危険な依頼
イグニスは喫茶店のボックス席に座って、項垂れていた。 彼の瞳は落ち窪み、満足に睡眠も取っていないようだった。 ここ数日間シャワーも浴びていないせいか、灰色の縮れ髪もベッタリと脂ぎっており、顔は煤けて汚れてしまっていた。
イグニスが遺体安置室で変わり果てた妻と子供の遺体に対面して、二週間が経っていた。 妻は真っ黒に炭化してしまっていた。 男性だか女性だかももはや良く分からない。 子供は母親に寄り添うように物言わぬ黒い人形と化していた。
警察の話しでは、イグニスの妻と子供は自宅と共に焼かれる前にすでに息絶えていた。 イグニスが留守中に暴漢が侵入し、妻と子供を殺害して自宅に火を放ったのだ。
イグニスの妻と子は、筆舌に尽くしがたい凄惨な暴行を受け、殺された。 妻は強姦された上、腹を割かれた。 子供は股に鉄パイプのような物を突き刺され、頭部まで貫通した状態で絶命した。
妻と子供を襲った犯人は複数の日本人であった。 彼等はこの国を乗っ取ろうしているアム・セグラ人に恨みを抱き「アム・セグラ人だけでなく、ヤツ等を擁護する日本人もろとも皆殺しにする」と宣言していた過激派のメンバーであったのだ。
「あの時……俺があんな事を言わなければ……」
イグニスは両手で顔を覆いながら悲嘆に暮れた。 喫茶店のママはそんな悲壮感に満ちた外国人をカウンター越しから悲しげな眼差しで見つめていた。
イグニスは駅前でマスコミのインタビューを受けた際、不用意な発言をした為に過激派の連中の標的にされた。
ネット上ではイグニスの個人情報が全て晒し上げられ、妻と子の写真までも出回った。 美しい日本人妻は“売国奴”と罵られ「天誅を与えるべきだ」などと非難された。
イグニスの家族は日本人からの憎悪に晒された結果、取り返しの付かない悲劇に巻き込まれたのである。 それもこれも、全てイグニスがインタビューの中でした迂闊な発言が原因であった。
「俺の……俺のせいで……家族が……」
いつの間にか喫茶店のママがテーブルの脇に立っていた。
「どうぞ……」
テーブルにコーヒーを置く喫茶店のママに挨拶もせず、ただ呆然とテーブルのコーヒーを見つめるイグニス。
コーヒーカップから立ち上る湯気がコーヒーの香りを乗せて彼の鼻を掠めると、彼は震える手でカップを手に取ってコーヒーを口に運んだ。
――
イグニスがいる喫茶店には先ほどまで客がいた。 喫茶店のママを『ユリちゃん』と馴れ馴れしく呼んでいる中年男性、前髪を下ろし眼鏡を掛けたサラリーマン風の男、アニメの話しばかりをママにするオタク風の男……。 彼等の殆どはママを目当てで来店しているように思われた。
そんな客もママの耳打ちで後ろを振り返り、ボックス席で俯いているイグニスを一瞥すると「じゃあママ、また明日来るからね♡」と名残惜しそうな様子で帰って行った。
イグニスはそんな客達など気にしている余裕はなかった。 彼はこの喫茶店で人と待ち合わせをしていたのだ。
イグニスは妻と子を殺した日本人を憎んでいた。 ハシバミ色の瞳は憎しみで歪み、その身は怒りに震えていた。 だが、彼を愛し、彼を尊敬していた同胞達はそんな憔悴したイグニスに手を差し伸べた。 アム・セグラの民は家族愛に満ちている。 彼等は同胞を家族として愛し、同胞の悲しみは家族の悲しみとして共有するのである。
仲間達はイグニスの為に彼の家族を虐殺した日本人達を探そうとした。 ところがその矢先、事件が起こって三日と経たないうちに実行犯は全員警察に逮捕された。
(ヤツ等は警察に匿われている! 絶対許すものかっ!)
犯人達は警察に拘束され、独房の中で護られている。 イグニスが警察を襲撃したところでアッサリ返り討ちに遭うのは想像に難くなかった。 だが、彼は何としてでもヤツ等に復讐をしたかった。 そんなイグニスの思いに仲間達は応えようと、彼等は『復讐を代行する者がいる』という都市伝説に縋った。
都市伝説は本当だった。 だが、ウワサとは違い復讐を代行してくれる訳ではなかった。 『ある人物に会えば、復讐をする為の力を与えてくれる』というものであったのだ。
イグニスは仲間達の助けを借り、ようやくその人物とアポイントを取ることが出来た。 待ち合わせ場所に指定されたのは、郊外にある『ユーカリ』という喫茶店……。
こんなロッジのような小さな喫茶店に、復讐の力を授けるなどという恐ろしい人物が果たしてやって来るのであろうか?
「そろそろ時間のはずだ……」
イグニスはテーブルに伏せていた顔を上げ、カウンター越しの壁に掛っている時計を見た。 カウンターの奥ではエプロン姿の若いママが、時計を見つめているイグニスに気付いて微笑みを浮かべた。
『――カラン、カラン――』
喫茶店の扉に掛っている大きなベルが鳴り響き、扉がおもむろに開いた。
イグニスの全身に緊張が走った。 きっと恐ろしい大男か、魔女のような女が入って来るに違いない……。
「――おや、貴方がイグニスさんですね?」
「……なっ……?」
イグニスは呆気に取られた。 目の前の人物を見て混乱した。 こんな人物に会うために仲間の力を借りたと思うと、失望を禁じ得なかった。
彼の目の前に立っている人物は、見るからに弱々しい腰の曲がった老婆であった。
――
「ふ、ふざけんな――!!」
イグニスは激昂してイスから立ち上がり、老婆と対峙した。 この二週間、全身が爆発しそうな憎しみに耐えながらようやく復讐することが出来ると期待したにも拘らず、こんな年寄りがノコノコと目の前に現れるとは!
(アム・セグラを馬鹿にしやがって!)
やはり、日本人なんかに頼んだ事が愚かだった。 仲間達に申し訳ないという気持ちと裏切られた失望で、彼は拳に怒りを籠めた。
「このババアッ――!」
イグニスは怒りに任せ、痩せ細った老婆目がけて恐るべき拳を繰り出した!
彼は目の前に現れた老婆を殺すつもりだったのか? いや、決して殺すつもりはなかったが、感情が爆発したイグニスは前後不覚になってしまっていた。
「――なっ!?」
あまりの怒りで瞬き一つしていなかったはずだ。 一瞬でも老婆から目を逸らした覚えは無い。 だが、目の前にいたはずの老婆の姿はそこに無く、いつの間にか喫茶店のママが立ちはだかっていたのである。
「お店の中で暴れないでください」
エプロン姿の若いママはキリッとした笹のような眉をひそませ、イグニスを睨み付けた。
「……い、いつの間に……?」
イグニスが振り上げた拳をそのままに唖然として目を見開いていると、彼女の背後から老婆の声が聞こえてきた。
「小百合さん、お止めしなくても結構ですよ。 この子には溜まった怒りをそのまま吐き出していただきましょう」
「でも、島田さん……」
喫茶店のママの名はユリでは無く、どうやら『小百合』と言うようだ。 そして、彼女の背後にいる老婆の名は『島田』……。 イグニスは二人の会話から、もともと二人が知り合いである事を理解した。
小百合は島田の言葉に従うようにサッと後ろへ身を引いた瞬間、イグニスの前から姿を消した。 すると、再び瞬間移動したかのように奥のカウンターへ姿を現しイグニスを驚愕させた。
(バ、バケモノか……?)
『もしかしたら二人はすでに死亡しており、自分は幽霊と対峙しているのではないか?』
そんな気さえ脳裏によぎるほど非現実的な小百合の動き……。 先ほどまで怒りに満ちていた目に恐怖の色が浮かぶ。 そんなイグニスを見た島田は「おや……」と残念そうな声を上げると、イグニスを挑発する言葉を放った。
「貴方の復讐を遂げようというお気持ちは、その程度のものなのですね」
島田の挑発が耳に飛び込んできた瞬間、イグニスの目に真っ赤な炎が湧上がった。
「何ぃ――!?」
全身から血が沸き立つような怒りに身を震わせたイグニス。 言っていけない暴言を吐いた老婆に恐怖など吹き飛んだ。 彼は再び拳を握りしめると憎たらしく微笑む老婆を睨み付けた。
「ほほほ、その怒りを全て私にぶつけて下さいな。 お話はそれからです」
不敵な笑みを浮かべる痩せ細った老婆。 ネズミ色の着物を着て白髪の髪をお団子に纏めている何の変哲も無い老婆が、何を血迷った事を言うのか。
「――話しだぁ? 貴様と話しをする事など何も無い! アム・セグラを侮辱しやがって!」
もはやイグニスはこの憎き老婆を生かしておくつもりは無かった。 喫茶店のママが邪魔をしようが知った事では無い。 自分を侮辱するという事はアム・セグラの民を侮辱することと同じ事。
自分の為に必死になって力を貸してくれた仲間の為にも、この嘘吐きの老婆を殺さなければ気が済まなかった。
「このババア――!」
全ての恨み、憎しみを拳に乗せて無慈悲な拳を老婆目がけて振り下ろす! 老婆の奥の見える女はまだカウンターの奥にいる。 もう、邪魔立てする事など出来ない!
「――死ね――!!」
怨嗟の拳が老婆の顔に打ち付けられた!
『――バキッ――!』
無慈悲にも骨が砕けるような音が響き渡る――その瞬間、痛みに喘ぐ絶叫が店内にこだました。
「ギャァァ!!」
老婆の顔面目がけて渾身の力でパンチを繰り出したイグニスは、彼女の岩のような顔で拳を痛めてしまった!
「痛っ? アアァァ!? 嗚呼、クソッ! 何なんだ、貴様! 一体、何者なんだ!?」
グニャリと曲がった力ない腕を庇いながら、島田に目を遣ったイグニス。 確かに拳は老婆の顔面に当たったはずだ。 ところが、その顔は傷一つ付いていない……。
悠然と微笑む島田の顔にイグニスは恐怖を抱いた。
(まさか、こんな人間がこの世にいる訳がない……。 いや、もしかしたらコイツら本当に人間では無い?)
恐怖に怯えるハシバミ色の瞳。 もはやイグニスの怒りは完全に消え去り、得体の知れない者への怯懦が彼の全身を支配していた。
「……ほほっ、小百合さん、彼は大丈夫。 鬼になることは有りませんよ」
老婆は後ろを振り返り喫茶店のママに向ってそう言い放った。 再びイグニスに顔を向けてニッコリ微笑むと、呆気に取られるイグニスに席へ座るよう促した。




