悪夢
『……こ……ここは……?』
気が付くと大輔は公園の芝生に佇んでいた。
『大輔、ちょっと強めに投げるぞ!』
茫然と立ち尽くす大輔の耳に父の声が飛び込んで来た。
『――父さん――!』
少し離れた場所に立つ父はグローブを持って大輔に声を掛けていた。 大輔の横では二人の様子を見つめながら微笑む母の姿があった。
穏やかな日差しを浴びながら仲睦まじく公園でキャッチボールをする父子。 その姿を愛おしそうに見つめる優しい母の眼差し。
あの頃は、そんな幸せな毎日が何時までも続くと信じていた。
……しかし、父から投げられたボールを大輔が取り損なった時、幸せはボールと共に大輔の手から零れ落ちた。
『あれ? 沖菜、何処へ行った……?』
大輔が芝生に転がったボールを拾おうとすると、何故か父は母を見失ったかのような不安げな声を上げ始めた。 ……大輔の隣に母が座っているにもかかわらず。
『沖菜! 沖菜ぁ――!!』
母の名を叫びながら取り乱した様子で公園中を駆け回る父。 大輔はそんな父に唖然とし、大声で父を呼び止めた。
『父さん、何言っているの!? 母さんは此処にいるじゃないか!』
大輔は父を見ながら、母の人影を指さした。
すると、大輔の声を背中に受けた父が立ち止まった。
『大輔……』
父は大輔に背中を向けたままにわかに震え出すと、信じられない言葉を吐いた。
『そいつは……鬼だ……』
『えっ……?』
その瞬間、色鮮やかな公園がモノクロームの色彩に変わった。
灰色の芝生には隣から伸びている黒い影が見える。 母が芝生の上に座っている影のはずだ。
(そ、そんなはずは……)
大輔は息を飲んだ。
色を無くした不気味な芝生に映し出される影は母の形をしている。 だが、何かがおかしい事は大輔にも分かっていた。
『……か、母さん……?』
大輔は意を決した。
恐る恐る影が出ている方向へ視線を移した大輔。 そして、思い切って顔を上げ母の姿を見た。
『……ひっ!?』
その瞬間、大輔は恐怖に顔を歪ませ混乱した。
(一体自分は何を見ているのだろうか?)
目を疑い、声を失った。 だが、その忌まわしい物体が現実にそこに存在すると分かった瞬間、全身が竦み上がり思わず悲鳴を上げた。
『ウワァァァ――!!』
そこに居た者は母では無かった。
大輔は瞳に映る異形な姿に目を剥くと、恐怖のあまり絶叫を上げた。
――
大輔の隣に座っていた者――それは顔の捻れた異形の怪物であった。
腹の出た白い胴体に頭だけがくっ付いたような首の短い醜悪な姿。 枝のように細い手は異様に長く、所々腐敗して肉が飛び出ている悍ましいゾンビのようであった。
(母さんが! 母さんが化物に殺された!)
大輔は真っ先にそう思い込み、恐ろしい怪物を前にして思わず後ずさりした。 すると、怪物は逃げようとする大輔に血走った目を向けると、大輔に向ってその醜い手を伸ばした。
『父さん、助けて!』
先ほどまで優しく微笑んでいた母は、この戦慄するバケモノに殺されてしまったに違いない。
大輔は恐ろしさのあまり腰を抜かし、父に助けを求めた。
『大輔……』
いつもなら息子の危機に血相を変えて駆け付ける父だったはず。 しかし、この時ばかりは大輔の悲鳴にも眉一つ動かさず、冷然とした様子で背中を向けたままであった。
『――父さん――!?』
大輔の叫びを再び聞いた父はようやく後ろを振り向いた。
しかし、モノクロームの父は大輔を助けようとする素振りを見せない。 その場で佇み、憎悪に歪んだ灰色の瞳を怪物に向けていた。
『大輔……。 このバケモノこそ沖菜。
この“鬼”こそ、お前の母さんだ』
冷たく言い放つ父の言葉に大輔は戦慄を隠せなかった。
『……ウ……ウソだ』
そんな馬鹿な事などあるはずがない。 父はどうしてそんな笑えない冗談を言うのか?
『何言っているんだ! 母さんは――
――母さんはバケモノに殺されたんだよ!』
大輔の訴えを聞いても慌てる風もない父。 すると、今度は冷静な声で大輔の主張を否定すると、身を竦ませる恐ろしい言葉を告げた。
『大輔……。 もう一度その鬼を見てみるが良い。
息子を裏切り、夫を裏切ったその醜悪な鬼の姿を』
『……お前の父を殺した悪魔の姿を……』
『な……何を言って……』
大輔は言葉に詰まった。 先ほどまで自分の腕を掴もうとにじり寄って来たバケモノは何故か大人しくその場を動いていない。
(し、死んだのか?)
そんなはずは無い。 大輔の後ろに感じる不気味な気配は、未だに怪物が醜悪な身体を晒してそこにいる事を知らせている。
――しかし――
心の底から湧き出る怯懦に大輔は困惑した。 単純にグロテスクな怪物を見た事による恐怖では無い。
何か受け入れがたい“忌々しい物体”が大輔の背後に蠢いていることが感じられた。
全身を震わせながら大輔が恐る恐る後ろを振り向く――。 すると、彼は拍子抜けをしたように安堵の表情を見せて、目を瞬かせた。
『な、なんで……? 何で、母さんがそこに……?』
なんと、そこにはあの美しかった母の姿があった。
芝生の上に座っている母。 先ほどまでの怪物の姿は何処にも無い。
だが、何かがおかしい……。 大輔が優しく笑いかける母の顔から視線を下げると、彼はその違和感の正体に慄然した。
「あっ……あぁ……」
母はその細い両腕に黒い塊を抱いていた。 愛おしそうに目を細めながら何かを呟きながら……。
色を失った灰色の景色の中で、流れ出る絵の具のような鮮血に塗れた手で黒い塊を撫でていた。
『何で……
……何で父さんを……殺したの……?』
不気味に微笑む母の腕に抱かれている黒い物体。
その物体は、真っ黒に焦げた父の頭であった。
『……大輔……逃げろ』
父の声に大輔は振り向いた。 すると、向こうから焼け爛れた首の無い死体が大輔ににじり寄って来る様子が見えた。
『ウワァァ――!!』
大輔は身を震わせて首の無い父の遺体に目を背ける。 そして父の首を大事そうに抱える母にもう一度視線を移した。
『こ、これは……夢……だ』
大輔は受け入れがたい凄惨な光景に放心した。 だが、そんな大輔を地獄に誘おうとする悪魔は彼の心をナイフで突き刺した。
『ウ……ウゲェ……ぁあ……』
『グチャ、クチャ……』という醜悪な音が彼の耳に響く度に、胸に突き刺さったナイフが執拗に大輔の心臓を抉る。
大輔は地獄を見た。
――父の頭を食べる母の姿に大輔は本当の地獄を見た――
――
「――ギャァァァァ――!!」
病院のベッドの上で絶叫を上げた大輔。
「大輔君! 大丈夫、落ち着いて――!!」
暴れ出す大輔を看護婦とロボットが必死に抑え込んでいる。
「ダメだ! 鎮静剤を打て! これ以上暴れさせると命のかかわる!」
医師はそう叫ぶと、看護婦やロボットに抑えられている大輔の腕に注射を挿した。
「アガァ! 鬼だ! 鬼が父さんを――!!」
大量の包帯でグルグル巻きにされている大輔の腕……。 体液が染み出る包帯の隙間から見える肌は痛ましい火傷の跡。
真っ黒い肌に赤い肉が見える酷たらしい姿に看護婦は目を背けて大輔に語りかけた。
「大輔君! 君は奇跡的に助かったのよ! もう怖がらなくても良いの!」
ふっくらした看護婦の頬には悲愴な涙が伝っていた。 中学生の少年が想像を絶する事件に巻き込まれ、痛みと妄想に苦悶の絶叫を上げている。
その悲劇に看護婦は涙を禁じ得なかった。
……大輔は鎮静剤を打たれ、ようやく落ち着いた。
顔に巻かれている包帯で彼の表情は分からない。 しかし、口から漏れる穏やかな呼吸から彼が再び“悪夢”に襲われている状態では無い事は分かった。
「……うぅ……。 どうしてこんな酷い事を……」
看護婦は少年の痛ましい姿を見て嗚咽を漏らした。 医師は「ふぅ……」と一息ついてベッドの脇に置いてある心電図を確認すると、ロボットと一緒に治療室から出て行った。
すると、医師と前後して無菌スーツに身を包んだ大柄の男が治療室へ入って来た。
「容態はどうですか?」
男は丸椅子に座って泣きはらす看護婦に声を掛けた。 看護婦は俯いたまま「予断は許せません……」と呟くと、涙で腫らした痛ましい顔を男へと向けた。
「細木さん。 もし、叶うなら彼が好きだった“伊奈ちゃん”を連れて来てくれたら……。 もしかしたら、彼に生きる希望が……」
看護婦の言葉に細木は神妙な顔つきで頷いた。
「ええ……。 俺もそのつもりで“お嬢様”にお願いしました。
この子はきっと良くなりますよ。 夕方にはお嬢様が来る予定ですから」
細木はそう告げるとイスに座って項垂れている看護婦の肩を優しく叩き、言葉を継いだ。
「それでお願いなんですが、お嬢様がこの子と会う時、看護婦さんと先生は同席しないで欲しいんです。 お嬢様だけにして欲しい」
看護婦は細木の言葉に返事をしなかった。 項垂れたまま手に嵌めた手袋で涙を拭っている。
「なに、心配無用です。 この子がお嬢様のファンだと聞いたから二人きりで会わせて上げたいんです。
俺と看護婦さん、先生はドアの前で待機していれば問題無いでしょう」
看護婦は細木に説得されると俯いたまま首を横に振る。 ポニーテールの黒髪が『ブン、ブン』と激しく揺れた。
「でも……。 新聞記者とテレビ局の人達が……」
看護婦がそう否定すると細木は再び看護婦の肩を叩いて、彼女を説得した。
「いえ、俺が立ち会いさせません。 大やけどを負ったこの子が感染症にかかるとマズイですからね」
細木がそこまで言うと、看護婦は観念したように『コクリ』と頷いた。
看護婦は『アイドルが凄惨な事故に巻き込まれたファンをお見舞いする』という話題の為に少年が使われるかも知れないと懸念した。 ところが、マスコミを一切立ち会わせないと約束する細木を信じて、首を縦に振ったのであった。
「ありがとう。 貴方も少し休んだ方が良い。 一緒にコーヒーでも飲みませんか?」
細木は看護婦の心遣いに礼を言った。
看護婦は細木の誘いに頷いた。 疲労の濃い悲愴な顔を細木に向けると、差し出された細木の手を掴み、ヨロヨロと立ち上がった。
――
『ピッ――ピッ――』
心電図の音が響き渡るだけの深閑とした治療室。
中心のベッドで眠る全身に包帯を巻かれた痛ましい姿の少年。 彼は先ほどの恐ろしい夢を消し去るように穏やかな寝息を立てていた。
少年は一人の少女の夢を見ていた。
(――頑張って――!)
銀色の瞳で必死に呼びかける少女。
少年は夢の中で少女に励まされていた。




