愛を誓って?
バレンタインデーのお返しは三倍返しからスタートと世間は言う。詰まるところ、世の女性達は至極真っ当に何の疑問を持たずそのように思っている。世間の半分は女なのだから、それは所謂常識なのだろう。
だから、ゴディバのチョコ三粒を恋人のバレンタインデープレゼントとした僕の彼女が、ホワイトデーのお返しスゴく期待してるっと目をギラギラさせながら微笑んだのに罪はないし、男として既に四半世紀近く生きた僕が無意識の無心に応えようとするのは可笑しな話ではない。
そんな経緯で、僕は初めてリングというものを、買った。
ロマンスの押し売りを望む女性達の焦がれ焦がれて憧れての必須アイテムだ。可能であればまだ薬指につけて欲しくないそれを、普通に渡すのは味気がないような気がして、僕は耳クソしか詰まってないと彼女に定評の頭を酷使し、リングをケーキの中に隠すこととした。駅ビルのケーキ屋で購入したワンホールだ。リングを差し出しながらコレ入れて下さいと呟いたときの、レジの娘のドン引きした顔を僕は忘れないだろう。無茶振りにもほどがあったが、お客様はモンスターということで、かくして目の前のケーキにはリングが仕込まれている。
「あれっこれどうしたの?」
トイレからリビングへと戻ってきた彼女が、食卓に現れた白いニューヒーローに目を点とさせた。
「ケーキ」
「や、だから、どうしたの?」
どうでも良いじゃない、と思いつつ、
「たまにはケーキ食べたいと思って」
包丁を手にして、僕はケーキを切り分けた。リングの位置は把握している。生クリームの外壁、デコレートが若干異なる部分だ。そこから埋め込んだのだ。必ず彼女がリングを口にするよう正確に切ると、皿によそう。
「はい、どうぞ」
「チョコケーキがよかった」
「そういうと思ってコレにした」
ぶぅと唇を尖らせながら、彼女はケーキにフォークを差し込む。先端を切り分けて、まずは一口。
「うん……」
彼女は静かに頷くと、再びフォークを伸ばす。二口、三口と切り分けていき、食が進むにつれ、フォークがケーキの中に収められた銀の輪に近づき、やがてその硬さに驚くだろう。
四口、五口、何口、……と。
「あれ?」
「ン?」
気づけば、彼女の皿が何故だか綺麗になっていた。理解が出来ず、一瞬我を忘れる。
「どうしたの?」
「いや……、おかわりする?」
「するー」
僕は予想外の事態にやや冷静さを失いながらも、ケーキに再び刃を入れた。もしかしたら、リングを潜ませた位置がずれていたのかもしれない。リングの位置を予測して、僕は彼女の皿に切り分けたケーキを乗せた。彼女は変わらず黙々と、フォークでケーキを串刺しにすると、一口二口、何でかな、ぺろりとたいあげやがりましたよ何でかな、本当に何でかな。
「どうしたの? 何だか顔色悪いよ?」
「別に……」
平静を装いながら、震える手で僕は、やや半月様のケーキと対峙する。ここにあるのは既にケーキではなく、自分に恐怖を与える白い悪魔と化していた。しばし狼狽したが、すぐに良いアイディアが浮かんだ。
こうなりゃ彼女が口にしなくとも良いのだ、僕が口にし、さりげなくケーキからリングを救助し、ケーキを食べ終わって落ち着いてから、いかにもこれが前から考えていたベストのタイミングですよとでもいうかの如く、彼女の手をとって、リングを指にはめてあげて逆転、サクセスフォーリンラブ。
「よし、それでいく」
「なにが?」
「いや、ケーキ切り分ける形的な……」
曖昧な笑みを作りつつ、僕もケーキを味わい始めた。目の前が白くなり動悸が激しく変な汗をかいている時のケーキは味がしないのだと初めて知りつつ、がっつく。一切れ、また一切れと。
「「ごちそうさまでした」」
あっという間に完食して、僕と彼女はお互いに手を合わせて見つめあった。
「やっぱ顔色悪いよ」
彼女が不審そうに小首を傾げる。そりゃあそうだ。僕の心拍は今、生まれたてのネズミより早い。
あまりに過酷な現実に打ちのめされながら、僕は起こっている事態を脳内で整理した。
ケーキには確かにリングがあった。彼女が食べたら気づく予定だった。だが彼女は気づかなかった。仕方なく僕も食べた。よく噛んで食べた。リング逃すまいと食べた。しかし無かった。
認めたくない。
認めたくないが認めざるえないだろう。考えるに、考えうるに、解決策が唯一あるとすればそれは。
「ねぇ早紀ちゃん」
「何?」
「スカトロって興味ある?」
「死ね」
彼女は瞬時に的確な選択を持って言葉を発した。ケーキを食べた直後の恋人同士の会話ではないという叱責と、スカトロという性癖をカミングアウトするかもしれない彼氏に対する侮蔑と、どちらに転んでもかまわないだろう最善の戒めの言葉をもってして僕に釘を刺した。電光石火の速さだ、さすがだよ、華麗だ、惚れ惚れする。
さてどうしたものか。
「うっ、……うっ!」
考えあぐねていると突然、彼女が椅子から転げ落ちた。
「さささ早紀ちゃん!?」
床に倒れ込んだ彼女に、慌てて近づく。彼女は、胃の辺りを両手で擦りつつ、丸まっていた。その顔は、先ほどにはなかった苦悶の色に染まり、歪んでいる。
「お腹……痛いっ!」
まさか、と全身が凍りつく。僕が隠したリング、それを完全に飲み込んでいて、それが腹の中で悪さをしているのか。なんてこった、なんてこったい!
「ごめん早紀ちゃん!」
僕は苦しむ彼女にすがりつき、床に頭を擦り付けた。
「僕早紀ちゃんを驚かせたくてリング、ホワイトデーのお返し! じゃない、バレンタインデーのお返しっ、ケーキに忍び込ませたからソレ食べちゃったんだよ! ごめんごめん、本当にごめんっ!!」
彼女は目を大きく開けると、うぅとより脱力する。
「お詫びして……、この罪百倍にして返して……」
痛みに喘ぎながら彼女が訴える。
「分かった、きっと償う! 許して! マジごめんなさいっ」
彼女は僕の謝罪に、虚ろな表情で頷いた。痛みが極限に達しているのか、朦朧としている。このままでは危ない。落ち着け、落ち着くんだ。
高速回転で考えて、僕はパッと閃いた。
「救急車!」
「待って……ッ」
飛び上がろうとして裾を捕まれ床に体をぶつける。見やると、彼女が瞳を潤ませていた。
「キスして……」
こんな時に何をいってるんだ、とはとてもじゃないが言えなかった。痛みに呻きながら望んでいる、彼女の願いをはね除けることなど出来るはずもない。
僕は目を閉じた。そして、慣れ親しんだ彼女の唇に、僕の唇を静かに重ねた。
――――ゴリッ。
明らかに予想されたものとは異なる硬さに、僕はパッと離れた。そして唖然とした。
彼女がニヤリと笑う。艶やかな上唇と下唇に挟まれて、銀の光がキラリと輝く。待ち望んだ銀色の瞬き。
あまりのことに、僕はその場にしなだれた。空気が抜けた風船のように、一瞬でクタクタになる。
そんな僕を彼女覗き込むと、唇からリングを取り出した。
「噛んだとき、痛かった。お返し」
こつんとリングで僕のおでこを弾くと、彼女は僕のお腹に頭をのせて、リングを指にはめた。さっきまで悪魔だったのに、今度は猫のように甘えて。
「ありがとう、大好き」
天へとかざされたリングは、ライトに照らされより美しさを増す。
ああ、なんというか、
「……うん。僕も」
そんな風に、呟くしかないくらいに。