、満足そうに頷くのだった。
マチルダ自身も、夫人の真意を完全に理解することはできなかった。
もしかしたら、本当にいつか何かの役に立つかもしれない。あるいは、ただ単に、彼女の才能を惜しいと思っただけなのかもしれない。
それでも、与えられたこの機会を無駄にするつもりはなかった。
いつか故郷へ帰る日が来るかもしれない。その時のために、少しでも多くの知識と教養を身につけておきたい。そう強く願いながら、マチルダは今日も、貴族としての振る舞いを学び、ハープの弦を爪弾くのだった。
故郷を離れてから、幾年月が流れた。
14歳で海賊に攫われ、異国の地に連れてこられてから、数えきれないほどの夜を独りで過ごした。
最初は言葉も分からず、ただただ絶望に打ちひしがれる毎日だった。
しかし、生き延びるためには学ぶしかなかった。懸命に言葉を覚え、文字を読み書きできるようになるまでには、長い時間が必要だった。
宮宰夫人の庇護のもと、貴族としての作法や宮廷での振る舞いを教わるようになったのは、マチルダが20歳を過ぎた頃だった。
教師の厳しい指導に応え、昼夜を問わず稽古に励んだ。優雅な立ち居振る舞い、洗練された言葉遣い、場に応じた適切な対応。それらは、かつて故郷で触れたことのあるものだったが、この国の文化に合わせた新たな知識として、一つ一つ丁寧に 自分のにしていった。
ハープの腕前も、師の指導と日々の鍛錬によって、著しい向上を見せた。指先から紡ぎ出される音色は、以前にも増して豊かで深みを増し、聴く者の心を揺さぶるようになった。特に、この国の宮廷で好まれる華やかな楽曲は、マチルダの演奏によって一層輝きを増した。
21歳を迎える頃には、マチルダは宮廷に出ても恥ずかしくないほどの教養と品格を身につけていた。その立ち姿は凛として気高い美しさがある。物腰は落ち着いていて優雅で、誰に対しても物怖じすることなく、適切な言葉遣いで応対することができた。
宮宰夫人は、成長したマチルダを満足そうに眺めることが多くなった。その瞳には、かつての冷たさだけでなく、どこか期待のような光が宿っているようにも見える。マチルダ自身も、自分がこの異国で生き残るために、そしていつか故郷へ帰るという細い光を繋ぐために、できる限りのことをしてきた自負があった。
しかし、依然として彼女は奴隷の身であり、自由はない。どれほど教養を身につけ、貴族のような振る舞いができても、その身分が変わるわけではなかった。それでも、マチルダは望みを失わなかった。いつか、この身につけた知識と教養が、自分の運命を切り開く力になるかもしれないと信じていた。
「お姉さま……。会いたいわ。皆元気にしているかしら」
宮宰邸の庭で、夕焼け空を見上げながら、マチルダは故郷のエトトス島を想った。姉は今、どうしているだろうか。両親は無事だろうか。遠い故郷への想いは募るばかりだが、今はただ、この異国の地で生き抜き、いつか必ず自由を掴むことを心に誓うのだった。21歳になったマチルダの瞳には、家族や故郷の皆を思い続けることで、決して消えることのない希望の光が宿っていた。