人の心
大輔の父は階段から転げ落ちた拍子で頭にケガを負った。 大輔はワイシャツを脱ぎTシャツ姿になると、脱いだワイシャツの袖を破き血が滲む父の頭に巻いた。
階段の上から銃声が聞こえて来る。 耳を劈く警報音と重なって悲鳴や怒号が響き渡った。
銃を撃っている者はテロリストだろう。 人を護る介護ロボットに殺傷能力は無い。 人もロボットも一方的な悪意の前に為す術が無かった。
「もう屋上へ避難出来ない! 助けが来るまで六階の何処かの部屋で隠れているしかない!」
父を再び背負った大輔は階段を一気に駆け上がると、六階の防火扉に耳を近づけた。
(廊下には誰もいない……? みんな避難したのか……?)
大輔は鉄製の重たい防火扉を少しだけ開け、廊下を確認しようとした。
「なっ? 何だ、この匂いは……?」
生ぬるい空気と共に焦げ臭い匂いが鼻をついた。
見たところ廊下には火の手は上がっていない。 なのに、何故こんなに焦げ臭いのか?
大輔は父を背中から降ろし、思いきって防火扉を開け放った。
「……え……?」
大輔は扉を開けた瞬間、目を疑った。 自分の目に何が映っているのか理解する事に戸惑った。
……それは、ただの人形に見えた。
大きな塊から小さな塊まで……焦げ付いた床に転がっている黒い人形。 黒ずんだ壁にもたれ掛かる赤い人形。
……人形……?
大輔はもう分かっていた。 そう思わなければ心が壊れるから。 そう言い聞かせなければ気が狂いそうになるから。 自分がただ現実から逃げようとしただけだった事に。
しかし、過酷な現実から目を背ける事は出来ない。
――焼け死んだ人間達の変わり果てた姿から、誰も目を背けてはならないのだ――
――
「グゥ……。 (い、痛い……。 心が……)」
息が詰まり心臓の鼓動が鼓膜を叩く。 全身には汗が滴り、目の前の光景が歪んだ。
だが、目を背ける事は許されない。
これが現実であるから。
「……は……あ……ハァ……ウッ……」
大輔の全身に悪寒が駆け抜けた。 そして、激しい痛みが心を抉った。
「――ウワァァァ――!!」
大輔は痛みに耐えきれず絶叫を上げた。
「ウッ、ウゲェ! ウゥ……アア……」 (くっ、苦しい……)
その場で嘔吐し、悶え苦しんだ。 激しい痛みに胸を押さえ、床に這いつくばった。
父はいつの間にかフラフラと廊下を歩き、無残な遺体に近づいている。 父が近づいた遺体の傍には壊れたロボットは寄り添っていた。 恐らく黒焦げになった職員を守ろうとしたのだろう。
哀しげな顔で遺体に手を差し伸べる父の姿。
遺体に寄り添うように横たわる壊れたロボット。
その光景を目の当たりにした瞬間、大輔の心から恐怖が消えた。
「……父さん……」
大輔は父の憐れみに満ちた表情を見ると、にわかに震え出した。
「クッ……!」
その震えは恐ろしさから来る怯懦では無い。
心の底から湧上がる怒りに身震いを禁じ得なかったのだ。
「許さない……」
拳を握りしめ、屋上で待ち受けるまだ見ぬ鬼畜共へ向けた瞋恚の焔。
しかし、大輔はその怒りの炎を心の内に封じ込めなければならなかった。 父を愛するが故に。
「下から叫び声が聞こえてきたぞ!」
何者かの声が非常階段から響いて来た。 大輔の絶叫が屋上にいるヤツ等に気付かれたのだ。 大輔は滾る怒りを抑え、父を護る事を優先しなければならなかった。
(――マズイ! 父さんを何処かに隠さなきゃ!)
遺体の前で跪く父を抱きかかえる大輔。 すると、すぐに『ドカ、ドカ!』と階段から複数の人間が降りてくる足音が聞こえて来た!
大輔は慌てて目の前の病室へ飛び込んだ。 そして、病室のドアを閉めると鍵を掛けずに奥へと移動した。 鍵を掛けると逆に不審がられると思ったからだ。
奥には四方をカーテンで囲ったベッドが二台置いてあった。 中の様子は覗えない。 もしかしたら、まだ患者が寝ているのかも知れないが、今の大輔には確認している余裕などなかった。
窓際に設置されたベッドの奥に大きなロッカーが置いてあった。 開けると中には掃除用具が入っていたが、大人一人分は入る事が出来そうだ。
「父さん、しばらくここへ隠れていて」
茫然とする父を慎重にロッカーの中へ押し込める大輔。 耳元で小さく囁いて父に声を出さないよう伝えるが、父は遠い目をしているだけで返事がなかった。
(……たぶん、ボクの言う事は聞こえているはずだ……)
大輔は一抹の不安を覚えたが、父の意思を確認している暇はない。
上から降りてきた不審者達は防火扉を開けて、廊下へ侵入して来たようだ。
(ボクの隠れる場所が無い!)
ロッカーをそっと閉めた大輔は慌てて自分が隠れる場所を探し、キョロキョロと病室内を見渡した。 しかし、ベッドの下くらいしか隠れる場所は見当らない。
(仕方無い……)
窓際のベッドは幸い出入り口から最も離れており、奥まった場所に設置されていた。 手前のベッドはカーテンで囲まれている為、入口からでは窓際のベッドを確認する事が出来ないはずだ。
(とはいえ、侵入者が身を屈めばすぐバレてしまうだろう……)
躊躇している時間はもう無かった。 廊下から足音が聞こえて来ている。 向かいの病室のドアを荒々しく開く音も響いて来た。
(見つからない事を祈るしか無いか……)
大輔は窓際のベッドの下へ潜り込み、息を潜めた。
――
「アァ――! アァァ!」
「ウワァァン!!」
向かいの病室から悲痛な叫びと泣き声が聞こえて来た。 病室にはまだ患者達が逃げる事が出来ずに残っていたのである。
耳を塞ぎたくなる絶望の声に、大輔は何度も自分の胸を抑え付けた。
過酷な現実によって心を壊された患者。
ハンデを背負い、それでも生きようと必死に戦ってきた患者。
愛する者と共に一歩一歩歩んできた彼等の命が、今何者かに一方的に奪われているのだ。
安らぎの場所であった病院が血の慟哭に染まり、無慈悲な悪魔が無垢な魂を食らい尽くす。
『この心を抉る激しい怒りをテロリストにぶつけ、患者達を助けたい!』
ベッドの下に隠れていた大輔は思わず廊下へ飛び出しそうとした。
『――だが、それよりも父を護りたい――』
しかし、大輔は堪えた。 激情に流されて父を危険に晒さないよう歯を食いしばり、唇から血が滲むまで我慢した。
すると、ついに病室の扉が荒々しく開け放たれた!
『――ドカン――!!』
扉を蹴破って入ってきたテロリスト達。 姿は見えないがその声は、甲高い男の声であった。
「おや、おや……。 ここにもまだ“ゴミ”が残っているじゃないですか」
丁寧な口の利き方だが、顔を見なくても”外道”だという事が分かる気色悪い声。 その声に慈悲は無く、後悔の欠片も無い。
隣にはもう一人男がいるようだ。 残念そうに溜息を吐く鬼畜に対して「ハイ! 申し訳ありませんでした!」と謝罪すると、翻って自己弁護を図った。
「――し、しかしながら屋上へ逃げて来た“ゴミ”の量が思ったより多く、このフロアを全て確認するヒマがなかったのです」
病室の中に入ったきり話し込む二人の男。 大輔は息を潜ませ『早く、出て行け』と祈っている。 ところが、彼等は周りにあるイスや棚を蹴飛ばしながら雑談を続けた。
「言い訳は無用です! 作戦はもう“失敗”したのです!
……いずれにせよ私達は“教祖様”にお叱りを頂くでしょう。 となれば、もうこんな“ゴミ溜め”に長居は無用です。 警察と消防も間もなく来るはずです。 とっととヘリに乗って帰りましょう!」
ヤツ等は病院を襲撃するだけが目的ではなかったようだ。 作戦は失敗したと言っているが、そもそも何の目的でこんな悪魔のような所業を行なったのか?
大輔が考える間もなく、二人はこちらに近づいて来た。
(――!? ま、まずい……)
大輔の心臓の鼓動が一気に高まった。
(もし、ヤツ等がベッドの下を覗き込んだら、もう戦うしか無い!)
大輔は緊張で唾を飲んだ。
……ところが、二人の男は手前のベッドで立ち止まった。
『――シャッ――』と勢いよく奥のカーテンが開く音が聞こえると、手前のカーテンに二人の奇妙な姿をした影が映し出された。
「……ふぅ、全く。 ここにも“ゴミ”が一匹いるじゃないですか……。 救いようの無い“ゴミ”が……」
呆れた様子で再び溜息を付く男。 その声に反応するようにベッドの上から「アァァァ……ウゥゥ……」と微かな声が聞こえて来た。
誰もいないと思っていたこの病室にもまだ患者がいたのである。 生きる未来を諦めず、息を潜めて毛布に包まり身を隠していた哀れな患者が。
「ダ……ダ……ゲ……デ」
(……誰か……助けて)
助けを求めるたどたどしい声。 その声は大輔と同じ年程のか弱い少女の声であった。
(も、もうこれ以上――!)
大輔は耐えきれなかった。 これ以上、男達の暴挙を許す訳には行かなかった。
……しかし、彼の決心は遅かった。
大輔がベッドの下から飛び出そうとした次の瞬間、少女のか弱い声は悲痛な絶叫に変わった。
「――キャァァァ――!!」
鮮血を浴びたカーテンが真っ赤に染まる。 声を失った大輔の目の前で、苦悶に歪んだカーテンが『――ビリ、ビリ――』と悲鳴を上げ、力なく床に落ちて行く。
すると、一人の少女がベッドから転げ落ちて来た。
目を背けたくなる冷酷なナイフを胸に突き刺され、苦しみに悶えた顔を浮かべながら。
「ゼッ……ゼッ……ゼッ……」
心臓の鼓動も聞こえて来るような痛ましい喘ぎ声。 全身を激しく痙攣させる青白い顔の少女は懸命に息をしようと大輔の方へ顔を向けた。
「あっ……あっ……」
大輔はあまりの痛ましい姿に言葉を失っていた。 彼の身体はまるで忌まわしい魔女の呪いに掛けられたかのように竦んで動かない。
(助けないと! あの子を――! 今すぐ、助けないと――!)
大輔の方へ顔を向けている少女。 彼女はベッドの下で隠れている大輔に気が付いたようだった。
少女は一瞬驚いた様子を見せると、大輔に向って微笑んだ。
「やっと……き、来てくれた……私……の……」
『――白馬の王子様――』
震える唇から痛ましい血と共に溢れ出る希望の言葉。
青白い頬を美しい薄紅に染めた優しい眼差し。
その満足げな瞳がゆっくりと閉じた時、大輔の呪いが解けた。
「――貴様等――!!」
空気を歪ませ、窓ガラスが震える程の咆吼が突き抜ける。
「なっ、何だ――!?」
峻烈な怒声に泡を食った男達は、目の前に立つ仁王のような少年の形相に目を疑った。
「き、貴様等……絶対……
絶対に許さない!」




