祈り
「どちら様……でしょうか?」
緊張した面持ちで玄関へ向けて問いかける希海の母『亜希子』。 すると、固唾を呑んで見守っている希海の耳に抑揚の無い男の声が聞こえてきた。
「夜分遅く申し訳ございません……。 私は剛さんの後輩でシマザキという者です」
父の後輩と名乗った男は、返事を待たずに驚愕の言葉を続けた。
「それが大変な事になりまして……。 剛さんが車に轢かれ、意識不明で病院に搬送されたのです」
「――えっ――!?」
亜希子が慌てて扉を開けると、そこには痩せこけた男が下を向いて立っていた……。
大雨の中、傘も差さずにずぶ濡れのまま玄関に立ち尽くしている男。 白いワイシャツの裾を灰色のスラックスから出しており、右掌には包帯が巻かれている。 額を隠したずぶ濡れの薄気味悪い黒い髪は無造作に伸びており、前髪は鼻の辺りまで掛かっていた。
「あ、あの……主人が……?」
あまりにも不気味な姿に言葉を詰まらせる亜希子。 この時、亜希子は慌てて玄関扉を開けてしまった事に後悔していた。 男は亜希子の心の内を知ってか知らでか、顔を上げるとすぐに剛に会いに行くよう促した。
「ええ、今、市外の病院に運ばれております。 お子様と一緒に行ってあげてください」
希海は母の背後から男の瞳を一瞥した。 男の灰色に濁った瞳……。 その瞳を見た希海は男が嘘を言っていると確信した。
「……ママ……ダメ……」
希海は弟の剛史を抱きしめながら、亜希子に付いていかないように訴えた。
希海には見えていた。 瞳の奥に身震いする程の激しい炎が燃え上がっている様子が……。
そして、男の手に巻かれた包帯……。 男のヨレヨレなシャツよりも白く、真新しい包帯は最近巻かれたもののようだった。 希海は何故かその包帯を見ると飼い猫のミイナの姿を思い出し「逃げなきゃ……」という危機感に襲われた。
亜希子は小さく呟く希海に同意するように頷きながら、男と子供達との距離を取ろうと男の前へ歩み寄った。
「そ、それはご親切に有り難うございます……。 それではタクシーを呼びますので、しばしお待ちを――」
亜希子はそう言うと懐からスマホを取り出した。 警察を呼ぶ為に……。 だが、男は「その必要はありません。 私の車で送って差し上げましょう」と薄気味悪く微笑んで、スマホを持つ亜希子の手をそっと制止した。
「マ、ママ!?」
弟を離すまいと抱きしめながら後ずさりする希海。 亜希子はスマホを左手に持ちながら、右手を後ろにして希海に居間へ逃げるよう促していたのである。
「それでは私だけ同行しましょう。 子供は明日学校が早いので、一緒には行けません」
――亜希子は思った――
(男の言葉に乗ってうっかり玄関扉を開けてしまったのは私の責任。 もしかしたら、本当に剛さんが事故に遭ったのかも知れない。 でも、もしこの男の言葉が嘘ならば、子供達を危険に晒す事は出来ない。
……私の命に代えても、この子達を護らなければ……)
男は亜希子の言葉を聞くと、にわかに顔つきが変わった……。 先ほどまで微笑を浮かべていた男は、人形のような無表情になった。 そして、まるで呪いの言葉でも吐くような、地から沸き立つ恐ろしい声を亜希子にぶつけた。
「アナタ……ワタシノ事、信用シテイマセンデショ……」
「――希海、剛史を連れて逃げなさい――!!」
手を広げ、男を奥に行かせないようする亜希子。 しかし、目の前にいた男は忽然と消えていた!
「えっ!?」
『……ドサッ……ドサッ……』
亜希子が驚愕の声を上げるや否や、彼女の背後から何かが倒れる物音が聞こえてきた……。
「なっ!?」
亜希子が慌てて後ろを振り返ると、そこには床に倒れ伏して気を失っている子供達の姿があった。 そして、二人の後ろで異常な笑みを浮かべる男が、ずぶ濡れの髪から雨を滴らせ、ユラユラと立っていた。
「ご主人はご家族全員をお待ちになっているのです。 お子様も一緒に連れて行かないと、ご主人が可哀想でしょう……?」
そう言って口元に笑みを浮かべている男……。 だが、その灰色の瞳には生気が無く、瞬きもせずに亜希子の顔をジッと見つめていた。
「あ……貴方は……一体……?」
亜希子はこの男の瞳を見て、息が詰まるほどの恐怖に襲われた。
(……怨念……)
そんな言葉が亜希子の脳裏によぎる程、男の目には強い憎しみが宿っていたのであった。
(主よ……どうか……どうか、私達をお守りください……)
――
希海は男が運転する車の助手席に縛られていた。 母と弟は後部座席に座っている……。
希海が車の中で目覚めた時、希海は弟と一緒に後部座席にいた。 ところが、弟が母を求めて泣き叫び、助手席にいる母が「息子と一緒に居させて欲しい」と男に懇願したのである。
男は母の願いを受け入れる代わりに、希海を助手席に縛り付けた。 そして、母と弟の拘束を解いてあげた。
「もし、キサマが変な行動をするようなら、娘を殺す……」
男はそう言って、自由になった母に釘を刺した。 母は怯えて泣きじゃくる弟を優しく抱きしめ、希海に「神に祈りましょう……」と一言告げると、両手を握りしめ祈りを捧げた。
「邪曲なる者の途に入ること勿れ 悪者の路をあゆむこと勿れ これを避けよ 過ぐること勿れ 離れて去れ」
「義者の途は旭日のごとし いよいよ光輝をまして昼の正午にいたる 悪者の途は幽冥のごとし 彼らはその躓くもののなになるを知らざるなり」
母が祈りを捧げていると、男がボソッと口を挟んだ。
「……“箴言”か……」
男の声に母は祈りを止めて顔を上げた。
「貴方はご存じなんですか?」
「……ああ、あまり聖書は読まんがな。 詩篇と箴言は読んだ」
祈りが途切れた事で、今度は希海が祈り言葉を口に乗せた。 それは、父と母が毎朝神に捧げる祈りの言葉であった。
「全能の天主 終生童貞なる聖マリア 大天使聖ミカエル 洗者聖ヨハネ 使徒聖ペトロ 聖パウロ 及び諸聖人に向かいて 我は思いと言葉と行いとをもって 多くの罪を犯せしことを告白し奉る
これ我が過ちなり 我が過ちなり 我がいと大いなる過ちなり これによりて 終生童貞なる聖マリア 大天使聖ミカエル 洗者聖ヨハネ 使徒聖ペトロ 聖パウロ および諸聖人に 我がために我らの主なる天主に 祈られんことを願い奉る
願わくは全能の天主 我らを憐れみ 我らの罪を赦して終りなき命へ導き給え
アーメン
願わくは全能にして慈悲なる主 我らを憐れみ 罪の赦しを与え給え
アーメン」
男はハンドルを握りながら、希海の祈りを黙って聞いていた。
車は何処へ向かっているのか分からない。 フロントガラスの向こうには吸い込まれるような暗闇が広がっている。 街灯の光が前から後ろへ流れていく道路を過ぎて、ヘッドライトの明かりだけが路を照らす闇の中へ誘われていく希海。
希海はその闇を振り払わんとひたすら祈りを捧げた。
「ああ願わくは全能の主 御血の功徳によりて我らの罪を赦し給え 聖寵の助けをもつて今より心を改め 再び罪を犯して 御心に背くことあるまじと決心し奉る
大いなる我らの過ちを赦し給う御霊 彼がため彼らの主なる天主に 祈られんことを願い奉る」
希海の祈りを聞きながら、男は首を傾げた。
(……こんな祈り、聞いたことがない……)
すると、男は希海の次の言葉に思わず吃驚し、目を見開いた。
「そして
木佐貫蒼介
木佐貫茜
木佐貫綾音
木佐貫蒼汰
木佐貫圭介
大いなる慈悲をもって 我らの罪を赦し給え」
その瞬間、男は突然ブレーキを踏んだ!
『――キィィィ――!!』
「キャァァ!!」
悲鳴のようなタイヤの音を掻き鳴らしながら横滑りする黒い車。 助手席の希海は身体を屈ませ、後部座席の母は弟を護るように抱きしめて身を伏せた。
回転しながら道路の中央に停車した車……。 希海は何が起こったのか分からず、呆然と男の横顔を見つめた。
「……おい、今の祈りは一体何だ?」
男は怒気を含んだ問いを希海に投げつけた。
「……パ……パパとママが、いつもお祈りしている言葉……」
「――そんな祈りあるかっ――!!」
車の窓ガラスを震わせ、闇夜の天を穿つ程の怒声を上げた男……。 希海はあまりの怒声に恐怖で身を竦ませ、声を出すことが出来なかった。 後部座席の母は恐ろしい叫び声に泣きじゃくる弟を抱きしめ、弟の金色の髪を優しく頬で撫でていた。
「おい、ガキ! デタラメな言葉吐きやがって、何が“祈り”だ! これ以上、ふざけた事口走ると、この場でブッ殺すぞ!
いいか、このクソガキ!」
激昂する男はついに希海の美しい髪を掴み、希海の顔にその恐ろしい闇の瞳を近づけた。 すると、希海は父と母の祈りがデタラメだと指摘された事に腹を立てたのか、先程まで怯えていた身体を奮い立たせた。
希海は暗黒の炎を宿す男の瞳を、その銀色の瞳から放つ聖なる光で貫かんと男を睨み付けた。
「デタラメじゃない! パパとママの祈りがデタラメな訳無い!」
「ぐっ……!? こ、このガキ!」
男は何故か希海の瞳に一瞬怯えたような表情を見せた。 ところが、すぐにその憎しみの瞳を希海に向けて、狂気の拳を振り上げようとした!
「キャァァ! パパ、ママ――!」
希海が思わず叫び、男から目を逸らした。 すると、後部座席から母の叫びがこだました。
「――祈りは言葉ではありません――!!」
男は亜希子の声に『ビクッ』と全身を強張らして反応すると、希海に向かって振り上げた拳を下ろした。
男がゆっくりと亜希子の顔へ視線を移す……。 亜希子は男の顔を真っ直ぐ見つめていた。
亜希子の瞳には恨みも、恐怖も、怒りもなかった。 彼女の全身は男が見た事もない慈愛の光に覆われていた。
「祈りは言葉ではありません。 祈りは想い……。 想いが祈りとなり、言葉を紡ぐのです。
貴方ならお分かり頂けるはず……木佐貫蒼汰さん……」