憎悪の絶叫
「うぅーん♡ 美味しぃ♡」
小さな口をモグモグと動かして目を細める森中伊奈。 手に持ったスプーンには怪しげな黒い塊が乗っている。
彼女は宝石のような赤い瞳をピンク色のハート目に変え、麗しい赤い唇を持ち上げて微笑みを浮かべながら何かを食べていた。
伊奈は都内某所にあるレストランにいた。 そのレストランはある環境保護団体が運営しているレストランであった。
環境保護団体は近年の食糧危機の懸念から“昆虫食”を推奨していた。 「昆虫食は美味しく、健康で安心! これからは肉ではなくて昆虫を食べましょう!」などというプロパガンダを積極的に展開しており、テレビ局に昆虫食専門レストランの取材を依頼していたのだ。
伊奈が美味しそうに口に入れた食べ物、それは『コオロギ』であった。
環境保護団体は昆虫食プロジェクトを成功させる為、政治家やマスコミに多額の献金を贈っていた。
人類の食糧危機を解決し、二酸化炭素の排出を抑える救世主たる昆虫食。 彼等は『地球を護る為』という高尚な使命感を胸に昆虫食の普及に邁進していたが、その手段が強引すぎた。
最近になって環境保護団体が政治家やマスコミに多額の献金を贈っている事がネット上で暴露されたのだ。 すると、昆虫食のゴリ押しは環境の為ではなく“カネの為”だったという批判的な意見が大勢を占めるようになった。 あまつさえ、見た目のグロテスクさから抵抗感があった国民は、昆虫食の推進が実は政治家や富裕層の利権であった事が分かると昆虫食に見向きもしなくなった。
そんな現状を打破すべく、環境保護団体は人気アイドルである伊奈にコオロギを食べてもらう事で昆虫食の安全性をアピールしようとした。 美味しそうにコオロギを食べる彼女を見た国民に、再び昆虫食に目を向けさせようとしたのである。
環境保護団体の狙いは間違いではなかった。
彼女が美味しそうに『パク、パク♡』とコオロギを食べまくる姿はネット上で大きな話題となった。 番組放送開始から間もなくすると、伊奈に刺激された視聴者から問い合わせの電話がひっきりなしにかかって来た。
一見大成功に見えたこの番組。 しかし、撮影が終盤に差し掛かると一つの問題に直面した。
「……あれぇ? もう昆虫無いんですかぁ?」
コオロギを食べ尽くした伊奈が、赤い瞳を潤ませて「キュン、キュン♡」言っている。
襟ぐりの広いピンク色のセーターを着崩し、シルバーのペンダントを光らせて悲しそうな顔をしているアイドル。 すると、今度は「伊奈ちゃんが可哀そうだ!」というクレームが環境保護団体へ届くようになった。
とはいえ、コオロギは全て伊奈の腹に収まった。 残っている食材は安全性が担保されていないアマゾン原産の“食用ゴキブリ”……。
「さすがにコレはヤバくないですか……?」
撮影現場の裏側ではこのゲテモノ食材をアイドルに提供するかどうかの緊急会議が行われていた。
もし、伊奈が病気にでもなったら、番組スタッフの責任問題となる。 それに番組自体は大成功であり、これ以上無理をする必要はない。 スタッフはプロデューサーに「食材が無くなった事を視聴者に詫びて、収録を終わらせましょう」と決断を迫った。
だが、プロデューサーはスタッフの意見に耳を貸さなかった。 そればかりか「まだ、食用ゴキブリという“とっておき”のゴチソウが残っている」と伊奈に伝えてしまっていたのである。
「わぁ、美味しそう! それ、頂戴!」
眼を輝かせて期待を寄せる伊奈。 困り果てたスタッフは、伊奈のマネージャー(と称する)者に助けを求めた。
「細木さん、もし未知のウィルスでも入ってたら大変な事になりますよ! 伊奈ちゃんには諦めてもらって、撮影を終わらせましょう!」
スタッフが説得している伊奈のマネージャーは細木一翔と言った。 身長190センチを超える筋骨隆々な立派な体格の持ち主。 その姿はまるで格闘家のようであった。
彼は番組収録の為なのか、ハチ切れそうな黒いスーツに細いネクタイを着用したフォーマルな格好をしていた。 だが、両耳につけたリングのピアスと茶髪のツンツン頭、しかも室内でも常にサングラスを着用しているという風貌から、彼が心優しい紳士であるとは誰も思っていなかった。
「うぅん? まぁ、お嬢様が良ければ、いいんじゃないっスか?」
細木は青い顔をするスタッフに飄々とした様子で答え、スタッフ達を失望させた。 それだけでなく、細木はプロデューサーに唆されたのか、厨房から食用ゴキブリにミニトマトを添えた皿を勝手に持ち出した。
「ちょっと、細木さん! まだ、火通してないんですから――」
勝手に皿を持ち出されて慌てて止めに入ろうとする番組スタッフ。 すると、そんな責任感の強い真面目なスタッフ達を、いい加減に花丸を添えたプロデューサーが偉そうに叱りつけた。
「馬鹿野郎! お前ら、分かってねぇな!
『美少女アイドルがウマそうにゴキブリを食う!』
それこそ視聴者が喜ぶ“映える絵”なんだよ!」
(はぁ? 何言ってんだ、このオッサン……)
番組スタッフはこの変態プロデューサーにココロの中で悪態をついた。 だが、スタッフ達の心配をよそに伊奈は目を輝かせてこの吐き気のする料理を待ち望んでいた。
「わぁ、美味しそう! 頂きまぁす♡」
誰がどう見てもマズそうな、生のゴキブリを食そうとするアイドル。 その極めて悍ましい様子を、固唾を呑んで見守るスタッフと出演者。
ほんわかした雰囲気であった番組に、突如緊張した空気が張り詰めた。 カメラの向こうのファン達は伊奈の奇行に興奮……いや、興味を持ってテレビ画面を見つめていた。
伊奈の小さな口にゴキブリの頭が入りかかる……。 スタッフは目を閉じて伊奈の無事を祈り、プロデューサーは目をひん剥いて興奮している。 いつの間にか伊奈の背後に移動していた細木は平然とした様子を崩さずに、伊奈がゴキブリを口に含む様子を見つめていた。
「――なっ!?」
すると伊奈はゴキブリを口に含んだ瞬間、突然顔つきを変えた! 彼女は酷く驚いた様子で食用ゴキブリを「ベッ――!」と吐き出すと矢庭にイスから立ち上がった。
「ど、どうされましたかっ!?」
(人気絶頂のアイドルに何かあったら、オレ達は即クビを切られる……)
愛する家族の顔を思い浮かべ、血相を変えて伊奈に駆け寄るスタッフ達。
「い、伊奈ちゃん……?」
心配するスタッフを横目に、伊奈は赤い瞳を見開き、身を震わしながら呟いた。
「……マズイわ……」
「……へっ?」
スタッフが目を丸くしていると、伊奈は背後で控えている細木を呼んだ。
「細木、木佐貫が“失敗”したわ。 アタシはアイツの所へ向かうから、お前はこの場を何とかしなさい」
「ぇえっ!? そ、それで、俺が何とか出来なかったら……?」
「コロス」
伊奈に無茶振りをされた細木は身悶えし、恍惚な表情を浮かべた。
「あぁぁぁ♡ その容赦ない言葉の暴力、堪らねぇっス♡」
どうやらこの男は、伊奈に暴言を浴びせられる事がこの上なく好きなようだ。 サングラスの下はどんな表情をしているのか見えないが、恐らく碌な顔をしていないはずだ。
伊奈はそんな“M男”の嬌声など無視し、番組を放ってそそくさと外へ飛び出した。
「伊奈ちゃん、待って――!」
番組スタッフが慌てて伊奈を呼び戻そうと、彼女の後を追った。 ところが、スタッフが外へ飛び出すと、伊奈の姿はすでに見えなかった……。
――
「……終わった……」
木佐貫蒼汰はそう呟くと空を見上げた。 真っ黒い雲からは大粒の雨が降り注いでいる。
山に囲まれたこの場所では、親子の叫びも、暴走する車の咆吼も、誰の耳にも届かなかった。
ただ、天には親子の叫びは届いていたようだった。 痛ましい家族の死を弔うかのように、嘆きの雨を親子の亡骸に降らせていた。
父と母、姉と弟。 そして、妻と娘。 愛する者達を殺された蒼汰の復讐はついに終わった。
『蒼汰君、空しいでしょう』
蒼汰の脳裏に、榊原の言葉が浮かんで来た。
「空しい? ……いや、今の俺はただ孤独なだけだ」
復讐とは誰の為でもなく、自分自身の為に行う行為である。 憎悪の炎に焼かれた苦痛を癒す為に行う赦されざる罪である。
その大罪を犯した者を待ち受けるのは孤独。 耐え難い空虚な絶望である。
「痛っ……」
傷を負った蒼汰の右手からドクドクと血が流れ落ちて来た。 骨の髄まで痛むような疼痛が蒼汰の右腕全体に響いている。
「くそっ、あのバカ猫めっ!」
蒼汰は篠木家を下見していた際、突然飛び掛かって来た黒猫に右手を噛まれた。
噛まれた右手は当初、大した傷ではなかった。 ところが、時間が経つにつれて激しい痛みが右手を襲って来た。 彼が篠木母子を車で轢き殺した時も、ハンドルを握る手が焼けるような痛みを覚え、思わず車のスピードを緩めた程であった。
「榊原さんは迎えに来ないか……」
降り注ぐ冷たい雨に孤独を感じていた蒼汰。 榊原がやって来る事を期待したが、残念ながら彼は別件で動いており、迎えに来なかった。
蒼汰は再び篠木剛の遺体を眺めた。 蒼汰の背後、アスファルトで舗装された道路の向こうには、雨に濡れた母子三人の遺体が転がっているはず。
だが、蒼汰は後ろを振り返るのが怖かった。 亡き妻『陽子』の願いを踏みにじった今の彼には、凄惨な遺体を再び見る勇気など無かったのである。
すると突如、背筋を凍らせるような凄まじい怨念の気配がした。
「――なっ――!?」
背後から途轍もない殺気を感じると同時に、右手の傷が再び耐え難い痛みを放った。
その時だった。
「――ウアアアアアアアァァァァ――!!」
蒼汰の背後から響き渡る絶叫。 その絶叫は悲しみの慟哭でもなく、悲痛な叫声でもない。 そして、苦悶に満ちた唸り声でもなかった。
その声は憎しみに満ちた怒号。 すなわち、憎悪の叫びそのものであった。
いつもお読みいただいて有り難うございます。 次回投稿は土曜日になります。
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