救えない魂
「榊原さん、二人を外へ逃がして!」
頭部が肥大化した醜悪な怪物となった大城祐二の前に篠木希海が立ちはだかった。 彼女の背中には大城真琴と大城真裕――二人の母娘が震えながら抱き合っている。
「承知しました!」
榊原の声が母娘の耳に届いた。 すると次の瞬間、二人の身体がフワッと軽くなったと思うと、いつの間にか榊原に抱えられて一階まで降りていた事に気が付いた。
「えっ!? い、一体……?」
めまぐるしく変化する状況に頭の整理が追いつかない母娘。 まるで瞬間移動でもしたかのように、玄関前まで移動していた二人は目を白黒させていた。
「……大城さん……いや、真琴さん。 貴方の夫はもはや鬼へと変貌してしまわれた。 私達は彼を消滅させなければなりません」
榊原は冷静な声で真琴に告げる。 すると真琴は覚悟を決めていたのか、榊原の目を真っ直ぐ見つめて頷いた。 ところが、娘の真裕は榊原の言葉に驚愕し、動揺した。
「しょ、消滅……!?」
真裕はその恐ろしい言葉に身震いすると、榊原の足に縋り付いて懇願した。
「待って! イヤ、止めて! お父さんを――
――あの時の優しいお父さんに戻して下さい!」
真裕の顔は涙でグシャグシャに汚れていた。 メガネは曇り、鼻水が垂れ、嗚咽を漏らしながら優しかった父を脳裏に浮かべ、榊原に必死の願いを叫んだ。
「化物なんかにはなっていない! きっと、“呪い”さえ解けば、お父さんは元に戻るはずなんです!」
真裕は醜い怪物に変貌した父が呪いさえ解ければ自慢の父に戻るのだと主張した。 まるで忌まわしい魔女の呪いによってカエルになった王子様が、呪いを解くことによって凜々しい姿に戻る事が出来るかのように。
……だが、榊原は非情にも彼女の願いに首を振った。
「無理です」
「なっ……!? どうして!?」
榊原の足に縋り付く真裕。 榊原は膝を折って真裕に寂しそうな微笑を送ると、真裕の頬から流れる涙を拭いながら、言葉を継いだ。
「もう貴方の父は鬼となったのです。 鬼となった者は人間に戻る事は出来ません。 もはや、彼には人間だった時の記憶すらないでしょう。
残念ですが、ご理解ください。 彼を消滅させなければ貴方達だけでなく、このマンションに住む方々も危険に晒される。 もう全てが遅かったのです……」
榊原はそう言いながらも一つの疑問が頭を擡げていた。
(それにしても、鬼となる時期が早すぎる……。 余程誰かに憎悪を向けられていたのか? それとも、何者かに呪いを掛けようとして返り討ちにあったのか?)
榊原は祐二が伊奈を自分の物にしようと、彼女に呪いを掛けようとしていた事を知らなかった。
伊奈に呪いを返されなくても祐二はいずれ鬼に変貌していただろう。
だが、伊奈に呪いを返された事で予想よりはるかに早く鬼へと変貌してしまったのだ。 それは榊原にとっては予想外であり、覚えも知らずに呪いを返していた伊奈にとっても想定外の事であった。
伊奈は祐二が自分に欲望を抱いていたという事など知らなかった……というよりも、興味が無かった。 多くの男達が彼女の心を射止めようと近づいて来ていたので、祐二もその有象無象の一人だという認識しか持っていなかったのである。
「……でも! 消滅させるなんて、酷い!」
真裕はそれでも榊原に縋り付く。 榊原はその青い瞳に悲しみをたたえ、必死に懇願する真裕に同情する素振りを見せた。 ところがすぐに冷然とした態度になり、揺るぎない意志を声に乗せた残酷な言葉で、真裕の願いを再び断った。
「貴方は勘違いをされておられる。
私達はヒーローでもなければ、正義の味方でもありません。 鬼となった者を消滅させる“修羅”です。 憎悪を消し去る為には殺人も厭わない“悪人”です。
悪に慈悲など有りません。
もう、貴方のお父さんは――
――死んだのです」
榊原の青い瞳が涙に濡れる真裕の顔を穿った。
「そ、そんな……」
すると突然、二階から突然凄まじい悲鳴が響き渡った!
「――ウギャァァァ――!!」
その叫びは希海の悲鳴であった。
「な、何!? まさか、希海君が!?」
尋常では無い悲鳴を上げる希海に、榊原は「信じられない」といった様子で目を見開く。 そして、母娘を置いて、二階へと駆け上がった。
「き、消えた!?」
母娘の目には、二階へ駆け上がる榊原が忽然と消えたように見えた。
――
「の、希海君!?」
榊原が二階に上がると、階段の前で希海が泡を吹いて目を回していた。 廊下には夥しい数のゴキブリやネズミ、ムカデなどの害虫が走り回っている。
廊下の奥では頭の捻れた怪物が苦しそうに悶えていた。 それもそのはず、腐敗して膨れ上がった身体を害虫共が食い破り、外へ飛び出して来ていたからである。
「なるほど、ゴキブリを見て気絶しただけか……」
榊原は希海の頭を抱えると、瞬時にジャケットの裏から拳銃を抜いた。
『――パン、パン、パン――!!』
弾丸は的確に頭部を打ち抜き、腐敗した身体はジュクジュクした液体をぶちまけた。
「希海君、起きなさい!」
怪物が「キシャァァ!!」と二人を威嚇している間に、榊原は希海の頬をひっぱたいて彼女を起こした。
「――ウワァァ――!!」
希海は目が覚めるや絶叫を上げて榊原に抱きついた。
「希海君は下へ降りて二人を避難させてください」
ゴキブリ嫌いの希海ではここにいても邪魔なだけである。 希海は榊原に言われるまでもなくあっという間に階段を駆け下り、一階どころか玄関を飛び出して外へ避難した。
「……ハァハァ。 うぅぅ……思い出すだけで寒気がする!」
玄関前で一息ついた希海は、変わり果てた祐二の身体から害虫が飛び出して来る光景を思い出し、顔を顰めて身震いをさせていた。
彼女の横には外廊下へ突然飛びだしてきた希海に唖然とする大城母娘の姿があった。
「の、希海さん……」
真裕が狼狽している希海に声を掛けると、希海は二人が傍にいる事に気付いていなかったのか「ウァァァ! ビックリしたぁ――!」と驚いて跳ね上がり、廊下の天井に頭を打つけた。
「痛ぁぁぁ!」
踏んだり蹴ったりの希海に対し、真裕は同情する余裕も無かった。 頭を抑える希海に向かって縋り付くと「お願い! お父さんを助けて!」と希海に懇願した。
「えっ!? お父さんを……?」
眼鏡の奥に見える悲痛な瞳。 優しかった父を取り戻したいという痛切な願いが希海の胸を打つ。
「……そ、それは出来ないわ」
希海も祐二を助けたいとは思っていた。 だが、もはや彼の魂を救う事は出来ない。 希海は真裕にウソを付くわけにはいかなかった。
「……そ、そりゃ、私だって貴方のお父さんを助けたいと思っていたわ。 でも、もう貴方のお父さんは鬼に変わってしまったの。 鬼に変わった人間は、もう人間には戻れないの……。
もちろん、それは貴方達のせいじゃない。
貴方のお父さんが人を憎んだ事が原因なの。
……貴方は信じないでしょう? 『お父さんがそんな事する訳無い』って。
でも、貴方が見たお父さんの変わり果てた姿が証明しているの」
必死に希海に助けを求めた真裕に対し、希海はできる限り冷静に真実を伝えた。
「……」
真裕は言葉に窮した。 父が誰かを憎んでいた事なんて信じられなかった。 だが、榊原と希海の言う通り、その揺るぎない事実があるからこそ父は怪物となったのだ……。
もはや幼いときの優しかった父に戻る事は無い。 それはもう分かっていた。 すでにゴキブリを一心不乱に貪り食っている父の姿を目撃したその日から。
だが、もし害虫を食べていた父が偽物であったなら……。 まるで魔法のように父の姿が元に戻るのであれば……。
幼い真裕を肩に乗せる父の笑顔。
高熱を出してうなされる真裕の傍で心配そうに看病する父の優しさ。
リビングで仲睦まじく笑い合う父と母の幸せそうな姿。
そんな幸福な日々が再び蘇るのではないか?
……しかし、それは真裕の夢想に過ぎなかった。
『もう、あの頃に戻ることは出来ない……』
真裕の希望は音を立てて崩れた。 絶望が彼女の瞳を灰色に濁らせる。
「……私は……お父さんを“あんな風”にしたヤツが憎い。
私の……私のお父さんを返して……」
真裕は声を絞り出し、恨みの言葉を吐いた。
『――私の家族を返せ――!!』
家族を復讐によって殺された希海。 彼女は真裕の恨みの言葉に、愛する家族を惨殺した木佐貫蒼汰に向けた漆黒の憎悪を思い出した。
「に、憎しみが……」
あの時の憎悪に満ちた恐ろしい影が忍び寄ってくる。 真裕の身体が不気味な影を帯びて来た。
「――ダメ――!!」
希海は真裕を抱きしめた。 真裕に取り憑かんとする影から彼女を護る為に。 そして、自分に言い聞かせるように祈りを捧げた。
『されば凡て人を審く者よ、汝言い遁るる術なし、他の人を審くは、己を罪するなり』
真裕はこの祈りがどんな意味なのか良く分からなかった。 だが、希海の身体の温もりから彼女の優しさが伝わってきた。
「お願い、どうか人を憎まないで! 私達のようにはならないで!」
希海が続けた言葉は、真裕に向けた彼女の願いであった。 人を憎んで修羅に墜ちた希海や榊原はもはや罪人である。 希海は真裕に罪を背負わせたくなかった。
『愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ』
希海は再び祈りの言葉を真裕に送った。 復讐を遂げた者に残るのは、耐え難い孤独と絶望。 彼女は真裕に自分達と同じ道を歩ませたくなかったのである。
「の、希海さん……」
真裕は何故希海がここまで自分の事を心配してくれるのか分からなかった。 だが、彼女の思いは真裕の心を穿った。
真裕は希海の言葉で冷静さを取り戻し、背後で自分の背中を摩ってくれている母の事を思った。
(お母さん……。
……そうだった。
私だけじゃない、お母さんも苦しんでいたんだ)
母はもう父の事を愛していない。 自分と共に新しい生活をしようと前を向いている。
そして、希海の次の言葉――真裕にとって彼女の言葉が愛する父との別れを決意する勇気となった。
「今の苦しみより、
過去の思い出より、
未来への希望。
どんな時も、希望を忘れないで」




