3.奴隷としての生活
異国での言葉も通じない奴隷生活は決して楽ではなかったが、マチルダは持ち前の勤勉さと聡明さで、少しずつではあるが、自身の境遇を切り開いていった。
言葉の壁に苦労しながらも、日々の雑務をこなしつつ、熱心にこの国の言葉と文字を学んだ。
元々、故郷で読み書きを丁寧に教えられていたこともあり、彼女の書く文字は美しく、整っていた。
ある日、主人の妻である宮宰夫人が、届いた手紙の礼状を書くのを面倒くさがり、試しにマチルダに代筆を命じた。
礼状である為、同じ文言を何度も書く作業に夫人も飽きてきていた。
「この見本と全く同じ内容を書きなさい」
と数種類の内容の見本を手渡しマルチダへ命じた。
マルチダはその言葉に息をのむ。
まだ言葉を完全に理解しているわけではなかったが、マチルダは夫人の説明を注意深く聞き、見本の手紙を元に、一字一句丁寧に書き上げた。
出来上がった返書を見た宮宰夫人は、驚いたように目を丸くした。単に文字が綺麗というだけでなく、内容も的確で、夫人の意図をしっかりと汲み取っていたからだ。
「お前、理解力があるわね。」
と、珍しく満足そうな笑みを浮かべた。
それ以来、宮宰夫人からの信頼は少しずつ厚くなっていった。最初は簡単な手紙の返事や案内状の清書き程度だったが、徐々に重要な手紙の返信や、他の貴族や商人とのやり取りの代筆を任されるようになった。
マチルダの丁寧で正確な仕事ぶりは評判を呼び、宮宰邸に出入りする人々も、彼女の存在を認識するようになっていった。
特に、宮宰夫人の親族や友人からの手紙の代筆を任されることが増えると、マチルダはそれぞれの人物の性格や関係性を理解し、それに合わせた文面で返事を書くようになった。
時には、夫人の言葉足らずな部分を補ったり、相手の気持ちを慮った一言を添えたりすることもあった。その細やかな気遣いが、相手に好印象を与え、宮宰夫人への評価を高めることにも繋がった。
マチルダは、ただ言われた通りに文字を書くだけでなく、内容を深く理解しようと努めた。
手紙の背景にある事情や、差出人と受取人の関係性などを推察し、より適切な表現を選び取るように心がけた。その努力が実を結び、彼女が代筆した手紙は、しばしば相手の心を動かし、良い結果をもたらすことがあった。
宮宰夫人も、マチルダの能力を認め、以前のような厳しい態度を見せることは稀になった。
もちろん、奴隷としての立場は変わらないが、他の召使いたちとは異なる、特別な役割を与えられるようになったのだ。時には、夫人の相談に乗ることもあり、マチルダの意見が採用されることもあった。
読み書きと代筆の仕事を通じて、マチルダは宮廷内の人間関係や、この国の社会の仕組みを少しずつ理解していった。様々な立場の人々の手紙に触れることで、彼女の知識は広がり、洞察力も磨かれていった。
故郷への想いは募るばかりだったが、今はただ、与えられた役割を精一杯果たすことだけが、この異国で生き延びるための道だとマチルダは信じていた。
信頼を勝ち得たことは、彼女にとってささやかな希望の光だった。
いつかこの信頼が、自由への道を開いてくれるかもしれない。
「いつか、必ず道は開けるはずよ。大丈夫。絶対大丈夫」
そう信じながら、マチルダは今日も、主人のために筆を執るのだった。
マチルダの才能は、宮宰夫人の予想を遥かに超えていた。
手紙の代筆は正確で美しく、その上、ハープを奏でる指先から奏でられる旋律は、聴く者の心を深く捉えた。特に、故郷の哀愁を帯びた調べを奏でる時、マチルダの表情には隠しきれない気品が漂っていた。
日々の仕事ぶりや、ふとした瞬間に見せる立ち居振る舞い、そして何よりもその知性と教養の高さから、宮宰夫人は次第に確信を持つようになった。このマチルダという奴隷の少女は、ただの村娘ではない。おそらく、どこかの国の、それも相当な身分の高い家の娘だったのではないかと。海賊に襲われたという話も、彼女の育ちの良さを裏付けるように思えた。
「マチルダ」
ある日、宮宰夫人はいつになく落ち着いた声でマチルダを呼んだ。
「あなたは、ただの奴隷ではないのでしょう?どこかの村娘や商家の娘とは思えないわ。そうでしょ?」
マチルダは驚き、言葉を失った。これまで、自分の過去について多くを語ることは避けてきた。しかし、主人の鋭い眼差しは、全てを見透かしているようだった。
怖くて目を反らしてしまったが、観念したマチルダは、静かに頷いた。
「はい、奥様。私はエトトス島の貴族の娘です。」
宮宰夫人は、予想通りの答えに特に驚く様子もなく、ただ深く頷いた。
「やはりそうなのね。あなたの持つ雰囲気や食事の時の仕草は、他の者たちとは全く違っていたわ」
それからというもの、宮宰夫人のマチルダに対する態度は、微妙に変化していった。以前のような冷淡さは見られなくなった。本当に極たまにではあるが、時折、娘を見るような、複雑な感情が垣間見えるようになった。
そしてある日、宮宰夫人はマチルダに、専属の教師をつけると言い出した。驚くマチルダに、夫人はこう説明した。
「あなたは聡明で、多くの才能を持っている。もし、この先何かの役に立つ時が来るかもしれない。その時のために、この国の貴族としての作法や、宮廷での振る舞いを学んでおきなさい。」
「承知いたしました」
「この先も、私の為に働き学びなさい」