7 人間の町
翌朝、まだ日が昇りきらず夜の寒さが残っている頃、アワは宿屋を後にした。
昨日の青年はもう居なかった。今頃馬の世話をしているのだろうか。
箱庭の中では、3000年前――箱庭の外で暮らしていたころよりは町と町の距離がよほど近い。
だが、それでも決して簡単に行き来できる距離でないことは確かだ。
アワは野宿する回数はできるだけ少なくしたいため、なるべく早くに出発したかった。
縮図の技術が未熟なのか、地図上の距離と実際の距離がかなり変わっているのはもちろん、景色から得るなんとなくの距離と歩いた時の距離ですら違和感を覚えるほどに違う。
馬車は人の歩きと同じくらいの速度だが、馬車に乗れば歩きとは比べ物にならないほど早く着く。
考えればかなりおかしな話であるが、ルペラは質問をそんなもんよ、と一蹴した。
アワも箱庭とはこんなものなのか、とその疑問をおとなしく飲み込むことにした。
「おーい、そこの人、歩きでどこ行こうってんだ? 旅のもんか?」
ルラゾルブから少し歩いた辺りで、後ろから来た帆付き荷馬車を引く男に声をかけられた。
「あぁ」
「歩きじゃいくら何でも時間がかかりすぎるだろ。……荷馬車の中は縮こまれば細身のあんたがぎりぎり乗れるくらいしか空いてないし、それ以外なら御者台に一緒に座るしかねぇから1500ルビで行き先が同じとこまで送ってやるよ。話し相手もほしかったしな」
ルペラは苦い顔をする。
そも、ルラゾルブから他の都市行きの乗合馬車はいくつか出ていた。
それでもアワが歩きを選んだのは、ひとえにアワが馬車を苦手としているからだ。
馬車は車輪も木製で衝撃を吸収しないし、敷かれた絨毯も薄い。いや、絨毯が多少分厚くとも車輪が小石や道のくぼみで跳ねた衝撃は消せないだろう。
今の時期は馬車の中は冷え込むし、人がたくさん乗る乗合馬車は息苦しい。
「どこまで行くんだ? あんまり近いならちょっとは勉強してやるよ」
男はどうやら、アワが値段に難色を示していると考えたらしい。
「ちょっとカントリーサイドまで行こうと思っているんだ」
男は驚いたように目を見開く。
「カントリーサイド? そりゃあんた、向かう方向が間違ってるよ。カントリーサイドに行くなら反対側だぞ、センターエリアに一度行くんだ」
センターエリアは箱庭の中心部にあるため、外縁部のさらに外に作られているカントリーサイドへは遠回りだ。アワは訝しげに男を見やる。
「噓言っちゃねぇよ! バッファーゾーンは伊達に緩衝地帯として作られてねぇんだ、一度入り込んだら二度と出てこれねぇように作られてんだよ。そこを超えたいならセンターエリアから出る列車に乗らなきゃいけねぇ」
アワは男に礼を言い、来た道を戻り始めた。
まだ三十分も歩いていないから、そのくらいで気が付いたことは不幸中の幸いだろうか。
陽が沈み月が柔らかい光であたりを照らす頃、アワは道から少し逸れた辺りにある広場で焚火を熾していた。
ルペラは小さな火を出す魔道具を使っていたし、リラは魔法で火種を熾していた。そのためアワが火打石で火を熾すのは初めてで、かなり手こずっていた。
なんとか火が大きくなり、小鍋に水を入れて火にかける。
何を食べようかと荷物を漁っていると、昨日市を回ったときに購入したメイヤが目に留まる。
今日はこれにするか、とアワはメイヤを取り出した。
メイヤは、ヘタが大きな緑色の柿のような見た目をしていた。
露店の売り子が言うには、ヘタを下にして固いものの上に置き、上から叩いて殻を割り、中の種子を水で煮て煮だした汁を食べるらしい。
殻が割れると、鼻をつく酸い臭いが辺りに広がる。
あまりおいしそうな香りではない。これがレモンのような爽やかな匂いであれば期待できたのだろう。しかし、鼻に届くのはまるで腐った何かのような、酸い臭いだ。
火を通せば何か変わるのか、とスプーンで種を掻きだして小鍋へ入れる。
柿のような見た目とは異なり、中には白いわたに包まれた大豆ほどの丸い種子がぎっしり詰まっていた。
鍋でぐらぐら煮ていると、次第に煮汁にとろみが出てくる。
しかし、臭いは健在どころか酷くなっているような気さえする。
種子が柔らかくて指で潰せるくらいになったら、種子は食べずに煮汁だけを食べる。
正直触りたくなかったが、恐る恐る種子を一つ取り出し指で潰す。
すんなりと潰れた種子を見て、アワはそろそろ良いかと小鍋を火からおろし、なんの味を付けるか思案する。
ひとまずメイヤ自体の味を知らずには味を付けられないとアワはスプーンでひと掬い、恐る恐る口に含んでみた。
喉が痛くなるほどの酸味と、そのあとに続く苦味。そして舌がピリピリする。
これはとても食べ物ではない。腐った何かを口にしたようだし、毒を食べたようでもある。
たまらず吐き出して、あわてて口を水ですすぐ。
ルペラが時折栄養剤だと言って飲ませてきた、恐ろしくまずい薬でももう少しましな味だった。
少し離れたところに穴を掘り、そこにメイヤはすべて捨ててしまう。
あの屋台の店主が使っていたものがメイヤではなかったのか、あの露店の売り子がメイヤと偽って別の何かを販売していたのか。
メイヤを調理した器具を何度も丁寧に洗った後、アワは再び夕食を何にするかで頭を悩ませていた。
あのメイヤのせいでとても食事どころではない。食欲など消え失せた。
しかし、センターエリアまでは明日中にはどれだけ早く歩いたところで着かないだろう。
ならば少しでも食べないと明日に響く。
結局、硬く焼き締めた黒パンの薄切りを二枚ほどもそもそと口に入れて終わった。
ルラゾルブからセンターエリアまでは3日と半日かかった。
ルラゾルブの更に奥にあるルペラの箱庭からセンターエリアへ来ても、馬車を使えば二時間もかからない。
馬車には、何かしらの魔法がかかっているのかもしれないとアワは思った。
センターエリアは、相変わらず石造りの四角い建物が所狭しと立ち並んでいて、たくさんの人で賑わっているはずなのにどこか寂しさを覚える。
そも、センターエリアには観光向けの場所などなくここへ来ている人に遊ぶために来た人などいないはずではあるが。
駅に着くと、顔見知りの切符の売り子のところへ向かう。
図書館へ行くために何度も列車を利用していたので、いつも切符を買っていた左端の売り子といつの間にか顔見知りになっていたのだ。
「カントリーサイド行きの列車、空いてる?」
「カントリーサイドね、どこの?」
どこの、と聞き返されてアワは首を傾げた。
アワの想像では、カントリーサイドはセンターエリアやレジデンスエリアのように繋がっている大きな場所だと思っていたからだ。
「カントリーサイドはね、バッファーゾーンの端に沿って道が伸びて、それがセントラルエリアに繋がって、セントラルエリアからさらに道が伸びてようやく人間が住む大きな箱庭に着くの。その箱庭の総称がカントリーサイド。だから単にカントリーサイドって言われても困るよ。真反対に行かせちゃったらまた戻らないといけなくなるでしょ」
「そうだったんだ、知らなかった。名前はわからないんだが、とても広い麦畑がある場所に行きたい」
「麦畑ねぇ、広いのなら穀倉地域かな、じゃあD-68-aとH-211-aが思いつくけど。どっちだと思う?」
「記号で言われてもわからない」
売り子は、困ったように眉を下げる。
「そうは言ったって、カントリーサイドは記号で箱庭の区別をしていて他の名前は人間が勝手に使ってるものだから、私たちは知らないよ」
なおもわからないと首を傾げるアワに、売り子は困った、と首を振る。
「カントリーサイドで何がしたいの?」
「麦畑の景色を見てみたいんだ」
じゃあどっちでもいいんだ、でも距離も変わらないからどちらも変わらないし……と頭を抱えた売り子。
アワは、ふともう一つ勧められた場所を思い出す。
「そういえば、麦畑を見たあと、海、とかいう場所にも行ってみたいんだ」
「海? 海はC-13-dよ、あそこが一番過ごしやすい――あぁ、次に海に行くならD-68-aがいいんじゃない? エリアDからエリアCに行く列車は出てたはずだから、移動が楽」
「じゃあそこにする、ありがとう」
一緒になって悩んでくれた売り子に礼を言ってから、アワは列車を待つためにホームへ向かう。
列車は、寝台列車だった。
というのも、セントラルエリアまではいくら列車を使っていても2日ほどかかるらしい。
アワの取った部屋は1人部屋であるが、二段ベッドの下が1人用の小さなソファと机で、光を入れるために窓が大きく作られた狭い部屋で、窓のおかげか圧迫感こそないが窮屈な部屋だ。そのためアワは、まだ寝る時間でもないのに居るのは……と思いレストランのある車両でゆっくりしていた。
厨房のほうでは夕食の準備にばたばたとしているスタッフが見えたが、食事時でもないので居座っていても注意はされない。
大きな窓は、次々と流れていく景色がよく映える。
今はまだレジデンスエリアなのだろうか、遠くのほうにぽつりぽつりと建物のような影も見える。
やがて空が赤らんできて、ゆっくりと陽が地平線の向こうへ沈んでいく。
未だ残る雪や、まばらに生えた木々が赤く照らされて、どこか郷愁を煽るような景色が広がっている。
列車から見る夕日はなかなかのものだった。
セントラルエリアD -6 -a駅へ減速した列車が入っていく。
D -6-aは石造りの建物があちこちに見受けられる小さな箱庭で、センターエリアと違うのは緑がまばらながらにも残っていることだ。
「赤きっぷの方はこちらに来てくださーい。きっぷの裏面が赤色の方はこちらでーす。」
駅員らしき、制服を身に纏った人が何やら大声で言っている。
アワは外套のポケットからきっぷを取り出してひっくり返す。赤色だ。
「赤きっぷだとなんかあるのかな……」
近くの車掌がそのつぶやきを聞いていたらしく、親切に答えてくれる。
「赤きっぷは初めてカントリーサイドを訪れる方のきっぷです。人間の住むカントリーサイドは中央とはいろいろ違うので、その説明をしているんですよ」
「中央?」
「バッファーゾーンより中のことです。バッファーゾーンから外に出ない人は使わない呼び方ですね」
「丁寧にどうもありがとうございます」
「いえ、仕事ですので」
アワは、軽く会釈をして機関室のほうへ向かった車掌の背中を見送る。
ぴしりとした濃紺の制服はなかなかどうしてかっこいい。
しばらくそのほうをぼんやりと眺めていたアワは、赤きっぷの方~と再び呼ぶ声を聞いて、声の聞こえたほうへ向かった。
案内された部屋は、狭めの部屋に椅子がたくさん並べられた窮屈な場所だった。
アワのほかには、2,3人いるばかり。ここまでたくさんの椅子を並べておかなくてもいいのでは、とつい思ってしまう。
ブロンドの髪を肩辺りで一つにまとめた女性が最後に入ってくると、部屋の奥の少しだけ開けられたスペースに立つ。
これだけ部屋が空いているのならば座っていても見えない人など居なさそうだが。
「まずは、セントラルエリアD-6-aへようこそ。D-6-a駅駐在魔導技士の、石の魔女です。カントリーサイドを初めて訪れる方には、中央では聞かない法律の一部について説明することを義務図けられていますので、説明させていただきます。とはいえ、さほど難しいものでもありませんし、ほとんど使いません。皆さんも早くカントリーサイドへ行きたいかと存じますので、大切なものだけを手短にいきますね」
石の魔女は、手元の紙束に目線を落とす。
「まず、人間にここが箱庭の中だということを悟らせるようなことは話してはいけません。最後の大戦以前の情報もかなり制限しているそうですので、違和感を覚えてそこから芋ずる式に……といったことを防ぐためにも、そのあたりの話も控えたほうがよいかと思います。そして、みだりに人間を傷つけないでください。3000年は私たちにとってはあっという間のことですが、人間にとっては長い時間です。当時を知る人は生きていません。これだけ守っていれば問題になることはないでしょう。他に聞きたいことがあればお答えします。なければ退室して、そのままカントリーサイドへ向かっていただいて構いません」
一人、そのまま部屋を出ていく。一人はいくつか質問をした後に道を聞いて出ていった。
いつの間にか、部屋に残るのはアワと石の魔女だけだ。
「人間の寿命はそんなに短いのですか?」
「えぇ、だいたい40~70です。中央にはご存じない方が多いですね」
40~70。魔法族ならばまだあどけない幼子の年齢が、人間の寿命。
「そんなに、人間を傷つける人がいるのですか?」
「えぇ、多いとは言いませんが、一定数いますね。家族や友人を戦争で亡くした、その恨みを晴らそうとするんです。特に赤の原色様がトップに立つ反人間派に多いです。余計な業務が管理施設からこちらにまで回ってくることになるので、辞めて欲しい限りです」
「そうなんですか……。えっと、D-68-aに行きたいのですが、どう行けば?」
「駅を出て左側の、一番駅側に近い道から二本目の道をそのまま進んでいけば着きますよ。分かれ道で、5から9の番号が振ってあるはずですから、それが8の道を進んでください」
アワは礼を述べて、言われた通りに8と番号が振られた道を進む。
緑豊かな場所だが、この辺の自然はどうも気味が悪い。
なんだか、いやに綺麗すぎるのだ。そりゃまあ、作られたのものである以上不自然感を拭えないものもあるのだろう。
あるいは、何かしらの魔術が使われているのか。
ある程度進んだところで、突然景色が変わった。
今までは人の手が入っているように見える明るい森の中の道だったのが、広い草原の中に伸びる道になったのだ。
この感じには覚えがある。ルペラやリラの箱庭に入った時も同じことが起きた。
その草原はとても広い。見渡す限り草原が広がっていて、向こうから吹き抜ける風が優しく頬を撫でた。
良く晴れた空は、草原の緑をより引き立てている。いや、草原の生き生きとしてのびやかな新緑と空の爽やかで鮮やかな青が互いに互いを引き立て合っている。
この世界にはこんなにも美しいものがあったのかと、アワはいつの間にか濡れていた頬をそっと袖で拭った。
しばらく草原を伸びる一本道を進んでいて気が付いたのだが、ここは草原ではなく麦畑らしい。
膝上あたりまで伸びている草は皆同じ見た目で、雑多な種類の植物が混在している草原とはまた違う。
まだ雪が解けたばかりなので、麦も芽を出したばかりだろうかと考えていたが、麦は思ったより成長が早いようだ。
麦畑はとても美しいが、景色が一切変わらないとだんだんと退屈になってくる。
この麦畑はひたすらに広いのだ。列車がセントラルエリアに着いたのは日が昇りきったころで、そろそろ太陽は真上に来そうだが景色は一向に変わらない。
ふと、遠くに小さく建物が見えていることに気が付いた。
ようやく目的地が決まったと安堵しながら、アワはその建物を目指して歩き出した。
やはり、明確なゴールが見えると人はやる気が出るらしい。朝から歩き続けた足も心なしか軽く感じる。
あの建物は、町の端の倉庫のような建物だったらしい。
小さな子供が道を走り回って遊んでいて、こちらを見つけると興味深そうに見つめてきたり、物の影に隠れたり。そのうち数人が駆け寄ってくる。
「おにいさん、旅の人?」
一番人懐っこそうな笑みを浮かべた少年が話しかける。
歳は40にいかないくらいだろうか、いや、この子は人間なのだから魔法族の成長速度とは違う、なんて頭を悩ませながら、無言でうなずく。
ぱっと少年が笑って、案内してあげる!とか言いながら走り出した。
周りの子供も、嬉しそうに奇声を上げながらその少年を追いかける。
こちらは重い旅行鞄を手に持って、生地が硬くて長い、走りずらい外套を着ているのだ。
勘弁してほしい。
ひいひい言いながらなんとか追いつくと、少年たちは一軒の家の前に固まっていた。
こちらが追い付いたことを確認すると、少年は家の中へ入っていった。
おかーさーん、と呼ぶ声が聞こえてくる。
ここは少年の家なのだろう。
「はいはい、急いでるから走らない。……あら、魔術師様、ようこそヴァイツェンへ」
顔に小じわを刻んだ女性が少年に手を引かれて顔を出し、こちらを見て明らかに警戒するように表情を硬くした。
何か悪かっただろうかと思い、そこで石の魔女の言葉を思い出す。人間を傷つける魔法族もいると。商人なんかは人を傷つけていれば評判にも傷がつくが、旅人は評判なんて気にしない人も多い。アワがただの旅人の格好のため、警戒しているのだろう。
「どうも。アワと言います。魔術師ではないです。人間を傷つけようと思ってはいないので、あの、麦畑の景色がいいと聞いて、その、来ました」
「そうですか、ここの景色は素晴らしいでしょう。大したものは出せませんが、お茶くらいは出せます。どうぞ」
硬い表情のまま家の扉を大きく開けてアワを家へ招いた女性は、少年にお父さん呼びに行って、遠くで遊んできなさいと言いつけて扉を閉める。
アワが人間を傷つけようとしたときに子供が巻き込まれないための気遣いか。
悪いことをしようと考えている人は皆一様に悪いことはしないというものだ。あの一言は悪手だったかもしれない。
簡素なテーブルとソファが置かれた居間らしき部屋へ案内されて、しばらくしてお茶の入ったカップが出される。
紅茶よりも色が薄いお茶だ。森の中のような爽やかな香りがする。
ひとくち口に含むと、爽やかな香りが鼻に抜けていく、枯草のような、爽やかで香ばしい。青臭くはない。
紅茶とは違う味だが、これはこれでなかなかにおいしい。
「おいしいですね。えぇと、これは?」
「クマザサ茶です。その辺のクマザサを加工したもので、魔術師様方は普段口になさらないでしょう」
それだけ話すと、女性はドアのそばに立ったまま口を開かないし、アワはアワで話題も尽きて黙り込む。
この沈黙は、すごく居心地が悪い。
アワが沈黙に耐えかねて、いよいよ今日は良い天気ですねだとかを言いだそうとした頃、玄関のほうから物音が聞こえた。
女性は誰が来るか知っていたようで、アワに失礼しますと一言、そのまま部屋を出ていく。
ようやく警戒するようなあのストレスがかかる視線が無くなり、アワはふうと息を吐きだす。
胃が少し痛いかもしれない。
同じ沈黙でも、リラとの時は居心地が良かった。彼女は常ににこやかだし、黙っていてもこちらがよい気分になるような、明るい雰囲気を纏っている。
ルペラはもう少し居心地が悪いが、胃が痛くなるほどではない。なにせ彼女はこちらに興味などないし、邪魔になれば睨みつけるように冷めた目で見てくる。そこでおとなしく部屋を出ていけばあとは何もない。失敗すればあとからぐちぐちぐちぐち長ったらしい文句があるが。
ほどなくして、よく日に焼けたがたいのいい男性が部屋へ入ってくる。
つい先ほどまで農作業をしていたようで、着ている服は薄ら汚れている。
「魔術師様、妻や子供が何かご気分を害するようなことをしていたら申し訳ありません。私はバルシスと言います」
こちらを伺うような視線と笑ってはいるがその裏に見え隠れする警戒するような表情。
アワはまあそうだろうなと思いつつ、何してんだよ魔法族、おかげですごく居心地が悪いんだが、とも考える、というか頭の中は9割それだ。アワ自身も魔法族だけれども。
「アワです。魔術師ではないです。話は僕も聞いているので、無理もないと思います」
「これはご丁寧にありがとうございます。そう言っていただけるととてもありがたいです。いつ頃までここに滞在するおつもりで?」
ふむ、とアワは思案する。いつ頃まで、アワはあの宿屋で会った商人の言っていた、黄金色に輝く麦畑が見たい。ならば秋までだろう。
「秋まで居ようかと。黄金色に輝く麦畑がとても美しいんだと、とある商人に言われまして」
麦の話を出したところで、バルシスの表情が変わる。心なしか嬉しそうな表情だ。
「熟した麦畑が見たいなら、秋ってより、晩夏から初秋にかけてって感じですよ。麦ってのは、雪が降る少し間に種まきして、夏の暮れに収穫するもんです。その商人は、初秋に収穫するところを見たんでしょう」
バルシスは、麦が好きなのだろうか。彼が麦を語る表情は、嬉しそうで少しばかり優しい。
「じゃあそれくらいまで居ます。あぁでもその間に海でも見てこようかな。ここにいるうちは農作業とか、やってみたいですね」
バルシスはその眉を、困ったように下げる。
「いくら何でも、魔術師様……違うんでしたね、えぇと、アワ様に農作業なんかさせられませんよ。村のはずれに空き家がありますから、アワ様さえよければここにいる間はそこをお貸しします。食事は妻が持っていきますから」
「それはありがとうございます。農作業は、知らないことを知りたいんですよ。聞いたり読んだりするよりも、体験してみるのが一番ですから」
バルシスは少しばかり、アワへの警戒を解いてくれたようだ。
もちろん完全に解いたわけではなかろうが、先ほどまでの露骨な雰囲気は薄まった。
それから一言二言話し、バルシスは貸してくれるという村のはずれの空き家を案内してくれた。
空き家というから、荒れているだろうと思っていたが、小綺麗に掃除もされており、置いてある家具も悪くない。
どうやら、空き家と称してはいるが魔法族が訪れた時に貸す家らしい。
町のはずれにあるのもそういうことだろう。
「宿泊費はいくらですか」
「いえ、要りませんよ」
「では食事代は?」
「魔法族の方にお金を要求するなんて、後が怖くてできませんよ」
これは困ったなぁ、とアワは眉を下げる。
この世には、ただほど怖いものはないという言葉がある。
そうでなくとも、明らかにこの町はアワの知る魔法族よりも貧しそうなのだ、そんな人から無償で施しを受けるのはどこか良い気分がしない。
「では信頼関係が築けてから請求してください」
バルシスが帰った後、アワはベッドにぼふりと横になって、これからのことを考えていた。
先に海を見にC-13-dに行ってもいいが、どこもこんな感じなのだとしたらここで先に人間たちからの信頼を得たほうが後々やりやすそうだ。
さてその方法はどうしようかとあれこれ考えているうちにいつの間にか、アワは眠ってしまった。
お察しの方もいるかと存じますが、アワは魔法が苦手です。魔力が少ない人ほど魔力操作を苦手とするからです。
ルペラは魔法の腕を知っているわけではありませんが、魔力が少ないなら下手だろうと思って火打石を持たせました。
魔道具にも魔力操作の腕はある程度必要なんですね。
この世界の魔道具は、大きく3種類あります。
使用者の魔力を使うものと、取り付けた魔石を使うものと、製作者の魔力を使うものです。
最後のものはアワの旅行鞄のような魔術付与が施してあるものです。
ひとつ目の使用者の魔力を使うものは、作りが簡単で持ち運びにも便利です。ただし、魔力操作が下手だと事故を起こすこともあります。
つけたり消したりを繰り返したいものはこの作りが多いです。
ふたつ目の魔石を使うものは、ひとつ目よりも扱いも難しく大きくなります。
というのも、魔石とは魔力を結晶化させたものですので魔力の流れができないと取り出すことができません。
一度自分の持つ魔力で流れを作ってあげて、ようやく使えるようになります。これがなかなか難しいんですね。
ルペラの、冷めないダイニングテーブルなどがこれです。ずっと発動させておくものによく使われます。
次回から視点が変わります。ルペラの視点です。
いいね等頂けますと作者が喜びます。
この度は私の作品をお読みくださりありがとうございます。
もしよろしければ、次の話もお読みいただけますと嬉しく思います。
分かりにくい部分が多いかと存じますので、質問などございましたら気軽にお願いいたします。
物語に大きくかかわらないものであれば、あとがきのスペースを借りてお答えいたします。