対岸の火事、身を焦がす
『イグニス・イブン・サウード』は日本で生まれたアム・セグラ人であった。 浅黒い肌にハシバミ色の瞳を持つ顔立ちの良い青年であり、髪の毛はアム・セグラ人特有の灰色の縮毛であった。 高校までは地元の学校に通っていたが、卒業後に都内で職に就いた。
イグニスは今年で24歳になった。 三年間都内で塗装業の見習いをして地元へ戻って来た後、会社を興し解体業を営むようになった。
彼は一年前日本人女性と結婚したばかりであった。 日本人女性との結婚は駆け落ち同然であった。 それもそのはず、彼女と結婚する直前に同胞達が若い日本人女性を強姦し、殺害するという忌まわしい事件を起こしたからであった。 イグニスの妻は両親の反対を押し切って彼と結婚した。 その為、彼女は両親から勘当となり、アム・セグラ人の妻としてイグニスと新たな人生を歩み始めた。
子供も生まれ、会社も順調に成長して行った。 公私共に順風満帆であったイグニス。 世間はアム・セグラの民に対して差別と偏見が蔓延しており、日本人のならず者達は“天誅”と称してアム・セグラ人に対して無差別な襲撃を繰り返していた。 イグニスも当然彼等の標的となる危険があったが、彼は「まさか、自分が日本人に襲われる事は無いだろう」とタカを括っていた。
イグニスは自惚れていた。 アム・セグラ人と日本人の対立など所詮は対岸の火事であり、自分は日本人の妻もいる事から「日本人は自分の事を敵視していないはずだ」という自負があった。 妻はアム・セグラ人の文化を良く理解しており、聡明であり、夫に対して何処までも優しかった。 その良き妻の姿が、逆にイグニスの慢心を助長させたのである。
ところが、イグニスが思っているほど、日本人は彼の事を信用していなかった。
それは彼がアム・セグラ人であるという以前の問題であった。
イグニスはアム・セグラ人の特徴である逞しい肉体を持っていた。 その辺の日本人では彼に敵う者はおらず、学生時代は気に入らない同級生を虐め、教師にも暴力を振るうなどの狼藉をはたらいていた。 さすがに社会人となってからは理不尽な暴力を振るうことは無くなったが、自分が経営する会社でも持ち前の横暴ぶりを発揮した。 同じアム・セグラの社員は可愛がるくせに、日本人の社員となると気分次第でパワハラを行なったのである。 (もちろん、イグニス本人はパワハラだとは思っておらず、俗に言う“可愛がり”であったと主張していた)
日本人妻や子供には優しかったイグニスであったが、彼を知る日本人の評価は芳しくなく、むしろ粗暴な荒くれ者というイメージしかなかったのである。
一方、同じアム・セグラ人達の間ではイグニスは評価が高かったどころか、尊敬までされていた。
彼は度々アム・セグラ人の互助団体に多額の寄付を行なっていた。 貧困に喘ぐアム・セグラ人には積極的に手を差し伸べた。 日本人から迫害を受けた同胞の敵討ちをした事もあった。 イグニスの同胞を愛する想いがあったからこそ、同胞に尊敬され、愛されていたのである。 家族同様に同胞を愛し『同胞の苦しみは自分の苦しみ』だと思う献身的な特徴は、アム・セグラ人の文化に根付いたものであった。
――
ある日、イグニスは駅で取引先の顧客と待ち合わせをしていた。 すると、街頭インタビューをしているマスコミに、アム・セグラ人の一人として同胞による日本人女性殺害についての意見を求められた。
その時、イグニスは横柄な態度でマスコミに接した挙げ句、あろうことか殺害された日本人女性を批判する意見を述べてしまった。
『――幸福の輝きには、常に不幸の影が潜んでいる――』
彼は迂闊であった。 調子に乗っていた。 心の何処かで日本人を馬鹿にしていた。
彼はインタビューに答える中で、同胞達の犯した罪を「俺には関係ない」と言いながらも彼等を庇った。 この国をアム・セグラの国にしようと野望を抱く同胞に対しても、積極的には賛同しなかったが「そうなれば良いな」と放言した。
イグニスが同胞と日本人との争いを、対岸の火事として眺めていた事は間違い無い。 ところが、同胞が引き起こした火事は、自分が対岸へせっせと運んだ油によって燃え広がった。
自分が運んだ油によって燃え広がった炎が、岸を越えて自分の身を焼くことになったのである。
日本人は不用意な発言をしたイグニスを許さなかった。 ネット上でイグニスの個人情報が瞬く間に広まり、彼の経営する会社に迷惑電話がひっきりなしに掛ってくるようになった。
脅迫も数え切れない程あった。 自宅には血に染まった段ボールが送られてきた事もあった。 段ボールの中を開けると、血だらけの豚の頭部と切り刻まれた家族の写真が入っており、思わず彼の身を慄然とさせた。
「クソッ、臆病者達がっ! 文句あるなら直接来いと言うんだ! 大体、殺した奴が悪いんだ! 俺が悪い訳じゃない!」
彼はそう言って不平不満を妻に漏らした。 妻は子供を抱きながら夫へ一定の理解を示したが、マスコミの前で余計な事を言った事は反省するべきだと指摘した。
「ゴメン……。 君達に怖い思いをさせてしまって。 もう、あんな事は二度と言わないよ」
彼はそう言って、自分の軽率な発言を反省した。
しかし、彼は理解していなかった。 取り返しの付かない事というのは、やり直す事が出来ない事と同義である。 彼がいくら自分の発言を反省したところで、口から出た言葉を消すことは二度と出来ないのである。
「発言を撤回する」
「今の言葉は無かった事に……」
「記憶にございません」
いくらそう言って失言を取り繕い、シラを切ったところで、その言葉に傷付き、憤怒した者は死ぬまで忘れる事は無いのである。
人生とは残酷なものである。 イグニスはそんな軽率な発言が原因で、二度と這い上がる事が出来ない不幸の陥穽へ突き落とされたのである。
――
その日は雨が止んだばかりの蒸し暑い日であった。
イグニスが仕事から帰って来ると自宅へ続く道が封鎖されており、消防車とパトカーが集結していた。 道路はまるで霧のような白煙に包まれ、様々な物が焼け焦げた異臭が鼻をついた。 どうやら、自宅の近くで火災が発生らしい。
(また、日本人の仕業か……)
この時、イグニスは全く考えが及んでいなかった。
――火災があった場所が、まさか自宅であったなどとは――
「ちょっと、家へ帰るんだから通してくださいよ!」
堂々と道の真ん中に止まっているパトカーに不満を漏らし、傍に立つ警官に詰め寄ったイグニス。 仕事で疲れていた彼は、早く妻と子の顔を見たかった。
「はぁ? 見りゃ分かるでしょ。 火事が起きて人が亡くなったんだ。 ここから先は立ち入り禁止だ。 アッチ行ってなさい、シッ、シッ――!」
警官は不躾に文句を言うイグニスに腹を立てたのか、ぞんざいな言葉を返すと面倒くさそうにイグニスを追い払う仕草を見せた。
「馬鹿野郎! 俺はこの先に住んでんだ!」
あまりにも失礼な警官の対応にイグニスが激昂すると、警官はさらにイグニスの感情を逆なでするように「チッ……」と舌打ちをした。 そして、気怠そうに首を鳴らしながら、腰にぶら下げた無線を手に取った。
『あー、はい、はい。 ガイジンさんですね。 えっ? あー、はい、はい』
無線で何やら仲間と話していた警官はイグニスに「アンタ、名前は?」と再び失礼な口の利き方で尋ねた。
「……イグニス……イグニス・イブン・サウード……」
「ふーん、あっそ」
警官はジトッとした目をイグニスに向けて気の無い返事をすると、再び無線を口元へ持って行き、イグニスの名を仲間に報告した。
『――えっ、マジっすか!? ……えっ、病院に……? ……ハイ、了解しました』
先ほどとは打って変わって顔色が変わり、慌て出した警官。 彼は無線を切ると、バツが悪そうな顔をイグニスに向けた。
「あ、貴方がサウードさんでしたか。 もっと早く言っていただかないと……」
「……」
イグニスは変わり身の早い警官に呆れた顔を見せたが、それよりも突然変わった警官の態度から不安に襲われた。
「一体何なんだ! 早く家に帰らせてくれ!」
イグニスは嫌な予感がした。 周囲は未だに白煙が立ちこめている。 規制線の奥では消防官と警官が何やら深刻そうな顔を浮かべて話し込んでいる姿が見える。 ……その先はイグニスの自宅がある。
「――どけっ――!!」
イグニスはいよいよ焦燥に駆られた。 彼は警官の胸を突き、規制線を超えて駈け出そうとした。 ところが、イグニスに胸を突かれた警官は細身であるにも拘らずビクともせず、逆にイグニスを羽交い締めにした。
「待ちなさい――!」
凄まじい警官の力に抗う事が出来ず、抑え込まれるイグニス。 それでも必死に身を捩るイグニスの耳元で警官が叫んだ。
その叫びはイグニスの人生の中で最も恐ろしい言葉であった。
「いいかい? 落ち着いて聞きなさいよ! アンタんところの奥さんとお子さんがね――」
「――!?」
その瞬間、イグニスの身体に稲妻が走った。 目の前に火花が散り、頭の中が真っ赤になった。
「……嘘だろ……?」
彼は必死に警官を振りほどき、無我夢中で自宅へと駆けた。 可愛い妻と子の笑顔が脳裏に浮かぶ。 その二人の笑顔がガラスのように砕け散る様を想像すると、心臓が破裂し身体がバラバラになる気がした。
イグニスに気付いた消防官や警官が彼を止めようとするが、今の彼を止められる者などいなかった。
「ハッ……ハッ……そ……そんな……?」
未だ白い煙が燻っている自宅への前で跪くイグニス。 すると、呆然とする彼の背後にいつの間にか先ほどの警官が立っていた。 彼の後ろからは仲間の警官達が息を切らしながら必死に追いかけて来ていた。
警官はイグニスに声を掛けた。
息一つ切らしていないその声は、驚くほど冷静であった。 だが、冷然とした声ではない。 温かみのある優しい声であった。
「――ご主人。 奥さんとお子さんは病院で貴方の帰りを待っています。
どうか、病院へ……病院へ行ってあげてください」




