悪意の蠢動
朝から『ギャー、ギャー』騒ぐ二人のせいで、すっかり目が覚めてしまった高橋一家。 幼い息子はキョトンと目を丸くして二人を見ていたが、昇と由美は二人が何やら大変な事態に巻き込まれているようだと察知した。
「二人とも、何か大変な事が起こっているようだな。 至急、俺が車で駅まで送って上げよう」
昇がそう言って上着を羽織り、外出の準備をしようとする。 ところが、希海は「車なんか使ってるヒマなんか無いわ!」と雷のような勢いで外へ飛び出した。
「希海さん、待ってぇ!」
希海の後を追って家を出る真裕に続き、昇と由美も外へ飛び出した。
「あれ!? いつの間に――?」
すると、先ほど外へ飛び出したばかりの真裕が希海に抱きかかえられており、顔を赤らめて恥じらいを見せていた。
「高橋さん、ご飯バリ旨かったわ、アリガト! もうアータは鬼になんてならないわ、大丈夫」
不可解な事を叫ぶ希海に、昇と由美はお互い顔を見合わせた。 希海は二人の様子にお構いなく別れの挨拶を告げた。
「じゃあね、洋君! また、お姉ちゃんと遊ぼうね!」
希海は由美に抱かれている子供に向かって手を振りながら、笑顔を送る。 子供は何が起こっているのか理解が出来ずポカンと口を開けていた。
「バイバイ、高橋さん! また遊びに来るから!」
続けて希海は高橋夫妻にそう言うと、その場から消え去り二人を驚愕させた。
「いっ!? な……消えた?」
「いや、消えたんじゃない!」
腰を抜かす二人の目には、あっという間に遙か向こうまで遠ざかっていた希海の背中が見えていた。
「あ、あの子、一体何者なの?」
息子を抱きしめて唖然とする由美の言葉に、昇は「俺にもわからん……」と頭を振った。
「ただ一つ間違い無い事は、あの子はあの人間離れした力で俺を救ってくれた……。
それに、あの姿……彼女はもしかしたら“天使”なのかもしれんな……」
昇の言葉に由美は思わず吹き出した。
「ふふっ、そうかもね。 でも――
――少しお転婆な天使だったわね♪」
――
青森県某所には“十拳湖”と呼ばれる広大な湖が存在する。
十拳湖は遙か昔に大規模な噴火が起こり、地盤が沈没した事で形成された所謂“カルデラ湖”と呼ばれる湖であった。
カルデラ噴火と呼ばれる大規模な噴火は、周辺の森林を焼き尽くしただけでなく、日本全土に火山灰を降らした。 四方八方に吹き上がる凄まじい火炎は、まるで真っ赤な八ツ又の大蛇のようであったそうだ。 噴火は数ヶ月間にも及んだそうで、このままではこの国も滅びるのではないかと危惧された。
絶望する民は神に祈りを捧げた。 この噴火を鎮め給うよう神に祈った。
すると、神は民の声に応え、”十拳剣”と呼ばれる神剣を抜いて火山の火口に放り込んだ。 火口に神々しい光を放つ刀が吸い込まれて行くと、不思議な事に恐るべき噴火が止まり、民は救われた。
その伝説から、救国の神が腰に佩いていた剣の名をとって十拳湖と呼ばれるようになった。
さて、そんな神秘的な湖の畔には数百人程度の住民しか住んでいない小さな村があった。
過疎化が進み若者など皆無であったこの村は、かつて数珠を握って昇天を望む老人達しかいなかった。 村は寂れ果て、トタン屋根の長屋が軒を連ねる侘しい廃村であり、誰もこの村に近寄る者などいなかった。
ところが、近年になって村の様相が一変した。
村の至る所に高級レストランや娯楽施設が建設され、広い庭付きの邸宅が軒を連ねるようになった。 何処からともなく“アム・セグラ”と呼ばれる外国人が流入し、高層マンションまで建設されるようになった。
仏に導かれる事を待つのみだった老人達は仏が差し伸べた慈愛の御手を払いのけ、仏像を足蹴にすると、ステーキをたらふく食い、フィットネスクラブに通いだした。
お爺さんは絹のような肌をした女達に囲まれて雄叫びを上げ、お婆さんは彫刻のような男達に囲まれて嬌声を上げた。
村中でおとぎ話のような酒池肉林を繰り広げ、現世の富を謳歌するようになった老人達。 その姿はまるで悪魔に魂を売ったかのようであった。
そう、村人達はアム・セグラに魂を売ったのである。 彼等はアム・セグラに村を明渡し、その見返りに金品を受け取った。 孫の代まで贅沢できる程の莫大な富を得て、彼等は売国の犬となったのである。
アム・セグラは何故こんな辺鄙な村に目を付けて、住民達を支配しようとしたのか?
その理由は十拳湖に巨大な原子力発電所――つまり、原発を建設しようと企んでいたからである。 彼等は原発建設工事の拠点として村を利用しようとしたのだ。
この如何わしい計画は、件の宗教法人『神光人』も関与していた。 神光人はアム・セグラ、売国の政治家達と協力してこの地に原発を建設し、国民を支配しようとしていたのである。
アム・セグラは政府の協力と、彼等が擁立した政治家達の協力を得て、着々と工事を進めていた。
そして、いよいよ工事が完了し、原発が完成した――かに思われたが、工事は完成まであと僅かという段階で急に中断してしまった。 その後はいつまで経っても工事を再開する事が出来ず、その間に神光人も何者かの手によって壊滅してしまった。
この国の民も馬鹿ではなかったのである。
原発がアム・セグラなぞの外国人の手に渡ってしまったら、この国に何が起こるのかは火を見るより明らかだ。
愛国心に溢れる者達は、売国の政治家と傍若無人なアム・セグラに憂慮して自警団を結成し、原発の建設に反対した。
反対運動は年々過激さを増してきた。 最近ではテロまで発生するようになり、アム・セグラのある一家がテロの犠牲になるという悲しい事件も起きてしまった。
そんな背景があって、現在の十拳湖周辺は物々しい雰囲気であった。 原発建設予定地の周辺は武装したアム・セグラの兵隊と自警団がにらみ合い、殺伐とした空気が張り詰めていた。
今や十拳湖周辺は常に何処かで爆発音が轟き、キノコのような火炎が吹き上がるという動物も近寄らない国内有数の紛争地帯となっていたのであった。
――
深い霧に囲まれた鬱蒼と繁る森林の奥に巨大な建造物が見える。 『八ツ又村原子力発電所建設予定地――美しい環境と希望のエネルギー――』と掲げられた看板の手前には複数の軍用車が停車しており、数人の武装した兵士が鉄柵で囲まれた門扉の前で侵入者を警戒していた。
彼等が守る門扉の目の前には舗装されている道路があった。 道路は小さな村まで続いていたが、その村まで続く道路もバリケードで封鎖されていた。
村の入口がバリケードで封鎖されている理由――それは最近、その小さな村で恐ろしい事件が起こったからであった。
その事件とは、ある民家の周辺で突然“吸血鬼”が出現し、村中を恐怖と混乱に陥れた忌まわしい事件のことであった。
吸血鬼はアム・セグラの民であろうと、日本人であろうと、目に入る人間を殺害し、血を啜り、肉を喰らった。 村に駐屯していた軍はこの恐ろしい怪物を駆除しようとしたが、凄まじい力と俊敏な動きをする吸血鬼の前に為す術無く全滅した。
アム・セグラを憎んでいた日本人達は「村を占領し、原発を造って国を支配しようと企んでいたガイジンに天罰が下ったのだ」と口々に噂し、この不幸な事件を喜んだ。
ところが「村から怪物が脱走し、東京へ向った」とのデマがSNSで流れると、一転して村を管理しているアム・セグラの管理体制を批判し、彼等に助けを求めたのである。
もちろん、アム・セグラも厄介な吸血鬼を野放しにさせておくつもりはなかった。 自分達の愛する妻や子供を殺害した怪物を許す訳には行かなかった。
小さな村はまるで戦争でも起こったかのように軍用ヘリが旋回し、戦車が走り回った。 銃弾の雨が降り注ぎ、硝煙が村の空を曇らせた。
ところが、吸血鬼はそんなアム・セグラの民をあざ笑うかのように、兵士の頭を豆腐のように握りつぶし、脳みそを食らった。 片腕一本で戦車を持ち上げ、空を旋回する軍用ヘリに投げつけた。
為す術もないアム・セグラ達は、いよいよ村を捨てて撤退するまで追い込まれた。
その矢先、不気味な姿をした少年が怪物の前に立ちはだかった。
彼は日本人であるようだったが、その姿は全身包帯で巻かれており、全く分からなかった。 まるでミイラ男のような姿をした少年は、灰色に濁った瞳を吸血鬼に向けると、あっという間に吸血鬼を叩き殺した。
その光景を目撃したアム・セグラ兵は、後に「少年が強力な爆弾を使用して怪物を攻撃した」と語ったが、恐らく疾風の早さで怪物を攻撃した少年の姿が見えなかっただけだろう。
瞬く間に吸血鬼を殺害した少年は、その遺体をある民家へと運んだ。
その民家は村人が初めに吸血鬼を目撃した場所であった。 民家には『田畑絵里』という元女優が暮らしていたが、彼女は怪物が出現してすぐに行方不明となっていた。
村人は「恐らく田畑は怪物に喰われてしまった」のだと推測し「彼女がこの忌まわしい怪物による最初の犠牲者であったのだろう」と、彼女の冥福を祈ったのであった。
田畑の自宅に吸血鬼の遺体を放置した包帯姿の少年は、アム・セグラの兵士達が見ている前で忽然と姿を消した。 まるで瞬間移動でもしたかのように……。
こうして、凄惨な事件は突然終わりを告げた。 だが、事件の異常性、世間から注目されている紛争地帯で起きたという事、田畑絵里というかつての人気女優が犠牲者であった事が世間の耳目を集め、衝撃的な大量殺人事件としてメディアを騒がせたのであった。




