11 麦の花
『親愛なる友人、リラへ
そちらの箱庭は相変わらず春真っ盛りでしょうか。こちらはもう夏の気配が漂っています。元気に過ごしていますか?
僕は今、カントリーサイドのD-68-aに居ます。
つい先日まではC-13-dへ海を見に行っていました。海というものは初めて見ましたが、とても神秘的で恐ろしいものでした。
黒いさらさらした砂が水際に敷き詰められていて―浜と言うそうです―、水の色は湖よりも深い青でした。深くて、引き込まれそうな恐怖を感じる青だと聞いていたので僕はリラの瞳を思い浮かべたのですが、全く違いました。リラの瞳は湖の穏やかな青です。本当に、底知れぬ恐怖を抱く色でした。
ところで、その浜で水晶螺という貝殻を拾いました。水晶のように透き通った美しい巻貝の貝殻です。地元の人はランプシェードに加工すると言っていました。光を柔らかく分散させるのだそうです。僕には一つしか見つけられませんでしたが、同封しましたので良かったら記念に取っておいてください。
砂の色が白い海もあるようですが、そこは暑くて危険な生物も多く、慣れない人が入るのは危ないと聞き断念しました。リラは魔法が上手なので、もしかするとその海も見ることができるかもしれませんね。
D-68-aは広大な麦畑が広がる箱庭です。現地の人にはヴァイツェンと呼ばれています。昔使われていたどこかの言葉で小麦という意味だそうです。D-68-aにぴったりですね。
こちらでお世話になっている人間の家族―バルシス、妻はビアンカ、娘はオリゼ、年上の息子はシプラス、下の息子はシリムの5人家族です―に随分と良くして貰っていて、こちらの珍しくも美味しい食事に驚く毎日です。
僕は最近バルシスたちと農作業に精を出しています。
慣れるまでは体のあちこちが痛くて大変でしたが、慣れるととても楽しいです。あと、麦がかわいく見えてきます。
麦の成長は凄いです。春先は膝丈くらいだった麦は、今はもう腰辺りまであります。収穫は晩夏から初秋というのでそれまでD-68-aに居て、そのあとはまた珍しい景色を探しに新しい場所へ向かおうと思います。
実は見当はすでにつけています。シャンパーニュという場所で、果実酒を作るためのブドウ畑が一面に広がる場所らしいのです。
最後に、体には気を付けて過ごしてください。リラはよく夜更かしをしていましたし、コーヒーはたくさん飲んで体にいいものではないと思うので。
シャンパーニュを楽しんだら、一度そちらへ顔を出そうかと考えています。
土産話をたくさん持っていくので、楽しみにしていてください。
それからヴァイツェンの美味しい料理もたくさん覚えたので、リラに作ってあげます。
リラは料理が得意ではありませんでしたから、レシピは送りません。
あなたの友人、アワより
追伸
昨夜、結祈祭という祭がありました。1年で、願い花という花が咲く唯一の夜らしいです。
なんでも、その花は眠るときに枕の下に入れておくと心の底から望むものを一つ夢に見せてくれるらしいのです。
子供だましかと思いましたが、花自体もとても美しい純白の花なので、リラにも見せたいと思って押し花にしています。生花の時ならリラの青い髪によく似合いそうです。
その花が林の地面を覆いつくすさまは絶景でした。
夜闇の中に、ぼんやりと発光しているようにさえ思える白さでした。
乾いてもそのままの色なのが凄いです。
2つ同封します。一つはリラに、一つはルペラにです。
枕の下に入れなくても、栞なんかに使ってください。
ルペラがもしも要らないと言った時はリラが貰ってください。
ではまた』
伝書燕という、手紙を届けるために改良された準錬金生物へ手紙を持たせて見送る。
準錬金生物というのは、既存の生物を錬金術で何かしらの特性を持たせたり別の生物や物体と融合させたりした生物のことだ。
「アワ! 誰への手紙?」
この少年はシリム。ヴァイツェンで初めて出会った人だ。
シリムはもうすぐ9歳になるらしい。魔法族の基準で考えると40に満たないくらいだと思っていた。
それを聞いた時、アワは魔法族と人間に流れる時間の違いをまざまざと思い知らされたものだ。
「僕の大事な友人だよ」
「なぁんだ、友達かぁ」
つまらなそうに口をとがらせるシリムを見て、アワはその頬をつつく。
「なぁんだってなんだよ。じゃあ誰だったら満足したの?」
「へへ、コイビト! ねぇちゃんが気にしてたよっ! ね? ねぇちゃん!」
「ちょ、シリム! 言わないでって言ったじゃん……」
物陰から顔を覗かせ涙目で座り込んだ少女は、オリゼ。先月15歳になった。
アワと同じくらいの年齢に見えるが、これでもアワは魔法族だ。
アワは自分の年齢を知らないので分からないが、きっと数倍の差があるのだろう。
「オリゼ、ほら、笑わないとせっかくのかわいい顔が台無しだよ。そろそろビアンカさんが朝食を用意してくれる頃だから、早めに行って手伝おう?」
うつむいたまま頷いたオリゼと朝から元気なシリムの手を引いて家へ向かう。
「で、ほんとはどうなの? とおちゃんが、アワくらいの年の男はみんなコイビトがいるって言ってたよ」
「バルシスめ……本当に友人だよ、僕はあの人に返しきれない恩があるんだ、とても恋人なんて対等な立場には立てないよ。ただでさえ、あの人の厚意で僕は友人を名乗れているんだ」
ふっとアワはシリムに微笑んで見せた。
煙突から煙が高く昇っているのが見え、焼きたてのパンの香ばしい香りが漂ってくる。
頬を撫でた風は夏の早朝らしく清々しい。
冬にも春にもそれぞれの良さがあったが、夏というのも存外いいものだ。
麦はそろそろ穂が出始めて、早いものは花まで咲いている。
アワは麦畑の中を、麦を踏んで倒してしまわないように注意しながら歩く。
病気になった麦や、虫が付いた麦がないか確認しながら、めぼしい雑草を抜いていくのだ。
たったそれだけでも、こうも広いと重労働だ。
バルシスたちはこれに加えて小規模の野菜畑の世話や牛などの役畜の世話までこなすわけだから、尊敬ものだ。
「おぉい! そろそろ昼飯だぞ! 切りのいいとこでこっちこぉい!」
昼食はビアンカ特製の卵サンドイッチ。
固ゆで卵をつぶし、ミルクでパサつきを無くして、ビネガーと塩胡椒、少しのハーブで香り付けしたビアンカの十八番だ。
「バルシス、シリムに余計なことを吹き込んでくれたみたいだね」
バルシスは心当たりがないとでも言うようにきょとんと首を傾げる。
「シリムに、僕くらいの年の男は皆恋人が居るって吹き込んだでしょ、おかげで今朝しつこかったぞ」
そう、あの後もシリムは好奇心からか、年上を困らせて構ってほしい子供心からか、アワに何かと絡んできたのだ。
バルシスはようやく合点がいったとでも言うように豪快に笑う。
「そりゃ、別にそんな怒ることじゃないだろ! それともあれか? 図星で参ったってのか? おい、話してみろよぉ~」
にやにやと笑いながら肘でアワの二の腕をつつくバルシスに、アワは肩をひょいとすくめて見せる。
「その理論で行くと、そろそろシプラスは嫁を迎える頃かもね」
思わぬところで流れ弾を喰らったシプラスは、盛大にむせた。
「げほっごほっ、あ、アワ、味方だと思ってたのに……セレナは中央に行っちゃったから……」
シプラスはそこまで言い切ると、肩を落とす。
毎年冬に各セントラルエリアで開かれるテストで1位を取ると、その人には中央にあるルーチェ魔術錬金術学園、ボルトン魔導工学学院、カインズ医術学院への入学の権利を手に出来る。
そこの卒業生は、錬金術師ないし魔導技師、医師として魔法族の世界で生きていくのだ。
強いられる理不尽や苦労は計り知れないが、給金は良い。
錬金術師になれば生涯カントリーサイドの土を踏むことはできないが、魔導技師や医師ならばカントリーサイドへも戻ってこれる。
むしろ、中央には魔法族の魔導技師や、医師と似たことができる緑、紫、黒、白の魔術師がいるため、セントラルエリアに勤めることが多い。
シプラスの想い人は、カインズ医術学院の門戸を叩いて医師になるべく日々努力している。
「ところで、今日雑草抜いてたら実り花見つけてな、今年は豊作だぞ」
実り花というのは、たまに田畑でも見つかる野花で、その花が咲いた畑はその年豊作になると言われている。
黄色の小花がたくさん咲く花で、球根は可食だが、食べる人はほぼいない。
ゲン担ぎのために枯れるまでそのままにしておくのだ。
そして、実り花は枯れると根まで跡形もなくなってしまう。
種をばら撒いて畑を浸食していかないのも抜かれずに残される理由だ。
「収穫まではあとどのくらい?」
アワの質問にバルシスはふうむと考える。
「そうだなあ、今年は特に育ちが悪いとかではないし、もう穂も出始めたから……あと……1か月くらいか? 急にどうした?」
「ううん、ふと気になっただけだよ」
バルシスの言った通り、その1か月後くらいには麦畑は一面の黄金色に染まっていた。
毎日その変化を見ていても、その景色には見惚れてしまうほどだった。
向こうの地平線から、あちらの山の裾まで、ぜんぶが黄金色なのだ。
それが時折吹く風に合わせてさらさらと音を奏でる。
朝日が昇る時には、新しい光に当たった麦がきらりきらりと光るようで、日暮れ時は夕日に赤く染まるのだ。
あぁそうだ、絵を描こう。
そうアワが思い至った時には、小さな手帳とルラゾルブの市で購入した携帯用の絵の具を広げていた。
別にアワに絵を描いたことがあるわけではない。
だが、右手に握る絵筆はやけに手に馴染むし、感動したその景色が紙の上に広がっていく。
あぁそうか、記憶を無くす前、僕は絵を描いていたのだなと、そう思わず信じてしまうほどに、アワの手は黄金色に輝く麦畑を容易く描き上げた。
「なにしているの?」
「ん? あぁ、あまりに麦畑が美しくて、何かに残したくなったんだ。それだけだよ」
ふうんとオリゼが納得したようにうなずいて、アワの隣へ座り込む。
「見せて?」
「もちろん」
「っわぁ、すごいね。絵って感じよ」
それはつまりどういうことだろうか。
突っ込みどころの満載な感想だったが、アワはにこりと笑って手帳を受け取る。
「ありがとう、そうだ、僕、麦の収穫が終わったらここを出るよ」
「……どうして?」
そう問うオリゼの声は、心なしか震えている。
「どうしてって、もともとここに残っていたのはこの景色が見たかっただけだし、人手がいる収穫まで終わらせたらまた旅を再開しようかなって。僕は旅人だから」
「アワなら、ずうっとここにいても文句言う人はいないよ?」
「うん、ありがとう。そう言ってもらえてうれしいよ。でも、僕と君たちに流れる時間は違うんだ、僕がいくら短命だと言っても、それでも君たちの寿命の数10倍はある。それにここは居心地がいいからさ、すっぱり出ていかないとずっとずるずる居座ることになってしまう」
オリゼににこりと笑いかけたアワは、オリゼがその栗色の瞳に涙をためていることに気が付く。
「どうして泣くの? 寂しいの? また、君が大人になって、今のビアンカみたいに家族を持ったころに来るよ。僕の寿命は長いから、オリゼが居なくなった後にだって、たまにきて墓参りをして、君の子どもや孫たちと話をするよ。ねぇ? 泣かないで」
「ふふっ、なにそれ。あなたって本当に酷い人」
ぱっと立ち上がったオリゼは、わざとらしい明るい声で続ける。
「さっきの、約束だからね? 私がお嫁に行って、子供を産んで、お母さんくらいになったら来てね? 絶対よ、私は忘れないわよ」
「うん、約束だよ」
「私がおばあちゃんになって死んだあと、墓参りに来てくれるのね?」
「もちろんだよ」
ふっと微笑んで、アワ、夕ご飯だよ、とオリゼは家のほうへ歩き出す。
いつの間にか、日は沈みきっていた。
「―-ふぅん、それで、いつまでここにいるんだ?」
夕食のパスタを食べながら、そうバルシスが問う。
「うーん、脱穀までやっていきたいから、その数日後くらいまでかな?」
バジルが香るパスタに混ぜられたクルミが、食感にアクセントを加えている。
「そうか、刈り取りは3日後からだから、あとひと月弱はいるわけだ」
「そうなるね」
翌朝、目を覚ますと窓の外に伝書燕がいた。
リラからの返事か、と手に取ったそれは、やけに薄かった。
『アワ、元気にしていそうで安心したわ。
色々と貴重な体験を積み重ねているようね。
それから、水晶螺と願い花をありがとう。
ルペラもとても喜んでいたのよ。
水晶螺は私の寝室の、採光窓のそばに置いたの。
朝日が水晶螺に当たって部屋中がぱっと明るくなって、寝覚めがとてもよくなったの、ありがとう。
願い花は栞にさせてもらったわ。
ところで、少し面倒なことになっているのよ。帰りたいならなるべく早めに来た方が良いかもしれないわ、列車が止まるかも。
あなたの親愛なる友人 リラより』
丁寧に文字を書くリラにしては書きなぐったような文字が少々不自然だ。
アワは手紙を読んで考える。
別に、絶対に帰りたいわけではないので、帰れなくなるのは問題ない。
だが、列車が止まってバッファーゾーンを超えられなくなると少し面倒だ。
バッファーゾーンを早めに超えておいて、その面倒なことが解決してからカントリーサイドの観光を再開しようか、いっそ、先にシャンパーニュへ行ってしまえばいい。
シャンパーニュでゆっくり列車の再開を待てばいいのだ。
「僕、刈り入れが終わったらここを発つよ。事情が変わったんだ、友人から返事が来て、早めに出発した方が良いって」
朝食の時、アワは皆へ予定が変わったことを伝えた。
バルシスは、労働力が減ったなぁ、と頭を掻き、ビアンカは寂しくなるわね、と微笑んだ。
シプラスは眉尻を下げて急だね、残り数日よろしく、と。シリムはよくわかっていないかもしれない。
「嘘つき、脱穀まで居るって言ったのに!」
オリゼだけがそう叫ぶと、家を飛び出していってしまう。
アワはそれを追いかけようとしたが、辞めた。
オリゼにはオリゼなりに考えていることがあって、頭と心を整理する時間を邪魔してはかわいそうだからだ。
それに、彼女の想いは決して叶わないのだから。
「本当に寂しくなるわ、またいつでも来てね、その時はここをあなたの家だと思ってくつろいで良いのよ。」
ビアンカが涙ぐみながらお別れのハグをする。
バルシスは泣いていて、なんて言ったのか聞き取れなかった。だが、農作業で鍛え上げられた両腕で思いっきり抱きすくめられるのはもう勘弁願いたい。
シプラスはアワの肩を応援するように叩く。
「アワ、仲良くしてくれてありがとう、おかげで、魔法族には君のようにいい人もいるって知れた。それから、セレネにもしも出会ったら、シプラスは元気にしてるって、君の帰りをずっと待っているって伝えてほしいんだ」
シリムは無邪気な笑みで、また来てねぇ! とアワに飛びついた。
思いのほか勢いがあったので、ふらつきはしたがしっかりとそれを受け止めてもちろん、と返す。
「皆が元気なうちにまた来るよ、その時はまたよろしくお願いします」
にっこりと笑う。
ビアンカが、あの卵サンドイッチの包まれた布を手に持たせる。
「少しだけれど、道中食べて。どうか元気でね」
オリゼだけの姿が見えない。
彼女は、あの日からアワと目を合わせてくれていない。
探しに行くべきか、と迷ったが、彼女が合わないことを願うなら会いに行くのも可哀そうだ。
また来た時にその分話せばいいだろうか。
4人に手を振って歩き出す。
ここへ来たときは膝丈までの麦が伸びていたが、今はどこも切り株ばかりだ。
寂しさを感じさせるが、ここでの思い出を思い返すと、胸がぽかぽかする。
また、絶対に来ようと、心にそう刻み込む。
「アワ――――!」
これはオリゼの声だ。
くるりと振り向くと、オリゼがこちらへ走ってくるのが見える。
「アワ、酷いん、だから! 私に、お別れも、言わずに、出発する、なんて!」
全力で走ってきたのだろう、肩で息をしながらオリゼがそう話す。
「ごめん、分かったから、僕が悪かった、だから息を整えて。水はいる?」
オリゼは、首を横に振ってそれを断る。
「アワ、私、3年後に、麦の花が咲くころに結婚式を挙げるから、隣町の子と。ずいぶん前から話はあったの、受けることにしたから。だから、だから、私の晴れ姿、見に来て」
白いハンカチをアワに手渡しながら、オリゼはそう力強く言い切る。
「3年後の、麦の花が咲く頃ね。わかった。絶対に見に行く」
そう言ってアワは、受け取ったハンカチに目を落とす。
白い布地に、白い糸で刺繍が施されたそれは、野花や蝶が刺されていてかわいらしい。
「わぁ、これすごくかわいいね。オリゼが刺したの? 凄いなぁ、料理も上手いし、裁縫も上手いし、気立てもいいし、きっといいお嫁さんになって、いいお母さんになれるよ」
うん、うん、とオリゼは泣き笑いのような顔でにかっと笑って、アワを送り出した。
――――――
白地に白い糸で刺したハンカチを年頃の女性が贈るのは、このあたりでは告白だ。
もちろんオリゼは、旅人のアワがそれを知っていないことを理解していた。
だから、オリゼはその白いハンカチと一緒に淡い恋心をすっぱり送り出すことにした。
何年後か、何十年後か、はたまた何百年後か。
アワがそのハンカチの意味を知った時に、またオリゼを思い出してくれるといいなと、かわいらしいおまじないをかけて。
その背中が見えなくなるまで、オリゼは手を振った。
お気付きの方もいると思いますが、アワはオリゼの想いに気が付いています。
そのうえで、彼はその想いに答えられないことを理解していたので、態度を変えないと決めました。
多少は遠慮や配慮もしていたようですが。
そして、オリゼもそのことになんとなく気が付いています。
魔法族と人間の恋は決して叶わないのです。
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分かりにくい部分が多いかと存じますので、質問などございましたら気軽にお願いいたします。
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