闇への誘い
篠木希海は小学4年生になる9歳の女の子である。 パッチリした銀色の杏眼を細め、上唇の少し厚い天使のような口角を持ち上げる笑顔が愛らしい。 それでいて、肩までかかる金色の髪を靡かせる姿は美しく、彼女は近所の皆の人気者であった。
希海の家庭は俗にいう貧困家庭であった。 使い古しのキュロットスカートに、古着のパーカーを着ている外見は見るからに裕福ではない。 それでも、彼女の持ち前の明るさは周囲の者を幸福にし、希海自身も父と母、そして可愛い弟と猫のいる今の生活に満足していた。
だが先日、そんな元気一杯の希海が初めて塞ぎ込んだ事件があった。
彼女が学校から帰ると、父と母、そして弟が涙ながらに玄関まで出迎えた。
「な、何……? みんな揃って、何かあったの!?」
家族揃って眼に涙を浮かべる様子に、希海は不安の色を隠せなかった。 すると、父が肩を落として希海に言った。
「希海……ミイナが車に轢かれてしまって、虹の橋を渡ってしまったんだ……」
なんと飼い猫のミイナが、車に撥ねられて死んでしまったのだ。
「そ、そんな……ウソ……」
希海は慌てて玄関を駆け上がり居間へ飛び込むと、飼い猫の名を叫んだ。
「ミイナ! ミイナ!」
いつもなら「ンニャァ!」と愛嬌のある鳴き声で希海にすり寄ってくるミイナの姿は無い……。 代わりに、ミイナがいつも寝ていたお気に入りの座布団の上に、色取り取りの花が入っている小箱が置かれていた。
「ミ、ミイナ……そんな……どうして?」
小箱の中には花びらの絨毯に横たわっている黒猫の姿があった……。
「ウ……ウヮアアン――!」
希海は冷たくなったミイナを抱きしめて号泣した。 3歳になる弟『剛史』も姉と一緒に声を上げて泣いていた。
黒猫のミイナは希海が下校途中で拾った猫であった。 緑色の瞳を希海に向け、助けを求めて『ミィ、ミィ』と鳴いて震える姿に、希海は後先も考えず猫を抱きかかえ自宅へ帰った。
父と母は猫を抱えて帰ってきた娘を叱らなかった。 だが、もう一度同じ事があったら、猫を引き取る前に必ず相談するよう窘められた。
ミイナは篠木家の家族となった。 真冬の寒空の下で捨てられた辛い思い出があるのだろうか、ミイナは外に出る事もなく家の中で家族と共に幸せな日々を過ごしていた。
ところが昨日の夜、突如として異変が起こった。
いつものようにお気に入りの座布団で寝ていたミイナが突然飛び上がり、毛を逆立てて興奮し始めたのである。
「ミイナ!? ど、どうしたの!?」
いままでミイナがそんな行動を取る事など一度もなかった。 家族の心配をよそに、ミイナは『フゥゥ――!!』と誰かを威嚇するように玄関を見つめていた。
「……玄関先に誰かいるのか?」
父は不審に思い玄関へ向かっていく……。 父の背後には剛史を抱きかかえている母と、母の服を掴む希海がいる。 二人は不安げな表情で、父の背中を見つめていた。
『――ガラッ――』
父が玄関の引戸を開けると、そこには誰もいなかった……。
「……誰かいるのですか?」
父が暗闇に向かって声を掛けたその時だった。
希海の足元にいたミイナが突然走り出した!
「あっ、ミイナ――!?」
母と希海が呆気に取られる中、ミイナは開け放たれた玄関から外へ飛び出てしまった!
「ミイナ、待ちなさい!」
父が慌ててミイナを追いかけたが、ミイナは何かを追いかけるようにあっという間に暗闇の中へ消えていった……。
結局、夜が明けてもミイナは戻ってこなかった。 近所の住民の話では、ミイナが闇に溶けて行った後、けたたましい猫の鳴き声が聞こえて来たとの事だった。
ミイナの変わり果てた姿を発見したのは父であった。 グッタリと口から血を吐き出して倒れていたミイナを抱きかかえ、すぐに動物病院に連れて行ったがもはやミイナの魂は肉体から離れてしまっていた。
その時、父は獣医師からミイナの死因を聞かされた。
「凄まじい衝撃によって内臓破裂した事が原因です」
凄まじい衝撃……。 それは、人間が暴力を振るうといった程度ではなく、もっと苛烈な衝撃。 つまり、獣医師はミイナが車かバイクに跳ね飛ばされた可能性があるという推測を父に告げたのであった。
ミイナは瞳をカッと見開いたまま死んでいた。 まるで恐ろしい何かを見たような恐怖に歪んだ痛ましい表情……。 だが、その亡骸を希海が抱きしめ頬ずりすると、不思議なことにミイナの表情はみるみる安らかな寝顔へ変わっていった。
「希海、ミイナは貴方と最後の別れがしたかったみたい。 貴方がこうして抱きしめた時、この子はすっかり安心していつもの寝顔に戻ったわ」
母はそう言って彼女の肩を抱き寄せた。 金色に輝く母の髪が希海の頬に優しく触れる。 父はその後ろで希海の弟を抱きかかえ、悲しみに暮れる息子の頭を優しく撫でてあやしていた。
「神様、今までミイナを護ってくれてありがとうございました。 ミイナ……今までありがとう……。 私、ミイナと一緒だった事、絶対忘れないよ。 忘れないから……」
家族でお別れのお祈りをしている時、希海の耳にはミイナの鳴き声が聞こえてきた。
『――ミャァ――』
その鳴き声は愛する家族に別れを告げる、穏やかな声であった。
――
希海の父は教会の牧師であった。 母方の祖父が牧師をしており、祖父が亡くなった為にその跡を継いだのだ。
父はもともと東京で別の仕事をしていたそうだ。 シスターであった母と何かの縁で結婚して母の実家がある九州へ引っ越し、教会の牧師になったとの事であった。
父の名は『剛』、母の名は『亜希子』と言った。 曾祖父が外国人であった亜希子は、金色の髪と空色の瞳を持つクォーターであった。 希海の金色の髪と銀色の瞳は、母の血を受け継いだ影響によるものだったのだ。
父と母は前日の夜がどんなに遅くなろうとも毎朝5時には必ず起床し、6時には礼拝を行っていた。 日曜日には牧師として祈祷会を行い、信者達と神に祈りを捧げていた。 希海と弟の剛史も祈祷会に参加していたが、希海にとって厳かな雰囲気で呪文のような祈祷を口ずさむ祈祷会は退屈でしょうがなかった。 時々、祈祷中に剛史がグズって泣き出すと、剛史をあやすフリをして教会から抜け出した。 そして「ラッキー♪」とばかりに祈祷中に弟と一緒に教会の庭を駆け回り、その度に父に窘められていた。
父方の祖父母は父が九州へ来る前に亡くなったそうだ。 祖父は元政府の役人であったそうで、父は若い時かなり裕福であったそうだ。 ところが、母に恋をして結婚をした後、祖父母の財産を全て教会に寄付し、このトタン屋根の木造平屋で住むようになった。
希海が憧れているアイドル『森中伊奈』が着るような可愛らしい服も買うことが出来ず、いつも同じ格好であった希海にとって、もう少しお金があればどれだけ幸せだっただろう……。 近所の皆はそんな貧困家庭で育つ希海を不憫に思っていたが、希海自身は父と母、弟と愛猫が居れば、それで満足であった。
毎日、朝早く礼拝をする両親。 希海は夢うつつで両親の口から紡がれる言葉を聞いていた。 その時、希海にはいつも疑問に思うことがあった。
両親は祈りの言葉を神に捧げた後、必ず何人かの名前を口走った。
「誰だろう……?」
希海はいつもその名を気にしていた。 希海はいつか両親にその名が誰なのか聞いてみようと思っていた。
――
その日の夜は、雨が降っていた。 血のような不気味な夕日が沈んだあとに降り出した雨は雷を轟かし、弟の剛史はその不気味な轟音に怯えて母の傍から離れなかった。
希海は二人の近くで寝っ転がって、森中伊奈のグラビア雑誌を見ていた。
「はぁ、私も伊奈ちゃんみたいになりたいなぁ」
眩いばかりの笑顔を見せて、小悪魔のような衣装を着ている伊奈。 宝石のような赤い瞳はカラーコンタクトでも入れているのだろうか?
希海は銀色に輝く自分の瞳が好きではなかった。 友達にも大人にも銀色の瞳を持つ者は誰もいない……。 皆は「美しい瞳」だと言ってくれるのだが、それは単なる“お世辞”であって本当は可笑しいと思っているに違いない。 そう思っていた希海は、どうせ同じ異質な瞳なら伊奈のような美しく妖艶な瞳が良いと憧れた。
父は貧困家庭にお菓子を配るボランティアに参加しており、不在であった。 雨樋から流れる雨の滴がポツポツと寂しげな音を奏でている。 時間はもう21時を過ぎた頃だ……。 伊奈の写真集も見飽きた希海は、いつまで経っても帰ってこない父を思い、何だか急に不安になった。
「……ねぇ、ママ? パパ、遅いね……」
寝転んでいた身体を起こし、剛史の頭を撫でて子守歌を口ずさんでいる母に目を遣る希海。 金色の美しい髪を靡かせた青い瞳の母の姿は聖母と見間違うほど美しく、可憐であった。
「もう帰ってくる頃だと思うけど……。 この雨で道路が混んでいるのかしら。 貴方はパパが帰ってくるまで待っていなくても良いから、お祈りをして先にお眠りなさい」
「むぅ……。 そんな事言われても、パパと今日約束をしてるんだもん!」
「約束? あら、何かしら?」
「ほらっ、学校の自由研究よ! ママにも言ったじゃない!」
自由研究と言葉を変えても、言ってしまえば学校の宿題である。 希海は父に宿題を手伝ってくれるようにお願いしていたのである。
「あら、ダメよ。 宿題は自分でやらないと。 貴方の努力している姿は神様がちゃんと見ていらっしゃるんですから」
母が希海を窘めると、母の膝で甘えていた剛史が「ボクがお姉ぇの宿題手伝ってあげる」と嘯いた。
「ダメよ、アータじゃ。 ノートに落書きされるだけだわ」
希海はそう言って弟を突き放すと、剛史は「ぶぅ……」と不満を漏らし、再び母の胸で甘えた。
「フフフ、希海、そんな言葉遣いをしてはいけませんよ」
――不安に包まれた家族に、再び笑い声が響いた――
ところが、そんな家族を再び不安に駆り立てる音が玄関先から響いてきた。
『……コン……コン……』
それは何者かが玄関の扉をノックする、不気味な音であった。