絶望の悪夢、希望の夢想
西日が射し込む寂しげな病室。 痩せこけた男性がベッドの上で半身を起こし、鉄柵の付いた窓に顔を向けて茜色の空を眺めている。 窓から射し込む夕日の光は格子状の陰影を造りながら男性の顔を哀しげに照らしていた。
寝癖で跳ね上がった真っ白な髪。 シワだらけの顔。 弱々しい男性の姿は一見すると60代か70代にも見える。
「父さん、起きてたんだ……」
学生服姿の結城大輔が病室へ入って来た。 父は息子の声にもまるで反応しない。 呆然と外を眺めているだけだ。
だが、父の口は微かに『モゴ、モゴ』と動いていた。 どうやら外の景色を眺めながら何かを呟いているようである。
「父さん、何見ているの?」
大輔はベッドへ歩み寄ると、外を見つめ続ける父に向かって優しく言葉を掛けた。
「……火……」
すると、父は不可解な言葉を呟いた。 大輔の問いに答えたのか、それとも音に反応して独り言を呟いたのか?
大輔は父の言葉に首を傾げた。 しかし、窓から射し込む赤い光に目を窄めると、父が何を言いたかったのか分かった気がした。
「ああ、“日”の事か! 夕日が眩しいんだね! すぐ、カーテンを閉めるから――」
大輔はそそくさと窓の脇に纏められているカーテンを手に取ると『――シャッ――』と思い切り良くカーテンを引いた。
夕日の光がカーテンに遮られ、病室の中がにわかに暗くなった。 すると、父は突然「うぅぅ……」と呻き出し、ベッドの上から窓に向かって手を差し伸べた。
「あぁ……。 アァ――!!
大輔! 母さんがっ! 母さんが――!!」
暗い影が父の顔を覆った瞬間、彼の記憶が闇に消された。 そして恐ろしい“鬼”がやって来て、幸福な過去を残酷な妄想へ塗り替えた。
「大輔、母さんが攫われた! 鬼に……鬼に攫われた!
――アァァァ――!!」
訳の分からない事を叫び、突然暴れ出した父。 ベッドの上で頭を抱えて苦しそうに転げ回る。
「ま、マズイ! 先生を――!」
大輔はナースコールを呼ぶや否や、慌てて父の傍へ駆け寄った。
「――父さん! 大丈夫! 大丈夫だからっ! 母さんは此処にいるよ!
ボクと一緒にお父さんのお見舞いに来てるんだ!」
息子の声は父に届いていなかった。 無我夢中で白髪を振り乱し、ベッドから転がり落ちる父。 大輔は父を必死に押さえ付けようとするが、妄想に囚われた父の抵抗に抗えなかった。
父は大輔を引き摺りながら四つん這いで窓に近づくと、カーテンの裾を掴んだ。
『――ビリ、ビリ――!』
カーテンが音を立てて破れると、再び父の顔に夕日が射し込んだ。
「アァァ!? ――ヒャァァァ!!」
目を見開いて恐怖に怯える父。 彼に何が見えているのかは分からないが、恐らくこの窓を破って身を投げたしたくなるような悲惨な光景を見ているのだろう。
「お、沖菜! お前は俺を裏切るのか!?」
父が叫んだ『沖菜』と言う名は、大輔の母の名であった。
父は妄想の中で母に裏切られ、憤怒の形相で夕日を睨み付けた。
「……し、死んでやる! ……大輔を……息子を殺したお前等を殺し、俺も一緒に死んでやる!」
怨嗟に燃える父の瞳は真っ赤に染まる空しか見ていない。 必死に叫ぶ息子の声も、ナースコールで駆けつけた看護婦や医師の叫びも届いていなかった。
窓には幸い面格子が付いていたが、父は格子を両手で掴むと猛獣のように『ガタ、ガタ!』と力任せに外そうとした。
「――皆で押さえ付けるんだ!」
大輔、医師、看護婦等五人がかりで父を格子から引き剥がす。
「うぁぁわ! ――鬼めっ! キサマ等全員鬼だ!」
目をひん剥いて、ヨダレを垂らしながら喚き散らす変わり果てた父……。 その姿に大輔は思わず目を背けた。
「――ダメだ! 鎮静剤を注射しよう!」
このままでは父の身体にも影響すると判断した医師は、緊急措置で父に鎮静剤を注射した。
「光さん、落ち着いてください!」
看護婦が父の名を叫ぶ中、医師が父に鎮静剤を注射するとようやく父の力が抜けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
グッタリとして目を閉じた父。 嘘のように穏やかになった父の顔が、病気になる前の父の面影と重なった時、大輔の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「大輔君……お父さん、今日は発作が酷いようだから、明日までベッドに拘束してしばらく様子を見よう。
良いね――」
医師はそう言うと大輔の肩を優しく叩いた。
「うぅぅ……」
痛ましい父の姿を目の当たりにして泣き崩れる大輔。 溢れる涙が父の瞼に『ポタリ』と落ちると、痛ましい妄想に打ちひしがれた父の涙へ変わった。
父は医師と看護婦達によって再びベッドの上に寝かされると、拘束具を嵌められた。
ベッドのパイプと父の手足を繋ぐ拘束具が『カチャ、カチャ』と冷酷な音を鳴らす。 大輔はその不快な音に溜まらず耳を塞いだ。 すると、大輔の様子に気が付いた医師が申し訳なさそうに大輔に声を掛けた。
「……これもお父さんの身体を護る為なんだ。 お父さんのこんな姿を見るのは辛いとは思うが、分かって欲しい」
大輔は医師の言葉に頷くと「分かっています……」と顔を上げて父の顔を見る。 拘束具を嵌められた父に重なって、元気であった頃の父の面影が再び目に浮かんで来た。
『――大輔、お父さんは君と母さんがいるだけで幸せなんだ――』
そう言って大輔を優しく抱きしめた父の温もりは、今も大輔の記憶に刻まれていた。
「ボクは……父さんが生きていてくれるだけで幸せなんです。
どんな姿になろうとも……。
たとえ、ボクの事を忘れてしまっても……」
「――ボクは父さんに生きていて欲しいんです――」
――
大輔の父『結城光』が“若年性認知症”を発症したのは、三年前の事であった。
始め、父は物忘れが酷くなった。 それから間もなくして母と息子の名も思い出せなくなる程病状が悪化した。 最期には妄想に取り憑かれて暴れるようになり、一年も経たずに入院する事となった。
病院で精密検査を行なった結果認知症だという事が判明したが、これ程進行の早い認知症は稀だと言う。 しかも、時々記憶が回復する事もあるという珍しい病状であった。
記憶が回復した時の父は、まるですっかり病気が治ったかのような振る舞いをした。 そして、再び記憶を失って“自分が自分でなくなる”事の恐怖を大輔と母に訴えた。
「俺は……鬼に取り憑かれたんだ!
……鬼がお父さんの記憶を食べている……大輔と母さんとの思い出を消そうとしているんだ!」
父は記憶が戻るとそう言って怯え、大輔と母の温もりを忘れまいと二人を抱きしめた。
母はここ三ヶ月、父の見舞いに来なかった。 そればかりか自宅にも帰って来なかったのである。
「お父さんの病気を治す為に“教祖様”と祈祷を実施するから、良い子で待っていなさい」
不気味な白装束を身に纏った母は大輔にそう告げると、それきり自宅へ帰って来なくなった。
母は熱心な”神光人”の信者であった。
信仰のきっかけは大輔が肺炎を患った時であった。 意識不明となった大輔が救急車で運ばれた際、病院にたまたま神光人の信者がいた。 信者が大輔を救う為に祈祷をすると偶然にも大輔が意識を取り戻したかに見えた事で、母はすっかり神光人を信用してしまったのである。
実際は医師の迅速な治療のおかげで大輔は一命を取り留めたのであったが、神仏を騙る詐欺師などというのは言葉巧みな邪悪ばかりである。 そもそも人を信用しやすい母は、あっという間に神光人のウソに騙されてしまった。
神光人に傾倒した母は、父と大輔にも入信を勧めた。 父は仕方無く神光人に入信したが、大輔を入信させる事には反対した。
ところが、母は父に内緒で大輔を入信させてしまった。 その時、父は“騙し討ち”のような母の所業に初めて激怒した。
「あんな得体の知れないカルト集団に大輔を入れる訳にはいかない!」
父は神光人を頭から信用していなかった。
母の懇願を拒否し、すぐに大輔を神光人から脱退させた。 その時母が父に見せた恨みの籠もった表情は、大輔にとって生涯忘れることが出来ない恐ろしい般若の顔であった。
――
鎮静剤を打たれて穏やかに眠る父。 父の傍で丸椅子に座っている大輔も『ウト、ウト』と船を漕いでいた。
『――大輔くん――♡』
夢の中で少女の声が響く。
声も知らない少女にも拘らず、夢の中では何故か都合の良く可愛らしい声をして大輔の名を呼んでいた。
『大丈夫、私が付いてるわ♡ きっと、お父さんは良くなるから。
諦めないで頑張って――♪』
銀色の瞳を細めて大輔に向って微笑む金髪の少女。 彼女は大輔の傍へ歩み寄ると、大輔の顔を細く美しい手で撫でた。
そして、ふっくらした愛らしい唇を大輔の顔に近づけると、優しく頬に口づけをした。
「――希海さん――!」
大輔は興奮のあまり思わず叫んだ。
すると、その拍子に丸椅子から転げ落ちた……。
『ガシャン!』
大きな音が病室に響き渡り、看護婦さんが慌てて飛んで来た。
「だ、大輔君! 大丈夫――!?」
看護婦がイスから転げ落ちた大輔を気遣うと、大輔は頬を染めて「だ、大丈夫です……」とすぐに立ち上がった。
「ちょっと、夢を見て寝ぼけただけです……」
「――夢? あはは! 君、もしかして“伊奈ちゃん”の夢でも見てたの?」
看護婦が意地悪く笑うと、大輔は顔を赤くして「ち、違いますよ!」と否定した。
「ふふっ、一丁前に照れちゃって!
……まあ、君が興奮する気持ちも分からなくはないわ。 明後日は久しぶりに”伊奈ちゃん”が病院へ来るんだからね♪」
看護婦の言う通り、アイドルの『森中伊奈』が二日後にこの病院へ”慰労”に訪れる予定であった。
「ま、まぁ楽しみですけど……」
大輔ははにかんだ笑顔で看護婦にそう返事をしたが、彼が期待していたのは伊奈に会うことでは無かった。
(森中伊奈さんが“養子”にしたという女の子……『篠木希海』さん。 夢の中でしか会えなかった彼女がもしかしたら……伊奈さんと一緒に……)
大輔はそう思うと『ゴクリ……』と唾を飲み込み、にわかに心が躍った。 二日後が待ちきれずに心臓が高鳴り、目の前に愛おしい希海の姿が浮かび上がった。
『――大輔くん――♡』
「……大輔君?」
だらしない顔をして呆けている大輔に首を傾げる看護婦……。 そんな看護婦を尻目に大輔はいつまでも希海の姿を思い浮かべ、胸をときめかせていた。




