購えぬ罪
『我 嘆息にて疲れたり 我 夜な夜な床をただよわせ涙をもてわが衾を浸せり 我が目愁いによりて衰え もろもろの仇ゆえに老いぬ』
『ああ主よ 何ぞ遙かに立ち給ふや 何ぞ患難のときに匿れ給ふや 悪しき人は昂ぶりて苦しむものを甚だしくせん』
『我が生命は悲しみによりて消え行き 我が年は嘆きによりて消え行けばなり 我が力は我が不義によりて衰え 我が骨は枯れ果てたり 我 もろもろの仇ゆえに誹らる』
闇の中へ溶けていく一台の車。 その車内では木佐貫蒼汰の祈りの言葉が響いていた。
都合良く詩篇の一部を抜粋し、ダビデの嘆きを語る蒼汰。 彼はその恣意的な祈りを神にぶつけると、こう呟いた。
「……届かぬ祈りは慟哭となり、やがて憎悪へ変わる……」
そして再び詩篇の一文を声に出した。
『観よ その人は邪を産まんとして苦しむ 残害を孕み虚偽を産むなり また坑を掘りて深くし 己が造れるその溝に陥れり
その残害は己が首に返り その強暴は己が頭上に下らん』
彼が何故この言葉を口にしたのかは分からない。 もしかしたら、憎悪に身を委ね、身を滅ぼした自身の行く末を暗示したのかもしれない。
――
山本剛が凄惨な事故を起こした時、彼はまだ19歳の少年であった。 大学のサークルで酒を勧められ、未成年にもかかわらずその場の雰囲気で浴びるほど酒を飲んだ。
毎日が楽しくて仕方なかった。 政府の高官であった父親は会社を経営しており、毎月使い切れない程の小遣いを息子に与えていた。 母親も息子を甘やかし、蝶よ花よと息子の言う事を何でも聞いていた。
そんな幸福の絶頂であった剛は、自らの過ちによって不幸のどん底へ叩き落とされた。
剛は酩酊状態にもかかわらず、車を運転した。 自宅へ帰る途中、目の前の交差点が赤信号である事に全く気が付かなかった。 一瞬、その瞳に赤い光が見えたが「まぁ、いいか……」とそのままアクセルを踏み続け、交差点へ進入した。
その時、彼の目の前を一台の車が横切った!
ブレーキなど間に合うはずもなかった……。 目の前に現れた車に衝突し、頭の中が真っ白になった剛。 気が付くと道路は火の海に包まれていた。
「あっ……あっ……」
衝突した車は横倒しとなり、炎に包まれている。
そして、その中で蠢く二つの影……。 苦しそうに藻掻きながら真っ黒に焼かれて行く人間の姿であった。
「アァァァ! アアッ!」
幸い彼の車は高級車であるからか、ボンネットが拉げたもののエンジンは無事であった。
(に……逃げなきゃ……)
彼の頭の中には父と母の顔しか思い浮かばなかった。 これだけの事故を起こしてしまったからには警察に逮捕される。 当然、大学は退学となり父と母に迷惑をかける。
逃げたからってその結末は分かっていたはずだ。 だが、彼はその場から逃げようとした。 そして、その時、取り返しの付かない過ちを再び犯した。
慌てて車を旋回し、炎に包まれた車から眼を背けた剛。 アクセルを思い切り踏み込み、車を急発進させたとき『……ゴリ、ゴリ、ゴリ……』という何かを引きずるような音が車の底から響いてきた。
(なんだ……? 何か引きずって……?)
不審に思った剛がバックミラーを確認すると、彼はあまりの恐怖に気を失ってしまった……。
バックミラーに映る道路には、夥しい血の跡が二本の帯びとなって剛の車の下まで繋がっていたのだ。
途中には破けた制服や靴、女性の髪飾りが落ちていた。 そして、さらに剛を慄然とさせた恐ろしい光景……恐らく5歳くらいの男の子だろうか、下半身しかない遺体が血の川に浮かんでいたのであった……。
こうして山本剛はひき逃げと飲酒運転の現行犯で逮捕された。 この凄惨な事故はマスコミでも大々的に報道され、全国では『ひき逃げ大学生』に対する批難が殺到した。
剛は警察の取り調べを受けたとき、警官から酸鼻を極めた現場の状況を聞いた。 そして、自分が犯した大罪を改めて認識し、声を上げて泣きじゃくった。
剛の車に巻き込まれた被害者は18歳の姉と5歳の弟であった。 姉は下半身を切断された弟を抱いたまま、車の底で引きずられ絶命した。
両親は剛が衝突した車の中で焼死した。 恐らく、子供の名を叫びながら絶命したのであろう、必死に手を伸ばして何かを叫ぶ姿のまま炭化してしまっていた。
駆けつけた救急隊員も、あまりの現場の悲惨さに眼を背け、涙を禁じ得なかった。 現場の誰もが被害者一家は全員死亡したであろうと諦めていた。
ところが、16歳の少年は生きていた。 彼は姉と弟に向かって猛スピードで近づく車を必死に止めようと叫んだ。 足は折れ、腕は動かずとも必死に藻掻いた。 だが、無情にも目の前にいた姉と弟は車と共に目の前から消えて行った……血の道程を残して……。
世間は惨たらしい事故を起こした山本一家を晒し上げた。 父は廃業し、母は誹謗中傷に晒されて病気になった。
父はもともと財務省へ務めていた役人であった。 人望が厚く、役人であった時の後輩が裁判官になったり、副総理になったりと出世していた。 後輩達は父の窮地に手を差し伸べて息子の罪を少しでも軽くしようと力を貸した。
その結果、剛は執行猶予付きの有罪判決となり、国民はこの非常識な不当判決に憤り、社会問題まで発展した。
剛の両親は、被害者遺族に賠償と謝罪を申し出た。 家財道具を売り払い、その全てを賠償に捧げようとしたが、被害者遺族に断られた。
世間は「山本家の息子は父親のお陰で無罪を勝ち取り、何の反省も無くのうのうと暮らしている」とウワサした。 ある時は剛が酒を飲んで雄叫びを上げている大学時代の写真を「今の山本ww」などとネットで書き込み、憎悪を煽った。 またある時は『ミーチューバー』と称する輩が山本家を訪れ、罵詈雑言を浴びせたり、家を燃やそうとしたりという過激な制裁を行った。
いずれも被害者とは関係の無い者達が山本家に対して怒り、義憤に燃え、天誅を下さんと躍起になったのである。 (彼等が山本家に向けた偽りの義憤と天誅は、ただの“暇つぶし”か“金儲け”の口実であった事は言うまでもない)
山本家に対する誹謗中傷は苛烈を極め、一家はもはや東京へ居られなくなった。 父と母は誹謗中傷に耐えかね、車内で一酸化炭素に抱かれて永遠の眠りについた。
剛に残された者はただ一人、教誨師として教会から派遣されてきた23歳の女性であった。
彼女の名は「篠木・クラウディア・亜希子」と言った。 教会が登録している青少年更生保護団体でボランティア活動をしている教誨師であり、悲惨な事故を起こした剛の更生を担当していた。
彼女の曾祖父は外国人であった。 曾祖父は宣教師として来日し、日本人女性と結婚して教会の牧師となった。 曾祖父の血を受け継いだ亜希子は美しい金髪と空のように澄んだ瞳を持っていたが、日本で生まれた事もあって日本語の方が英語より堪能であった。
剛は亜希子の教えを忠実に守り、ただひたすら被害者への謝罪、神への謝罪と赦しの祈りを繰り返した。 そのひたむきな姿に亜希子はやがて剛を愛するようになり、二人は密かに契りを結んだ。
二人が結婚をしてすぐ、亜希子の父が亡くなった。 剛は教会の牧師が不在となった事によって篠木姓を名乗り、義父の教会を継ぐ事となった。
すでに東京に居られなくなり某県で身を潜めるように暮らしていた二人。 義父の教会を継ぐことが転機になり、九州へ移転する事となったのである。
剛は実父が残していった財産を全て教会へ寄付した。 そして、亜希子と共にバラックのような古屋に住み、そこで希海と剛史という二人の子供を授かった。
剛と亜希子は、今ある“日常”は全て自分が殺めた被害者の贖罪から得られると考えていた。 二人は犠牲となった被害者の冥福を祈り、彼等の幸福を奪った罪を神に告白した。 そして、神に赦しを請い、現在の幸福に感謝したのであった。
――
山本剛に家族を殺された木佐貫蒼汰。 一度は剛の祈りのお陰だったのか、蒼汰にも“いつもの日常”が再び訪れた。 しかし、その日常も長くは続かず、彼は未来永劫の耐え難い憎しみの炎に身を焼かれた。
その結果、彼は復讐を求める修羅となった。
修羅は妻と娘を殺した男の命を奪い、その男を愛する父親までも殺した。 だが、その憎悪の炎は消える事無く、さらに燃え上がった。 その血をどす黒い復讐の血に変えたまま、父と母、姉と弟を殺した男とその家族を惨殺する事を誓った。
もはや、蒼汰には神の祈りなど聞こえなかった。
剛は貧困家庭にお菓子を配るボランティアの帰り道、蒼汰に拉致された。 その時、剛は目の前に現れた男が木佐貫蒼汰であるとすぐに気が付いた。
取り返しの付かない大きな過ち……。 人の幸福を奪い、慟哭の絶望へと転げ落とした赦される事のない罪。
『せめて妻と子供達だけは、この大罪を背負わせたくない』
「ああ、貴方は私をお赦しにはならないのですね……」
憎悪の炎を宿す蒼汰の黒い瞳……。 その瞳を見たとき、剛は両手を握りしめ祈った。
「天にまします我らの父よ、願がわくは御名を崇めさせたまえ。
御国を来らせ給え。
御心の天に成るごとく 地にも成させ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪をおかす者を 我らが許すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり。
アーメン」