憎悪の化身
大城祐二は心が躍っていた。 かねてから狙いを付けていた森中伊奈と最近二度も接触出来たからである。
伊奈には二人のマネージャーが常に付き従い、下心を持った男達を悉く遠ざけていた。 老紳士のマネージャーが不在の時は、格闘家のような逞しい男がマネージャーとなって彼女の傍を離れない。 祐二のような伊奈を狙うハイエナ達はこの忌々しい二人のマネージャーによって伊奈に近づくことが出来ず、唇を噛む思いを繰り返していたのである。
ところが、最近では伊奈が一人で行動する事が多くなった。 祐二はその隙を狙って伊奈に近づいたのであった。
祐二は昆虫食を話題にして伊奈との距離を縮める事に成功した。 それもこれも、再び頼り始めた呪術のお陰。 真片先生から教わった呪術は彼の欲望を成就させる為に無くてはならない邪悪なる奇跡であった。
「先生の呪術は、オレの窮地を救ってくれた」
奇跡の呪術は宗教法人『神光人』の信者として批判に晒されていた祐二に強靱な精神力をもたらした。 祐二の溢れんばかりのバイタリティーは度重なる誹謗中傷や批難を撥ね除け、地に墜ちた地位と名誉を再び彼の手に取り戻した。
祐二は再び表舞台で活躍するにつれ、心の余裕が生まれた。 すると、今度はその有り難い呪術を利用して伊奈を自分の物にしようと企てたのである。
彼は毎日伊奈の写真集を見ながら醜悪な行為を行なった。 彼女の艶めかしい裸体を貪り、欲望の嬌声を上げる事を夢見て自慰行為に耽った。 彼女が自分を愛し、その身体を捧げるよう邪悪な魂に祈りを捧げた。
ところが、伊奈はいつまで経っても祐二に秋波を送らなかった。
「……もっと、術を強力にしなければ……」
彼はなりふり構わず夜な夜なキッチンに忍び入っては害虫を貪った。 そして、“混沌の陥穽”たる便器の中へ吐瀉物と共に忌まわしい害虫を吐き出した。
彼は気付いていなかった。 伊奈に呪いをかければかける程、伊奈によって自分の呪いが何倍もの力となって跳ね返って来ていた事を。
そして、跳ね返ってきた呪いは彼の身体を混沌たる鬼へと急速に変貌させていた事に、彼は気付いていなかったのである。
――
「――ただいま――!」
祐二が玄関を開けると、二足の靴が三和土に置かれていた。 妻のスニーカーと娘の革靴。 二人共もう帰って来ているようだ。 もう間もなく二人が出迎えにやって来る。
……はずだったが、妻も娘もやって来ない。
(何やってんだ……)
祐二は呆れた様子で廊下に上がる。 すると、すぐに室内の違和感に気付いた。
リビングを隔てる正面の引き戸が壊されている……。
「おい、何だこれは!?」
祐二が叫ぶとリビングの奥から妻と娘が出て来た。
「何で引き戸が壊れてるんだ? それに『お帰りなさい』はどうした? ええっ!?」
祐二は妻『真琴』の鬱屈した様子を見ると『また、うつ病が発症したのか?』と溜息を漏らした。 祐二は妻と娘が“うつ病”を患っている事を知っていた。 二人を蝕んでいる病気の原因は自分が宗教団体の広告塔であったと世間からバッシングを浴びていた事から来るストレスだろうと思っていた。
さて、妻はいつもならボソボソと小さな声で「お帰りなさい……」と呟くはずだ。
「祐二さん、大事な話があるの」
ところが、妻はリビングの前ではっきりとした声で祐二に告げた。 そして、しっかりした足取りで娘と一緒に奥へ歩き出した。
(何だ、アイツの態度? 妙に落ち着いていやがる……)
「あぁ? 大事な話?」
(そんな事より、リビングの引き戸が何で壊れているんだ?)
仕事から帰ってきた夫を労いもせず、質問にも答えない妻と娘。 そんな二人に腹立たしさを覚えた祐二は二人の背中を見ながら忌々しそうに「チッ!」と舌打ちをした。
リビングのソファーに座った祐二は、妻と娘の生意気な態度に張り飛ばしたくなる衝動を抑え、タバコに火を付けた。
「……で? 大事な話ってのは一体何だ?」
タバコの煙と共に吐き出す声は、妻に対する憤懣の色が滲んでいる。
すると、妻は落ち着いた声で夫に言葉を投げた。 祐二にとって晴天の霹靂――まさに寝耳に水の衝撃的な言葉を。
「祐二さん、私は貴方と離婚をします。 真裕は私が引き取りますので、ここへハンコを押してください」
「……」
「……はっ!? ヴッッ!? ゲホッ、ゲホッ――!!」
突然の真琴の言葉に驚愕した祐二は思わず息を飲み、タバコの煙でむせ返った。
そんな駭然とした祐二を尻目に真琴はソファーのテーブルの上に離婚届を置くと、ハンコを押す部分に冷然と指を差した。
「……ゴホッ……な、何言ってんだ? お前……」
祐二は吸い始めたタバコをすぐに揉み消した。 そして、怒りも忘れて狼狽した様子で妻に問いかけた。 妻の隣に座る娘は怯えた視線を自分に向けている。 冷酷な言葉を放った妻は憎たらしいほど落ち着いており、その声に一寸の揺らぎも無かった。
「――フザケンナ――!!」
今まで暴力の衝動を抑えていた祐二が、ついに怒声を響かせた。 娘は父の瞳が獣のような灰色の瞳に変貌した事に震え、母の手を強く握りしめた。
「テメエら、誰のお陰でこんな億ションで贅沢していられると思ってるんだ! あんまりヒトを舐めてると、ブッ殺すぞ!!」
祐二はテーブルを乗り上げて妻のシャツを乱暴に掴むと、生意気な妻の頬を平手打ちしようと手を振り上げた。
「止めて――! お父さんが台所で何をしていたのか、私達は知ってるんだから!」
娘が間に入って母を護ろうとする。
「なっ、何っ!?」
祐二は娘の言葉を聞くと『ドキリ』として目を見開き、振り上げた手をそのまま止めた。
「お、オマエ達……まさか……俺の……」
祐二はイヤな予感がした。 彼は妻から手を離すと慌ててソファーを離れ、血相を変えて床を転がりながら二階へと駆け上がった。
「ま、まさか! まさか、俺の……オレの聖域をアイツら……チクショウ!」
祐二が二階へ上がると、奥に破壊された扉の破片が散らばっていた。
「ア……? アアッ!? 何だ、コレは――!?」
無残に散らばる扉の破片を見つめて立ち尽くす祐二。 その時、祐二の身体から黒煙のような靄が全身から放たれていた事に、彼自身も気が付かなかった。
「ク、ククク……アイツら……許さねぇ」
『分厚いアルミパネルで造られた扉をどうやって破壊したのか知らないが、妻と娘が扉を破壊した事に間違いない』
そう考えた祐二は妻と娘に対する激しい怒りを燃え上がらせた。
破壊された扉の前に歩み寄った祐二。 部屋の中に入ると、苦労して造り上げた二重天井は崩壊しており“聖域”へ繋がるハッチが無残にも床に転がっていた。
「――! まさか……こ、こんな事……」
この時点で祐二は観念した。 妻と娘に”禁断の儀式”を行なっていたことがバレてしまっていた事に。
だが、それよりも自分の造り上げた聖域が踏み荒らされ、穢された事に対する怒りが彼の全身を駆け巡った。
「殺してやる……。 妻も娘も……俺の願いを邪魔するヤツは皆……」
「フフフ……
アハハハ――!」
彼は開き直ったかのように不気味な笑い声を上げた。 そして、忌むべきヒミツを知ってしまった妻と娘を凶刃に掛けようと灰色の瞳を光らせたのであった。
――
二階の廊下で抱き合っている母娘。 二人の足はガクガク震えており、身体は恐怖で竦んでしまっている。
「お、お母さん……。 お父さんは……?」
祐二は妻と娘より先に二階へ上がったはずであった。 だが、二階に駆け上がっていったはずの父はそこには居なかった。
二階に居たのは得体の知れない影であった……。
「……お父さんは!?」
真裕は呆然としている母に向かって必死に叫ぶ。
『――プゥゥン――』
真琴と真裕の耳元に、蚊の羽音のような音が聞こえてくる。 寒気がするほど不快な音で、聞き続けていると耳を塞ぎたくなる。
廊下の奥にいた影は人の姿をしていた。 だが、二階へ上がってきた二人の母娘に気が付くとゆっくりと形を変えて近づいて来た。
影が近づくにつれて蚊の羽音は大きくなり、母娘の顔を恐怖で歪ませた。
「あっ……あっ……」
真琴は娘の声に応えることが出来なかった。 全身は慄然と竦み上がり、怯懦に震えて逃げる事さえ出来ない。
今起こっている事態が夢なのか現実なのかも判断出来ない。 ただ、目の前へ近づいて来る蠢く影が、醜悪な怪物に変貌していく様子を見つめているしかなかった。
『ペチャペチャ……クスクス……フフフ……
……ヒヒヒッ……』
至る所から不気味な笑い声が聞こえてくる……。 すると、影の中から祐二の姿が現れた。
「あ……悪魔……」
変わり果てた夫の姿……。 まるで雑巾を絞ったかのように捻れた顔はネズミのようだ。 醜い皺が幾重にも重なった青白い皮膚から見える不気味な瞳は魚のように死んだ目をしており、灰色に濁っている。
もはや大城祐二ではない悍ましい怪物は、二人の母娘を見てニタリと笑みを浮かべると、あり得ない角度で首を傾けた。
「真裕、見ちゃダメ!」
母に抱かれてへたり込んでいる真裕は、父の変わり果てた姿を見て失禁してしまった。
『――お父さんを救いたい――』
そう考えていたはずの娘の心には、もうすでに父を救おうという気持ちは無かった。 ただ目の前の恐ろしい怪物に怯えるだけで、この危機を誰かに救ってもらおうと必死に声を張り上げた。
「……た、助けて……」
だが、あまりの恐怖で弱々しい声しか出せず、母ですら娘が聞こえない程であった。
「真裕!!」
真琴が娘に覆い被さり、忌まわしい怪物から娘を護ろうと背中を見せた。
――その時、真琴は背中に風を感じた――
すると「ギィィッ!!」と悍ましい叫び声と共に爆音が轟き、廊下を揺らした。
「……えっ……!?」
真琴が衝撃で目を開くと、もはや夫ではない醜悪な怪物が奥の壁に衝突して倒れ伏していた。 そして、彼女の目の前にはパーカーを着た金髪の少女――篠木希海の背中があった。




