15 日の出
あったかい……ふわふわする……
陽の光で温められた真綿に包まれたような心地よさの中で、アワは目を覚ました。
「ここ、どこ……」
「陽が沈んだ。今回は早かった」
背後からの声に、アワはばっと振り向く。
不思議な人だった。
髪は長い。白色の時もあるし、青色にも、黄色にも、赤色にも、様々な色に思える。
白い一枚布を服のように身にまとった男かも女かも分からないその人は、音もたてずに滑るようにこちらへ寄ってくる。
だんだんと、朧に包まれたようにぼやけていたその姿がはっきりしてくる。
その人の顔には目がなかった。
目を怪我しているとか、眼球がないとか、そういうのではない。
本来そこにあるべき瞼はなくて、のっぺりとした小さな窪みだけ。
目が、無いのだ。
「目、が……」
「ある、ここではないすべてに」
その人の声は不思議な響きだった。
空間にこだますように、声が反響する。
「其もだ、吾の目」
その人は、アワを目と呼んだ。
アワのすぐそばに立って見下ろしたその人は、その時初めて輪郭がぼやけずに見えた。
目がないその姿は異様であるはずなのに、恐怖は微塵も感じない。
ただ、胸を掻きむしりたくなるような懐かしさと、決して届かないものに焦がれるような。
それだけだ。
この人を知っている気がする。
「其は、今回の日の出からずっと興趣が尽きなかった。ひと時も吾の目を離したくないようなものだ。おかげで、其が眠りについてからようやく、予言者どもが吾に投げかけた問いに気が付いた。先ほど全ての景色を覗かせたから、問題なかろうが」
「予言者?」
「吾の目を借り受けたいと願う、青き色を持つ者どもだ」
片手を、アワの頭に載せる。
「穢れに当てられたか。其には、この穢れは到底容認ならなかったよう」
「穢れ?」
この人の言うことは難解でよくわからない。
アワへ説明しているというよりも、自分で確認するためだけに話しているような。
「愚か者どものもたらした災いだ。3000の時が流れても、未だに残るような」
アワの前に手を差し出すと、その手へ周りから露が集まって杯を形取る。
アワがぼんやりとそれを眺めていると、ずいっと差し出され促されるようにそれを受け取る。
中が真っ青な、液体のような、気体のようなもので満たされた。
「飲むと良い。再び眠りが訪れて、やがて日が昇ろう」
「飲むと、僕はどうなるんですか?」
「……眠りが訪れ、時満つれば日が昇ろう」
「どうなるんですか? あなたの言葉は難解で僕にはわかりません」
「……その身に宿した記憶を捨て去り、再び吾の目として大地に降り立つだろう」
また、何もかも忘れろと言うのだろうか。
せっかく思い出がたくさんできたのに。
「僕にはできません。忘れたくないものが山のようにできてしまった」
その人は表情を変えていないのに、目を見張って驚いたのだと分かった。
「其へ心をもたらしたそれは、其へ未練までをも思い出させたのか」
白いようで黒いような、酷く曖昧な手がアワの左手の腕輪に触れる。
「それはただの魔力貯蔵庫ですよ」
「そうであろ。魔力とはすなわち心であり、記憶であり、想いである」
いつの間にか腕輪はその人の手にあって、それをその人は目の高さに持ち上げる。
「其はすでに人の身ではないゆえ、それをその身に留めておくことが叶わなかった。失うだけの其に心は宿らぬ。これが失うを防ぎ、その身に心が宿ったのであろ」
アワへ、手を差し出した。
「其が拒むを吾が強要はできぬ。しばし昔話とするか」
ふたりが歩き出すと、やがて前に人影が現れた。
驚くことに、アワとそっくりだ。その人は少々老け込んでいるが。
「かつて、1人の絵描きがいた。描いたものも名も残らぬ。すべては時の奔流へ飲まれ潰えた。……何某はその命が流れるを止める時、吾に流れ続けるを願ったのだ。」
その人影が、跪き祈りを捧げる。
「まだ数多もの描き残したいものがあったのだと、その与えられた生では足りぬと。」
「余りに哀れであったゆえ、吾はその願いを受け入れた。その骸を停滞した果ての地より拾い集め、再び時の流れという大河へ放った」
人影は倒れ、それを淡い光が包み込む。
光が散った時には、その人影は若返っていた。ちょうど、アワくらいに。
「吾は傍観者。すべてを見届けると宣う。否、すべてを果てまで見渡すことなど吾にもできまい」
「吾には、吾の目の届かぬものをその目に映す何者かが入用であった。何某は流れ続けるを願った」
アワは何となく理解した。
昔、死ぬ瞬間に死にたくないと願ったそれが、この人に届いてしまったのだ。
幸か不幸か、叶えられてしまった。
そして、それを願った人が、アワだと。
「でも僕がいろいろなものを見に行ったのは、絵を描きたいと景色を見に行ったわけではありません。その景色を見た時に初めて絵を描こうと思いつきました。絵筆だって、見た目がよかったからリラが喜ぶと思って買っただけです」
「そうであろ。其に何某の心はもはや宿っておらぬ。果てぬ流れに散っていた」
その人が、窪みの向こうからアワを見たのだと分かった。
「じゃあ、彼が生き続ける理由は何ですか? 絵を描きたいというその願いが叶わないのに、生き続ける意味はあるんですか?」
「? ……何某は流れ続けるのみを願った。吾はそれを受け入れた。何某の身は決して停滞せずに時という流れを追う。何某の願いは既に叶えられた。相違あるか?」
この人は、死にたくないという願いだけを、ただ叶えたのだ。
その絵描きが死にたくないと思った、絵を描き続けたいという思いを叶えずに。
「あなたは、誰?」
「吾は傍観者。時の傍観者。ただ流れるを見続ける者。予言者どもは、吾を全知の目と呼ぶ」
「時は満ちた。飲むと良い。新たな日の出が其を歓迎するであろ」
その人は、再びあの杯を、青い液体とも気体とも知れないもので満たされたあの杯を差し出した。
アワは、その杯をじっと見つめた。
忘れたくないのだ。あまりに大切なものがたくさんできてしまった。
「僕にも、一つ願いがあります。叶えてくれますか?」
その人が、アワを見た、そこにはない瞳にアワを映した。
「口ずさむと良い」
「僕は忘れたくないです。この思い出を、残してほしいです」
杯がゆらりと揺れた。
「吾は傍観者。全知であっても全能ではない。」
「……其の願いは叶えられぬ」
アワは、杯をその人へ差し出した。
「では僕はこれを飲めません。あなたは僕にそれを強要できないんでしょう? 僕は拒否します」
その人は、その杯をじっと見つめた。
「吾は傍観者。其の願いは叶えられぬ。だが祈ることはできよう。其の願いを、吾が奇跡を願って祈ろう」
杯が、押し返された。
「しかれば、飲むと良い」
アワは、それを受け入れた。
「そこの人! 何やってるの?」
掛けられた声に、少年の意識が浮上する。
「何を? 何を、……分からない。」
「自分がやってたことが分からないの?」
少年は、その声のほうを見た。
薄桃の髪を肩口で揃えて、薄青のワンピースを着た幼い少女。
薄桃の花が咲く小枝を抱えて、青い瞳で少年を見上げている。
その瞳に、身を焦がすような懐かしさが蘇る。
「君、は、僕と、会ったことがある……?」
「えっ? うーん、わかんない」
少女は、困ったように少年を見上げた。
「そういうあなたは私を知ってるの?」
「分からない」
「名前は?」
「名前……名前……あった気がする、でも、分からない」
少女は、ふーんと溢す。
「自分のことなのに、何もわかんないなんて変なの」
風が頬を撫で、少女の薄桃の髪が吹き上げられる。
露になった耳に、雫の形に切り出された緑の宝玉のピアスが付けられている。
「どうして泣いてるの?」
そう言われて触れた頬には、温かいものが流れていた。
「分からない、何も分からないんだ……っ。でも、何か……忘れてはいけない大切なものを置いてきてしまった気がするんだ……」
少女は心配そうに少年を見上げて、抱えた小枝に目を落とす。
「あ、ねぇ、これ、桜って言うんだけど、今しか咲かない花なの。外の危ない森でしか咲かないけど、お母さんが好きな花だから、取ってきたの。昔はたくさん咲いてたんだって。ひとつあげるから、泣かないで」
「そんな大事なもの、受け取れないよ。」
少女は首を横に振る。
「ううん、お母さんは桜だけじゃなくて、春に咲く花なら何でも好きだから。お母さんは春が好きなんだ。」
桜が咲く小枝を一つ受け取って、少年はそれを見つめる。
どこかで見たような。
「そうだ! ねぇ、お母さんは物知りだから、あなたのことを知ってるかも! それかおばさんだったらあなたを治せるかも!」
少女が少年の手を取って駆けだす。
「お母さんはね、料理がへたっぴだからおばさんが料理をするの。おばさんは料理が上手くって、私が風邪を引いた時には良く効く薬を作ってくれるんだ」
やがて、森に寄り添うように作られた小さな集落が見えてくる。
「ここ! 私たちが暮らすコロニー!」
少女の元気な声が、春の晴れた空に響いた。
これにて完結です。
星の数ほどある小説の中から私の作品を見つけ読んでくださって本当にありがとうございました。
私が想像していたよりもずっとたくさんの方に読んでいただけて、本当に嬉しいです。
一瞬でも面白いと思ってもらえていたらそれ以上のことはありません。
短い間でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。
もしもまた出会う日があったら、その時もまたお付き合いくださると嬉しく思います。