切れた糸
「――あたぁ!」
カンフー映画よろしく雄叫びを上げた東郷司。 彼の繰り出した遅鈍な拳が木佐貫蒼汰の顔へゆっくりと迫り来る。
蒼汰はその遅すぎる拳が自分の顔に着弾する間、イライラした様子で司の顔を睨み付けていた。
『 ペチン 』
ようやく司の拳が当たると、蒼汰はコンクリの床に倒れ込んだ……。
「ヒャッハー♪ このクズが! この俺に丸腰で勝とうなんて調子に乗りやがって!」
自慢のメガトンパンチでバッタリ倒れた蒼汰を見て、気を良くした司。 このお調子者の野豚は、大の字に倒れて天井を見つめる蒼汰の不敵な笑みにも気付かずに、蒼汰の身体を何度も足で踏み付けた。
「この、コノ、死ね、死ね! このクズがぁぁ!」
太鼓腹を揺らしながらひたすら蒼汰を足蹴にする司。 だが、運動不足の肥満体には過剰な運動だったようで、すぐに息を切らし始めた。
「ゼェ、ゼェ……もう、いいだろう……」
司は肩で息を切らしながら、父親の方に目を遣った。 父親が両手足を縛り付けられて転がっている事に同情する風もない。
(俺が親父を助ければ、親父はもう俺に何も言えなくなる)
そんな邪な期待を寄せて、ニヤニヤしながら父親を助けようと足を踏み出した。
「――何っ!?」
ところが、司は足首を蒼汰に掴まれ動きを止められた。 散々足蹴にされた蒼汰は全くの無傷であり、足首を掴んだまま司に語りかけた。
「一つだけ聞きたい」
平然とした様子の蒼汰が、狼狽える司に向かって声を出した。
「な、何だ、テメェ! 死にてぇのかぁ!?」
蒼汰の言葉にいきり立ち、再び彼の腹を蹴ろうとするが、掴まれた足首はビクリとも動かない。
蒼汰は面食らっている司をそのままに、質問を続けた。
「キサマが車で跳ね飛ばした親子……。 その親子の事をキサマは覚えているか?」
「えっ……?
……はっ!? ……テ、テメェ、もしかして……」
魚よりも小さい脳を持つ司でも、蒼汰の言葉を聞いてようやく彼が何者なのか思い出したらしい。
「テメェは……あの女とガキの……」
司はそう言うと一瞬言葉を詰まらせた。 しかし、すぐに非情な笑みを浮かべると、自分がこの場に連れて来られた訳をようやく理解した。
「へっ……へっ、へっ、へっ……。 成る程……。 テメェ、あの女とガキを跳ね飛ばされた復讐をこの俺にしようと……」
司が憎らしい笑みを蒼汰に向けていると、両手両足を縛られた左ノ吉が「バカモン! これ以上、何も言うな!!」と喚き散らし、これ以上蒼汰を挑発しないように窘めた。
ところが、司はそんな息子思いの父親の心情など理解する訳も無く、人道にもとる悪魔の暴言を蒼汰に投げつけた。
「――ああ、覚えてるさ! あのクソ女とションベンガキの汚ねぇ死に顔はなぁ!
アイツらのせいで俺は会社をクビになり、ブタ箱にぶち込まれたんだぜ! あんな下民共を轢き殺しただけで……。 しかも、散々可愛がってやった美雪とつくしは、俺を裏切ってとっとと実家へ逃げやがった!
あのクズ共は俺を不幸のどん底に叩き落としたんだ! 底辺のくせにふざけやがってよぉ! 上級国民である俺様を不幸に……。 どうせだったら、仲良くテメェも俺の車に跳ねられてりゃ良かったんだ、この下等生物共が!」
あまりにも身勝手で理不尽な罵詈雑言を浴びせ、自分の不幸を訴える司。
(もう、これ以上聞かなくても良いだろう……)
蒼汰の灰色の瞳は真っ黒に染まっていた。 薄暗い廃倉庫の中に漆黒の闇が蠢いている。 それは、蒼汰が呼んだ憎悪の影……。 怒りを越えた憎しみの化身であった。
「――痛っ!? テメェ、何を――!」
掴まれた足首に激痛を感じた司。
「は、離せ――! ギャ、ギャァァァ!!」
蒼汰は司の足首を掴んだまま立ち上がった。 足首を掴まれて逆さ吊りになった司はけたたましい絶叫を上げた。
――
埃の舞う廃倉庫の中。 闇の中で車のヘッドライドだけがコンクリの壁を照らしている。
運転席には老人が縛り付けられていた。 フロントガラス越しに見るボンヤリと光る壁には、顔をブクブクに腫れ上がらせた愛息がぐったりした様子で磔にされていた……。
「東郷センセイ、済まなかったなぁ。 キミの可愛い息子さんがブタのように『ビービー』ウルサイものだから、少し大人しくしてもらった。
しかし、安心したまえ。 まだ宴は始まったばかりだ。
これから“楽しいコト”をしようと思うから、キミも存分に宴を楽しみたまえ」
運転席のドアに肩肘を付きながら不気味な笑顔を浮かべた蒼汰。 目がくぼみ、痩せこけた頬に刻まれた悪魔のような蒼汰の笑みに、左ノ吉は自分達の破滅的な未来を予感した。
だが、左ノ吉は諦めようとはしなかった。
「ワシらが悪かった! 奥様とお子様を亡くしてしまった君の気持ちは充分に理解してておる! 本当に、本当に申し訳なかったと心から反省しておる!
ワシだって、あの事故の事は片時も忘れた事は無い! 痛ましい事故を起こしてしまった不肖の息子を産んだことに後悔して、悔やんで、悔やんで……君の奥様、お子様のご冥福を毎日祈っていたんじゃ。
もし、息子が君に暴言を吐いた事を恨んでいるのなら、ワシが息子の代わりに謝罪しよう、申し訳なかった! そして、息子はワシが責任を持って管理するから、どうか息子の暴言は水に流して許して戴きたい!
息子は取り返しの付かない事をしてしまった事で混乱していたのじゃ。 どうか許して欲しい。 息子は、本当は心優しい良い子なんじゃ。 息子はこの痛ましい事故を起こしてしまった事を心から反省しているんじゃ。 ただ、頭が悪いから……いや、頭が混乱して君に酷い暴言を吐いてしまった……。
本当じゃ! 毎日、ワシと共に君の奥様とお子様の為に祈りを捧げ、贖罪の日々を送っておるんじゃ!」
よくもまあ、ペラペラと誠意の無い謝罪の言葉が湯水のように湧き上がってくるものだと、蒼汰は感心した。 政治家は口先だけで生きているという証左だろう。
ボーッと光るヘッドライトに蒼汰の顔が浮かび上がる……。
(笑顔が消えた?)
蒼汰はまるで能面のような感情の無い顔を左ノ吉に晒していた。 左ノ吉はその顔を見てさらに恐怖を感じ、今度は蒼汰を懐柔しようとあらゆる甘言を弄した。
「そ、それに……これから先、君の生活をワシが保証して差し上げよう! 君は死ぬまで何不自由なく暮らしていく事が出来るんじゃ!
お、奥様とお子様の為に立派な墓も造ろう!
君が良ければ、新しい妻も紹介しよう!
カネもオンナも権力も、全部君の物じゃ!
だから、だからお願いじゃ! 息子の命だけは助けてくれ、頼む――!」
あらゆる巧言を並べて命だけは助けて貰おうと懇願する左ノ吉。 だが、言葉を出す度にその意地汚い本性が露呈した。 口から出る言葉は下賎な欲望を得られる事だけを唆し、強調する卑劣な甘言。 この言葉だけでも反省の色が無いことは明白であり、先ほどの謝罪の言葉など薄っぺらい弥縫策であった事を証明するものであった。
それに、左ノ吉は気付いていなかった。 いくら彼が甘言蜜語や巧言令色を並べ立てたところで、蒼汰の心を揺さぶる事など出来ないことに。
左ノ吉は自分の全身から赤い光が放たれている事を知らなかったのだ。 可愛い息子が愚民の親子を轢き殺しただけで理不尽にも刑務所で過ごすことになったという怒りが、蒼汰に向かって放たれていた事を……。
「ほぅ、それは殊勝な心掛けだ。 それでは、特別に“キミの命”を助けてあげようかな?」
ヘッドライトの光に浮かぶ蒼汰は、不気味な程に満面の笑みを浮かべていた。 左ノ吉の甘言が効いたのだろうか? 蒼汰の背後には可愛い息子が無残にも磔にされ、気を失っている。
「では、息子を離してやってくれ! そうすれば、君の願いは何でもワシが――!」
左ノ吉は焦燥に駆られていたのか、蒼汰の言葉をよく理解していなかった。 蒼汰は『キミの命を助けようか?』と言っただけである。 左ノ吉の命は助ける余地はあっても、息子の司の命を助けようとは一言も言っていない。
「ハッ、ハッ、ハッ――!」
蒼汰は左ノ吉が自分の言葉を勘違いしていると気付いた。 すると、子犬のようなつぶらな瞳を輝かせて希望を膨らませる老人が酷く滑稽に思い、久しぶりに笑い声を上げた。
「……ふふ……良いだろう。 但し、キサマの息子が“贖い”に耐え切れればな」
「えっ――!? 今、なんと……?」
ヘッドライトに揺らめく蒼汰の口から出た言葉。 その言葉を左ノ吉は上手く聞き取れなかった。 老いぼれた身体に全神経を集中させて蒼汰の言葉を聞き漏らすまいとしていた左ノ吉であったが、息子が助かる可能性を感じて気が抜けたせいもあったのだろう。
蒼汰は左ノ吉の前から姿を消した。 単に小走りで倉庫の外へ出ただけの蒼汰であったが、左ノ吉にとっては蒼汰が目の前から突然消えたような感覚だったに違いない。
すると、一分と経たない内に蒼汰が戻ってきた。 両手一杯に大小の石を持って……。
すでに車のエンジンは一時間も掛けっぱなしである。 廃倉庫の中はユラユラと排ガスが漂っている。 ヘッドライトに照らされる蒼汰の横顔が煙によって霞んで見えた。
「さて、宴もタケナワだ」
蒼汰はそう言ってバラバラと床に石をばら撒くと、ニヤリと笑みを浮かべながらその中から一つの石を手に取った。
左ノ吉は蒼汰に刻まれた狂気の笑みに慄然とした。 拳ほどの石をポンポンと手で弄ぶ蒼汰がこれから何をするのか、想像するのも恐ろしかった。
「いや……や、やめて……」
もはや希望へ向かう蜘蛛の糸は切れた。
声にならない叫びを絞り出そうとする左ノ吉……。 だが、無慈悲にも蒼汰の振り上げた手から放たれた石礫は、磔になった息子目がけて飛んで行った。