見守る愛
伊奈は自室に籠もり、物思いに耽っていた。
『“最悪の事態”を想定すれば、イグニスを密かに殺害する事が最善である』
しかし、彼女はその選択を取らなかった。 その理由は彼女に“後悔の念”があったからである。
だからと言って憎悪に身を焦がすイグニスを放っておけば、希海が必ずイグニスの復讐を阻止しようとする事は分かっていた。 そこで、伊奈は希海が最悪の事態に巻き込まれないように彼女の監視を始めた。
「本当はイグニスという者を殺してしまえば済む話。 でも、アタシは希海の可能性を見てみたい。
あの子が自分の足で進もうとする道が、正しい道なのかどうか……」
伊奈は希海を愛していた。 それは彼女が“子供好き”だからという理由だけではなかった。 彼女の心の底に沈んでいる遙か昔の記憶から湧上がる愛情から来ていた。
彼女はその記憶を思い出す度に、自分が犯した過ちを後悔する。
伊奈が小百合からイグニスについて報告を聞いた際、小百合に対して今回の件を希海に話さないよう口止めを命じていれば、希海がイグニスの監視をする事はなかっただろう。
だが、伊奈は希海の感性に期待した。 希海がもし小百合の話を聞いてイグニスの復讐を阻止しようとするなら、彼女の感性に任せて見守っていようと決めていた。
その決断が希海を危険に晒す事は分かっていた。 しかし、彼女は同じ過ちを犯したくなかった。 希海の行動を縛り付けたくなかったのである。
「希海は希海の思うままに進めば良い。 アタシはあの子の進もうとする道を全て受け入れましょう。
もし、あの子が道を踏み外したら、アタシが手を取って救いましょう。
もし、あの子の進む道が茨の道であるなら、アタシがあの子に背中を貸しましょう。
……私はもう、誰も失いたくないのだから……」
――
復讐の力を得る事が出来なかったイグニスは、自暴自棄になっていた。 ここ数日の間、彼は繁華街に行っては道行く日本人に暴行を加えるという狼藉をはたらいていた。
イグニスの住む町の繁華街には交番があった。 しかし、交番にはやる気の無いグータラ警官が一人常駐しているだけであった。 彼はイグニスが傍若無人に振る舞っていても、余程の事では無い限り無視を決め込んでいた。
最近のイグニスの動向は目に余るものがあった。 市民はたびたびこの“不良外人”に対しての苦情を警官に訴えた。 ところが、警官は度重なる市民の苦情に耳を貸さず「あー、はい、はい」と適当に受け流しては、机に突っ伏して昼寝をしているばかりであった。
こんな警官が護る町ではアム・セグラ人が幅を利かせ、さぞ住民も困っているに違いない――と思いきや、アム・セグラの民はそんなグータラ警官を人一倍警戒していた。 したがって、彼等はいくら市民に迷惑行為を行なったとしても、ある一定のラインを越えないよう自制していたのであった。
ここ数日におけるイグニスの行動は、アム・セグラ人達の間でも問題となっていた。 彼等はイグニスを『アム・セグラ会館』というコミュニティセンターへ呼び出しこれ以上目立った行動をしないよう戒めた。
「イグニス、お前の気持ちは良くわかる。 俺達はお前の為に拘置所へブチ込まれているヤツ等をどうやって攫うか計画を練ってるんだ。
今お前が逮捕されてどうする? お前は妻と子を殺した奴に復讐したいんじゃないのか?」
ターバンを巻いたヒゲ面の親父が、四角い顔に不満げな表情を浮かべてイグニスに向かって苦言を呈す。
事務机を挟んで”ヒゲ親父”と対峙するイグニスは、彼の忠告を「逮捕なんかされる訳ないだろ」と一笑に付した。
「埼玉県警は“神光人”の残党狩りで忙しいだろ? 俺なんかに構ってるヒマはないし、交番のオマワリなんぞはそもそも俺の眼中に無い。 何か言って来やがったら、ぶっ飛ばしてやる」
イグニスがそう言って鼻息を荒くすると、ヒゲ親父の顔がにわかに気色ばんだ。
「馬鹿モン! お前は去年この町に戻って来たばかりで、アイツの事を知らないからそんな余裕かましてられるんだ! むしろ、埼玉県警なんてどうでも良いんだ。 俺達ゃ、お前が眼中に無いと言っているそのオマワリに目を付けられる事を心配しているんだ!」
ヒゲ親父は身を震わせて怒鳴ると、怒鳴りすぎて血圧が上がったのか「フゥ……」と息をついて席についた。 そして、その立派な口髭を指で触りながら、この世間知らずな若造を言い聞かせるように窘めた
「……アイツは”バケモノ”なんだ。 アイツに目を付けられるとお前だけじゃない、俺達だって危険なんだ。
分かったか? お前の為だけじゃないんだ。 頼むから、俺達の為にもこれ以上悪さをするな」
(バケモノ……?)
イグニスはヒゲ親父の話しを聞いて、すぐに島田と小百合の顔を思い出した。
(もしかしたら、アイツらの仲間かも……?)
そう考えるとイグニスの身体がにわかに震えた。 確かに、島田と小百合の仲間であれば、あまり調子に乗っていると取り返しのつかない事になるかも知れない……。
「あ、ああ……分かったよ。 これ以上、皆に迷惑を掛けないようにするよ」
イグニスは急にしおらしくなった。 ヒゲ親父は態度を急変させたイグニスを見て「俺の説教もまだまだ捨てたもんでは無いな」と迫力のある四角い顔に満足げな笑みを浮かべた。
「俺だって、皆には感謝しているよ。 だから、もう少しだけ力を貸して欲しい」
殊勝にも仲間に感謝を述べるイグニス。 ヒゲ親父は「もちろん、俺達は“家族”だ。 家族はお前を見捨てはしない」とイグニスの前に両手を差し出した。
孤独なき復讐を遂げようとしているイグニス。 彼は伊奈の言う通り、“混沌の女王”が嫌う絆と愛に満ちている。
もし復讐を遂げたとしても、彼が鬼になる事は無いだろう。
だが、もし彼の仲間達が居なくなったら?
彼は孤独と絶望に抱かれ、鬼へ墜ちる。
――暗く深い憎悪の水底で、混沌の女王は待ち続ける。 孤独と絶望に苦悶したイグニスの心に烙印を刻むその時まで――
――
希海と小百合は伊奈の命令に背いて、イグニスを探しに彼の住む町へやって来た。
二人はイグニスの所在を住民達に聞き込みをするため商店街へ来たが、途中で『百万石饅頭』と言う銘菓が売っている和菓子屋を見つけ、目的も忘れてお店の軒下で饅頭を頬張っていた。
「これ、バリ旨い♡」
希海は口いっぱいに饅頭を頬張ってウットリした表情を浮かべている。 その様子を見た店主は満足げな笑みを浮かべ、希海の容姿を褒めだした。
「お嬢さん、ガイジンさんだべ? 俺らの町もアム・セグラのヤツ等が多いけど、アイツ等は迷惑ばっかかけやがる。 お嬢さんのようなガイジンさんが住んでもらったら、この町ももっと良くなってたんだがなぁ」
「オッチャン、私は日本人よ! ……まあ、そんな事はどうでも良いけど、アム・セグラのヤツ等はそんなに迷惑かけてるの?」
希海は饅頭をあっという間に食べ尽くすと、銀色の瞳を丸くして店主に向って問いかけた。
「あぁ、大音量で音楽は流すわ、公園で酒盛りするわ、挙げ句の果ては若い女の子を殺しちまうわで……。
昔はそんな事をする連中じゃなかったんだがね……。 最近じゃ、自分達の仲間が悪さをしても知らん顔だ。 『俺達ゃ、悪くねぇって』さ。 それでいて、俺等がアイツ等に文句言うと『差別だ』なんだって騒ぎ出して……」
店主は困惑した表情を浮かべながら、希海と小百合にアム・セグラ人の蛮行を訴えた。
「困った人達ですね……」
小百合が店主に同情すると、店主は何を思ったのか首を横に振った。
「確かに困ったヤツ等だが……だからと言って、俺達ゃアイツらを暴力で排除しようとは思っていねぇさ。
アム・セグラ人を暴力で排除しようとするヤツ等も、また困ったもんさ」
店主の話ではアム・セグラ人を排斥しようとする者達は、地元の住民よりもむしろ県外から来た愛国主義者達が多いらしい。 地元の住民はアム・セグラだけでなく、そう言った過激派連中にも頭を悩ませていたのである。
「また、昔のように仲良くなってくれれば良いんだが、“あんな事件”が起きちまったからには、もう無理だろうなぁ……」
店主は寂しそうに顔を俯かせると、希海と小百合は顔を見合わせた。 恐らく、店主の言う“あんな事件”と言うのはイグニスの家族が殺された事件の事だろう。
「その事件ならニュースで存じ上げています。 被害者は今どうされているんですか?」
ようやく会話が目的へ戻って来た。 小百合が店主へ丁寧に聞くと、店主は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「イグニスは奥さんと息子さんを殺されてから荒れちまって……。 仕事もしねぇでブラブラしていてなぁ。 夜遊びしている若い日本人を狙って恐喝を繰り返しているんだ」
「恐喝!? 同情の余地無いわね、ソイツ!」
店主の話を聞いてにわかにイキリ立つ希海。 だが、店主はイグニスに同情しているで「いや、でもアイツは人を殺したりしてねぇから……」と言ってイグニスを庇った。
「当たり前よ! それにしても、警察は何やっているのかしら! 何でソイツを逮捕しないのよ!」
希海はさらにイキリ立ち、店主に顔を近づける。 店主は困惑した様子で希海の身体を両手で押さえながら、この町の警官のグータラぶりを希海に告げた。
「いや、俺等だってお巡りさんに言ってんだがね……。 でも『夜遊びするようなヤツが悪い』と言って、何にもしてくれねぇんだ。
この町のお巡りさんは良い人なんだが、面倒くさがり屋でねぇ……。 よっぽどの事が無い限り、交番で寝てばっかいるんだよ」
「はぁ? 何よ、ソイツ!? ちょっと私が交番行って文句言ってやるわ!」
いよいよ目を三角にさせて怒りを露わにする希海。 小百合は店主に詰め寄る希海を「まあ、まあ、希海ちゃん……」と宥め、狼狽する店主にイグニスの所在を再び聞いた。
「あ……ああ。 たぶん、夜になればこの辺うろついているはずだ」
「そうですか……。 有り難うございます」
小百合は店主に礼を言うと、未だプリプリと怒っている希海を引き摺りながら店を後にした。




