願い
薄暗い小屋の中、ヒンヤリとした風がガラスの割れた窓から幽霊のような霧を連れてくる。 外はもうすっかり明けているようだった。 薄らと光りが射し込む小屋の中には、両手足を拘束された一人の男が神に祈りを捧げていた。
肩まで伸びているくせ毛の黒髪はボサボサに乱れている。 ここへ連れて来られる時に髪の毛を掴まれて引っ張り回されたのであろう。 男の着ている大きく開いた白いボタンシャツに、抜けた髪の毛が何本かくっ付いていた。
シャツの間からは十字架のペンダント見える。 茶色のズボンは泥で汚れており、血のようなシミも付いていた。 靴は奪われたのか、裸足のままで足首をロープで縛られていた。
「おい、感動の再会だ」
小屋の扉が開く。 薄明かりが戸口から射し込むと、ヨレヨレの白シャツを着た男が入ってきた。 前髪で隠した灰色の瞳は歪み、何故か痛そうに顔をしかめている。 それもそのはず、包帯を巻いた彼の右手には血が滴っており、真新しかった包帯が赤く滲んでいた。
篠木希海は父『剛』と再会した。 両手足は工事用のトラロープで縛られている。 母『亜希子』と弟『剛史』も両手足を拘束されていたが、父だけ何故か拘束を解かれた。
今にも雨が降り出しそうな真っ黒い雲が太陽を覆っており、まるでこの地で死んだ亡者達の魂のような気味悪い霧が親子を包んでいた。
「パパ、パパ! うぇぇぇん――!!」
希海は父の胸で思い切り泣きじゃくった。 父は希海を左手で抱き寄せると、右手で母と弟を引き寄せた。
「亜希子、希海、剛史……怖い思いをさせてしまって済まなかった」
「パパァ、パパァ!」
剛史は母の胸から離れ、父の首にしがみついて泣き叫んだ。 父は左手で抱く希海の頭をゆっくりと撫でると、その手で剛史の背中をさすり、二人をあやした。
「亜希子……私は……」
顔を寄せる亜希子に向けて声を出す剛。 だが、その言葉は詰まり、彼は眼を伏せた。 亜希子は剛が言おうとしている言葉を分かっていたようで、眼を伏せた剛に小さく頷いて言葉を継いだ。
「……分かっています。 貴方の罪は私の罪……。 私はどんな罰を受けようと、貴方に寄り添います。 さあ、祈りましょう」
『我にとって、生来るはキリストなり、死ぬるもまた益なり。
されど、もし肉体にて生来る事我が勤労の果となるならば、いずれを選ぶべきか、我これを知らず。
我が願いは世を去りてキリストと共に居らんことなり、これ遙に勝るなり。
されど我なお肉体に留まるは汝らの為に必要なり。
我これを確信する故に、なお存えて汝等の信仰の進歩と喜悦との為に、汝等すべての者と共に留まらんことを知る』
亜希子は眼を伏せて祈らなかった。 その澄んだ空色の瞳でまっすぐ剛の顔を見つめ、聖者パウロの言葉を贈った。
「亜希子……君は……」
剛は亜希子の心を受け止めた。
そして、二人は子供達の為に祈った。
「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。
御国を来らせたまえ。
御心の天に成るごとく 地にも成させたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり。
アーメン」
希海は二人の祈りの声を聞いて父の胸から顔を離した。
「剛史……一緒に祈りましょう……」
わずか三歳の剛史は姉の言葉に頷いた。 その眼にはもう涙は無い。 ただ、父と母、そして姉が眼を伏せて祈る姿を自分も真似、眼を伏せた。
篠木一家が神に祈りを捧げている間、木佐貫蒼汰は血が滲んだ右手を忌々しそうに見つめていた。
「……クソッ! ふざけやがって!」
彼の瞳にはもはや光はなかった。 怨嗟、憤怒、怨念、瞋恚、呪詛、破壊、死……。 全ての悪しき感情が渦巻く蒼汰の心は『いかにして篠木一家を殺害するか』という血塗られた意志しかなかったのである。
ところが、ジンジンと痛む傷口にその“楽しい想像”が邪魔される……。 蒼汰はその現状に腹が立ち、不満を吐き捨てたのであった。
――
処刑方法は決まった。
両手足をロープで縛られたままの亜希子、希海、剛史の三人は、アスファルトに転がされた。 すると、蒼汰は三人の両手だけ拘束を解くと、代わりに三人の足首に鉄鎖を括り付けた。
鉄鎖はアスファルトを穿つアンカーで固定された。 アンカーを金槌で叩いて三人を大地に拘束する間、金槌を打つ蒼汰の右手は血が滴っていた。
希海の足に生暖かい血がポタポタと落ちてくる……。 希海はその不快な感触が足に伝わる度、背筋に悍ましい寒気が湧き上がるのを感じた。
「さて、くだらん祈りも済ませたようだし、後は念仏でも唱えて……」
「死ね」
身を寄せ合う三人を不快そうに眺め、吐き捨てるように暴言を吐いた蒼汰。 左に視線を向けると、アスファルトで舗装されていない土の上に大きな丸太が突き刺さっており、丸太には剛が縛り付けられていた。
「くっ、くっ、くっ……。 可愛い妻と子供達の死に様を特等席で見る事が出来るなど、幸せ者だな、キサマは……」
両手を合わせて祈ることも出来ない剛。 だが、言葉が無くても、所作がなくても、その想いは通じるはずだ。
彼は、愛する妻と子供達の無事を祈った。
悪魔のような満面の笑みを浮かべる蒼汰。 だが、剛には無慈悲な男の怨嗟に塗れた鬼の瞳など、眼中になかった。
ただ、身を寄せ合う妻と子の無事を祈り、神に魂を捧げた。
「……下らん。 興が冷めた」
「妻と子を助けて下さい」と泣き叫び、縋るように懇願する剛の姿を想像していた蒼汰。 しかし、剛はただ目を瞑り、ブツブツと神に祈りを捧げている。
蒼汰はその“スカした面”に失望した。 そして強烈な怒りと憎しみを全身から立ち上らせ、このまま剛の頭を砕き割ろうかとも思った。
だが、蒼汰は踏みとどまった。 蒼汰は不満げな顔で剛を一瞥すると、母子から数百メートル先の直線上に駐車している黒い車へと向かって行った。
――
(ママ……ママ……怖いよ。 ママ……)
(……パパ……パパ、なんで私達がこんな目に……)
(神様……どうか、私達を助けて。 私達は何か悪いことでもしたの?)
(ママ、剛史……。 このままじゃ、みんな死んじゃう……)
(……パパ、ママ。 私、死にたくない……)
(死にたくないよ、剛史……)
(神様……お願い……神様……)
(死にたくないよ!)
「――死にたくない――!!」
希海の頭の中をグルグルと駆け巡る言葉の洪水……。 今ここにある恐怖と絶望に身を震わせて母と弟と寄り添う希海。
亜希子は泣きじゃくる息子と呆然とする娘をその大きな両手で包み込み、猛然とエンジンを吹かす車を背にして子供達を護ろうとしていた。
「主よ! どうか、希海、剛史をお護り下さい!」
遠くからアスファルトを掻き鳴らすタイヤの音が聞こえる。 回転数の上がった異常なエンジン音が三人へ近づいて来た……。
その音は悪魔の咆吼か、死神の呼び声か……。
亜希子は呟いた。
「……私は、貴方と出会って幸せでした……」
そして、両手で抱きしめる二人の子供の温もりを感じながら、全ての想いを神へ向けて叫んだ。
彼女の叫びは祈りの言葉では無かった。
我が子を護ろうとする母の願い。 子供達を愛する想いが言葉となった魂の叫びであった。
「我が主よ! どうか、どうか、私の最後の願い、聞いて下さい!」
「 お願い!! 」
「――この子達を護って――!!」