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【 五 】 斥候 小宮山友晴


(本気でこのまま戦をする気であろうか、殿は敵状をどこまで把握しておるのだ)

 陣所をつまみ出された友晴は、敵の指定する設楽原へと向かう事とした。無論、勝頼の許諾は得ていない。しかしなぜ勝頼はここまで性急に事を進めるのか、理解が出来なかった。

 勝頼は猪武者では無い。これまで戦場では感情に流されずに冷静な判断を見せてきた。

 後方に敵城を抱えながら、前面の敵と正面衝突するなど危険極まりない賭けである事は、誰が考えても明らかである。

「佞臣共が唆しているからに決まっておる」

 友晴はギリリと奥歯を噛み締めた。

 本当に決戦に及ぶべき事態なのか、信玄より直々に任命された使番の名に掛け、正確な敵状報告をせねばならぬと覚悟を決めた。

 友晴は指物から百足の模された旗を外し丁寧に畳むと、甲冑の隙間から懐に突っ込んだ。

 兜も被らず当世具足のみの身軽な格好となる。陣所から設楽原までは僅か一里程である為、敵を刺激するような目立った行動は出来ない。

「釣閑斎共が二万は過大というが、実際にその目で見ねば納得出来ぬわ」

 友晴は同僚の目を盗んで陣所を抜け出すと、藪を掻き分け西方へと進んで行く。

 友晴は敵の動きがどうしても納得できない。本当に我らと同数程度であれば、戦は極力避ける筈である。正面から戦を仕掛けても負けない自信が無ければおかしいのだ。

 物見が敵の兵力を見誤る事は往々にして起こることであるが、実際に過小な兵力で信長があの様な使者を寄越すであろうか。

 万が一、二万を越える大軍であったとしても、その程度の兵力差で我が武田軍と正面衝突する覚悟があるのか、三方ヶ原での完膚なきまでの敗退を忘れた訳もあるまい。例え二倍の敵兵であっても、局地戦で遅れを取る筈はないと友晴でさえ思っている。

 必ず何かしらの理由がある。

 そうこう考えている内に、徐々に険しい山道の視界が開け、設楽原と呼ばれる平原が現れ始める。しかし平原とは名ばかりで、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なっており、ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかった。

(なんじゃここは、敵の数も分からんし、大部隊が行動できる場所ではないではないか︙︙)

 しかし方々から炊き出しの煙が幾重にも上がっており、部分的に敵の旗指し物が見え隠れしている。

 ここに来るまでは、設楽原という名の通り見渡しの良い平原がいくらか広がっていると想像していたが、予想に反して複雑な地形であった。友晴は勝頼がこれを把握しているのか不安になる。騎馬隊での行動に向かない場所であることは明白であった。敵は事前に入念な地形探索を行った上で、この場所を戦場として指定してきている違いない。

 しかし合点がいかない部分もある。起伏激しく狭隘な丘陵では、騎馬隊の機動力こそ削がれるが、大軍での行動が取り辛い事も事実である。敵が数の力でこちらを圧倒するつもりであれば、それこそこの場所を選ぶ筈もない。釣閑斎の言う通り、兵力差を誤魔化す為にここに誘導しているのであろうか。

「本当に人影が見えたのはこの辺りか」

 色々と考えているうち、俄に数名の話し声が近づいて来るのが分かった。友晴は咄嗟に近くの茂みに身を隠す。

「なんじゃその言い方は! 儂はお主より遥かに目が良いのじゃ! 見間違いの訳あるか!」

 足軽と思しき男が吐き捨てるように言うと、一方の男が憤りながら言った。敵は四名程であるが、どの者も簡素な胴当てと籠手臑当のみ身につけた足軽である。

 四人は友晴が隠れる茂みのすぐ横まで迫り、周囲を見渡している。

 友晴は屈みながら右手でそっと腰に指す刀の柄を握った。四対一であれ、足軽程度に遅れを取る気は無く、もしも見つかれば瞬く間に斬り倒すつもりである。しかし勝頼に無断で偵察に来ている以上、揉め事を起こすのは避けたい。

「敵は翌朝にもここへ向かってくると聞いておるぞ。偵察の一人や二人現れてもおかしくないわい」

「そうじゃ、ここで一人見つけて捕えた所で大した手柄にもならぬわ。早く持ち場へ戻って明日の戦の準備をしておったほうが良いわ」

 彼らは周囲を簡単に探索した後、敵陣の方角へ去っていった。

 友晴は動揺する。

(どういう事じゃ、我らが明日にでも出撃するだと)

 今しがた軍議を行っていたにも関わらず、その内容が敵の足軽にまで筒抜けである。

(これは由々しき事態じゃ)

 友晴は一度引き返そうかと悩んだが、敵の実情を把握せずに帰っても一蹴されるに決まっている。焦りながらも、前方を流れる沢に沿い、北方の小山へと急ぐ事とした。最低でも敵の戦力を把握せねばならない。北から全体像を見渡せる場所がないか探すつもりである。

「しかし急がねばならぬぞ」

 友晴は大きな独り言を呟いた。徐々に陽が傾き始めている為焦りが生じている。夜になれば敵の実態が把握しきれない。

 周囲を見渡せば、所々に小山のような起伏があり、それを覆うように藪や雑木林が点在する。友晴は遠目に見え隠れする敵の旗指し物を目印に、大きく円を描くように回り込み敵状を探った。

 敵はかなり広範囲に兵を分散させている様で、各部隊の数はそれ程でも無いように見える。しかし土塁や木の柵を小山の各所に造り、そこに隠れるように各部隊が布陣している。

 友晴は必死に走っても途切れることのない敵の旗指し物を見て、激しい動機を感じる。

(これは我らを欺く計略か)

 敵は一見少ない事を誤魔化す様に点在しているかと思いきや、実態はかなりの数がいるようである。使番として戦功を重ねた友晴にとって、敵状視索は得意とする所であるが、斥候として地形把握を行っていなかった為、起伏の激しい小山群が視界を遮り、明確な索敵が出来ず苛立つ。

 息を切らせながら探索していると、目前に周囲よりも多少大きく盛り上がった小山が現れる。斜面を利用するような形で土塁が築かれ、その上には木柵に周囲を囲われた砦が現れた。かなりの兵士が既に陣取って入るようで、奥までは見えないが、大軍勢の気配が漂っている。揚々と掲げられる旗指し物には、丸の内に三引両の家紋が並んでいた。

(佐久間か︙︙)

 友晴は険しい表情となる。釣閑斎が調略したと息巻いている織田家の最重臣の陣地である。

 平原の北方、戦となれば前線になる場所であろう。

 佐久間の軍勢となれば、数千人規模の兵力であろう。こやつらが本当に寝返れば、味方の勝利は間違いない。

 夕日が徐々に西方の山へと消え始め、早くも所々から篝火が上がりだしている。

 友晴は砦を横目に更に北上する。佐久間の陣所を抜けると、雑木林が続き、その後方は険しい山間部へと繋がっている。ここでようやく敵の構築した木柵などの陣地が途切れた。その規模は南北凡そ半里ほどであろうか。

「点々と見え隠れするばかりで実態が見えぬ。もう少し敵方へ深入りするしかあるまい」

 友晴は砦を回り込むようにしながら山間部を更に北西へと移動する。険しい獣道を掻き分けながら山を登っていくと、突如視界が開けた。設楽原を見下ろす事の出来る絶好の位置である。

 驚くことに、すぐ前方には、織田家の十六葉菊の家紋が揺れていた。目下の部隊が織田信長の本陣という事である。

(ようやく本陣を見つけしぞ︙︙)

 そう呟きながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 前線の丘を越え見えてきたのは、想像を絶する敵の数であった。前方の茶臼山と呼ばれる小山に織田信長の本陣が黒い渦のように群がり、そして南方の弾正山には徳川勢が薄っすらと見える。そして周囲1里四方の起伏激しい野原に、おびただしい数の旗指し物が上がっていた。

(これは二万どころではないぞ︙︙)

 友晴は驚愕し、身動きが取れない。

 敵はこちらを誘導するため過小な兵力を敵方に流し、部隊はデコボコとした見通しの悪い丘陵地に分散させ、目くらましをしていたのである。目算では少なくとも三万人、いや四万にも近い兵力であろう。

「何としたことか、一刻も早く勝頼様に報告せねば」

 友晴は慌てて踵を返す。本陣まで急げば半刻も掛からない距離である。

「やはり無謀であった。このままではみすみす虎穴に飛び込むようなもの」

 やはり織田は勝頼を挑発し、戦場へ誘き出そうとしていた。こちらの内情も把握しているのであろう、釣閑斎や勝資などの勝頼側近を掻き立てようと、敢えて彼らに内応の書状を届けていたのである。

 武田家自慢の透破達は、既に信長に懐柔されている可能性がある。こちらに都合の良い報告ばかりで、敵が想像を超える兵数で出陣してきた事実など一切聞こえてこなかった。

 友晴は徐々に漆黒に染まっていく山道を、冷や汗を浮かべながら走り抜けた。

 そして本陣へと戻ると守兵達の制止を振り切って勝頼の元へ参じる。

 勝頼は陣所で側近衆と何やら密談をしている様子であったが、友晴が鬼のような形相で駆け込むと、緊張した面持ちで応じる。

「戦直前に騒々しいぞ。一体何事であろうか」

 口調は強い。昼間の言動がまだ気に障っている様子である。するとやはり横から野次が飛ぶ。

「そうじゃ、お主はいつもいざこざを運んで参るが、今度はなんじゃ!」

 友晴はグッと奥歯を噛みしめる。発したのは釣閑斎であった。

「突然の注進恐れ入り申すが、危急の案件につき、今直ぐお伝えしたく参った次第」

 腹の底から怒りが込み上げるが、何よりも報告が重要と思い、堪えつつ言葉を続けた。

「言ってみよ」

 勝頼は淡々と応えた。友晴の焦燥を感じ取ってか、以外に冷静である。

「然らば、儂は勝手ながら織田の陣営を確かめようと、密かに物見に参っておりました」

「お主は命令も受けておらぬのに、勝手な真似をしたと申すのか! もし敵方に見つかり作戦が漏れたらどうするつもりじゃ!」

 言っている途中で釣閑斎が声を上げたが、友晴は言い返しもせず堪える。すると勝頼は釣閑斎を諌めた。

「過ぎてしまった事はまあ良い。お主はそこで何を見た」

 友晴は素早くと頭を落とし、上目遣いに注進する。

「忝なく存じます。敵の数は二万どころではありませぬ。少なく見積もっても三万、いや、四万は集結致しております。敵は我らの目を欺こうと、敢えて起伏激しい設楽原に布陣したと存じます」

「馬鹿な事を言うな! 今織田にそのような大軍を動かす余裕があろうか!」

 釣閑斎は友晴を罵倒すると、勝頼に訴えかける。

「殿、こやつは織田の勢威を恐れ、敵数を見誤ってございますぞ!」

 厭味ったらしく訴えるが、勝頼は意に反し不動であり、じっと友晴を見つめている。

(ここは反論せず、勝頼様を信じよう)

 友晴はじっと勝頼の瞳を見つめ回答を待った。

「友晴よ、間違いは無いのだな」

 目の奥を覗き込むように問いかけてきたが、友晴は逸らさず毅然と応える。

「間違いはございませぬ」

 勝頼は友晴の能力を認めていた。性格は合わず、融通の効かぬ厄介者とは思っているが、信玄子飼いの使番として長年従事してきた実績は買っており、武田家内でも一目置かれている。何より度の付く馬鹿正直者である事は重々承知である。その様な者が、敵に臆して数を見誤るなどと言う事はないであろう。

「小賢しい奴じゃ! 万が一、三万や四万もの大軍で来ておれば、透破達が黙っておる訳がないわ!」

 釣閑斎は再び怒声を上げた。

 友晴はいよいよ声を上げる。元々気の長い方では無い。

「それは単純な事じゃ! 透破は織田に取り込まれておるからであろう!」

「な、何という事を!」

 釣閑斎は驚愕するが、友晴はそれ以上言わせまいと続けた。

「織田軍出撃の状況を透破が正確に伝えぬのは、その他に考えられぬ!」

 釣閑斎は堪らず何事か叫ぼうとしたが、今度は勝頼が遮った。

「それは確証があっての事か!」

「あの大軍を見て、二万などという者はおらぬでしょう!」

 勝頼はグッと口を閉じ、腕組みして考えに耽る。友晴は続けた。

「道中、敵の足軽に出くわしましたが、すでに明朝の我らの出撃を知ってございました。末端の者にまで、我らの行動が筒抜けでございますぞ」

 これには釣閑斎も驚いた様子で口を噤む。

「殿、敵はこの戦にかなり入念な作戦を立てて参ったる様子。地形を十二分に調べ上げている様です。ここは敵地、我らに地の利もございません。今一度、作戦を立て直すべきかと」

 友晴は誠心誠意伝えた。

 勝頼はやはり俯いて考え事を続けている。釣閑斎は何事か言いたげであるが、黙っていた。

(やはり勝頼様は分かっておられる。儂の事は嫌っておるが、それだけで無下にはしない)

 友晴は改めて勝頼に敬意を表するが、やはり横に座る佞臣共が若殿を惑わせていると確信する。

(汚き爺めが……)

 勝頼は暫し考え事をしていたが、ゆっくりを顔を上げると、真剣に言った。

「お主の言い分は相分かった。しかし、今更戦に及ばぬ訳にもいかぬ。敵の数が多いと分かった途端に逃げるのでは、余りに外聞が悪い」

 友晴は屈めていた姿勢を大きく上げ、驚愕の声色で訴える。

「何と! これほどの窮地でもご納得頂けないと!」

 横目でも、釣閑斎がほくそ笑んでいるのが分かった。

 勝頼は首を振りながら言う。

「報告はご苦労であった。命令違反も咎めぬ。しかし、お主の言う地形では大軍を動かせまい。局地戦では我らが有利ではないか。そして佐久間、水野の寝返りも得ている以上、戦力で劣っているとも言い難い」

「殿! それはあまりに楽観し過ぎかと! 不明瞭な事が多すぎますぞ!」

 すると勝頼は言い返さず、友晴の目を再び見つめた。憤りを隠さなかった友晴であったが、勝頼のなんとも言えぬ物憂げな瞳を見ると、言葉が続かなかった。

「……」

 しばし両者無言の時間が進んだが、友晴は徐ろに全身の力が抜け、項垂れる。そして振り絞るような声で言った。

「わ、儂には勝頼様のお考えが到底理解出来ませぬ……」

 すると勝頼は、これまで友晴に見せた事の無い様な、哀愁漂う表情で応えた。

「突如主君に祭り上げられた四男の気持ちは、お主には分かるまい」

 一言呟き、目を落とした。

「も、もう良いな! これ以上の問答は不要じゃ! 退室願おう!」

 釣閑斎が咄嗟に声を張り上げた。しかし友晴はこれでは引けない。主人を、主家をみすみす敵の術中に嵌るような危険な戦に駆り出す訳にはいかない。

「おっしゃる通り、儂には勝頼様の心底までは到底分かりませぬ。しかし、この戦が無謀である事は分かりますぞ」

「こ、こら! もう止めぬか!」

 釣閑斎が叫ぶが、友晴は続ける。

「勝頼様の引けぬ理由は、よもや一門衆の目を気にしての事でありましょうか」

 その瞬間、勝頼の瞳に、一挙に怒りの炎が宿った事が分かった。しかし友晴は怯まずに続ける。

「図星の様ですな! 何を気にすることがありましょう! 大将たる者、毅然とした態度を示しておれば、あの様な奴らなど直ぐに黙りましょうぞ……!」

「お主に何が分かる!」

 友晴が言い終える間もなく、勝頼は大喝した。

 流石の友晴も多少首を引っ込め、口を噤んだ。

「お主はただ主人の言う事に従っておれば良い立場じゃ! しかし儂は全ての配下の命を担っている! お主などとは言葉の重みが違う!」

 勝頼は怒りの余り立ち上がる。

「儂の足元を掬おうと虎視眈々と狙っておる輩が味方にも大勢おる! そやつらの手綱を常に握り締め、操らねばならぬのだ! お主のもっともな言動全てが正しいと思うな!」

 突如感情を吐き出した勝頼を友晴は呆然として見つめていた。勝頼の喚きは、まるで子供が駄々を捏ねるようにも映った。

「勝頼様、落ち着き下さい。我らは常に勝頼様と共におります」

 釣閑斎は嗜めるような口調で勝頼を励ますと、友晴を横目で一瞥した。

「……もう良いな」

 こうなってしまえば、黙って退出するしか無かった。


(儂は間違っておるのか……)

 陣所を後にした友晴は、俯きながらとぼとぼと味方の軍勢の合間を歩いていく。各所に上がる篝火の周囲には博打を打っているのであろう、歓喜と怒気を含んだ掛け声が方々から響き渡っている。明朝にも戦と聞かされている為か、すれ違うどの侍も顔が引きつり、殺気立っていた。

 友晴は、こうなれば明日は潔く討ち死にするしかあるまいと心に決めた。

「これ以上恥を上塗りしても仕方あるまい。明日は武田に小宮山ありと敵味方に知らしめて散ってやろう」

 それが、自分を育ててもらった信玄の恩に報いる最期の仕事であろうと思う。

「山県様には今生の別れを告げねばな……」

 友晴は百足組の先輩でもある山県昌景の陣所へ足を向けた。昌景は武田の赤備えを全国に知らしめた猛将であり、友晴が最も尊敬する武将である。

 簡素な陣小屋に明かりが灯っていた。

 外に待機する守兵に声を掛けると、意外な言葉が返ってくる。

「家老衆が集まってございます」

 そして守兵が中を伺うと、友晴は即座に中に通された。

 手狭い小屋の中には、甲冑を着込んだ屈強な侍が三人円座を組み、盃を交わしていた。

「友晴か。丁度お主の話をしておった。虫の知らせとはこの事じゃな!」

 口唇裂の昌景は、唇が裂けよとガハハと笑いながら言った。両隣には馬場信春、内藤昌秀がおり、同時に笑い声を上げる。

「お主の事じゃ。性懲りもなく諫言しに言って、また釣閑斎に邪魔立てされたのであろう!」

 昌秀が言うと、友晴は目を怒らせながら速やかに応えた。

「当然でござる! しかし儂もいい加減、腹は決まりましたぞ!」

「ほう」

 昌秀は酒をすすりながら上目遣いに応じた。

「もはや儂の声は届きませぬ。然らば儂は小宮山家を背負い、明日は数多の敵を道連れに、華々しく討ち死にしてやろうと存じ申す!」

 三人は目を見合わせる。各々の表情はその場に似つかわしくない程にこやかであった。

「そうか、お主の事であるから驚きもせぬ。我らも同様であるぞ」

 やはりかと、友晴は思った。

 散々諫止した挙げ句この戦を止められず、更には臆病者とまで言われ面目を失った。彼らも友晴と同様、生き恥を受ける位なら死を選び、自身の意地と尊厳を貫き通すべしという、戦国武士の申し子達である。

「佞臣共を黙らせることが出来ず残念でございますが、譜代の臣として主家に殉ずるのは本望でございましょう」

 友晴は三人の目をそれぞれ見ながら言った。しかしどの者も何かしっくりとしない表情である。昌景はそれまでの緩んだ表情を引き締め、徐ろに語りだした。

「実は、お主には折り入って頼みがある」

 友晴が意外な言葉に驚くと、昌景は続ける。

「今宵、我らは明日の戦で討ち死にすべしと思い、集まっておった。皆お主と同じ気持ちじゃ。しかし、もし負け戦となった後、武田家はどうなると思う」

 そんな事知った事かと友晴は思った。万が一負ければ、それは勝頼の自業自得である。友晴は仮に勝ち戦となったとしても、腹を切るつもりでいる。それが勝頼に対する最期の武士の意地である。

「御三方が討ち死にされれば、大混乱でしょうな……」

 友晴は人ごとの様に言った。すると横の信春が口を開いた。

「左様、信玄公子飼いの我ら家老衆は武田軍の要。譜代の中でも特に忠誠心の高い者達を統括する立場にある。信玄公に忠誠を誓った我らの多くは、この戦で討ち死にする覚悟であろう。さすれば、残るのは四郎様側近衆と、一門衆。この意味は分かるな」

 信春に目を覗き込まれると、友晴は険しい表情で頷いた。彼は続ける。

「お主の思う通り、負け戦となれば四郎様及び、この戦を牽引した側近衆の威勢は大きく失墜し、一門衆らは大袈裟に糾弾するであろう。そして各地の国人衆など外様の面々の多くは近隣の敵国へと誼を通じていくであろう」

 友晴は考える事を控えていた戦後の事を思うと、ごくりと唾を飲み込んだ。

「無論、直ぐには崩壊しまいが、穴山などはあからさまに独立姿勢を示すであろうし、典厩(信豊)様や逍遙軒(信廉)様なども油断ならぬ。釣閑斎や跡部では彼らを制御出来ぬであろう……」

 信春はその後言葉を続けなかった。しかし彼の言うことは当然友晴も百も承知である。発言力のある譜代衆は討ち死にし、一門衆の発言権は一層強まる。そして側近達は彼らを何とか制御しようとし、軋轢は更に深まるであろう。その様な内部の混乱を周辺諸国が放って置く訳がない。織田徳川は即座に攻勢に出るであろうし、北には宿敵上杉謙信がいる。そして同盟関係とはいえ、東の北条家も油断ならない存在である。内陸地を支配する武田家は四方を敵に囲まれており、外交政策の失敗は滅亡へと直結するのである。

「その様な事は分かっておりますが、儂に頼みとはなんでございましょう」

 友晴が真意を問うと、三人は目を見合った。そして昌景は小さく頷き、ゆっくりと語りだす。

「お主は明日何としても生き延び、勝頼様を正しい方向へと導いて欲しい」

「な、なんですと!」

 意外な言葉に友晴の顔は途端に引き攣る。

「それはあまりに身勝手な言い分では! 明日討ち死にしてこそ、これまで我慢を続けてきた儂の本望が達成されるのですぞ!」

 しかし、昌景は表情を変えず淡々と続けた。

「お主の覚悟は、我らは十分に理解しておる。しかし、これを頼めるのは誰よりもお主を信頼しているからじゃ」

「し、しかし」

「良いか、お主ほど頑固者で、そして誰よりも武田家に対する忠誠心が強い者は当家におらぬ。お主であれば、どのような事が起こっても勝頼様を裏切らない」

 友晴は憤怒を隠さず食い下がる。

「それは御三方も同様の筈! 皆本望を遂げるのに、儂だけ許さぬと申すのですか!」

 ここで昌秀が口を挟んだ。

「お主は敵の軍勢を見て来たのであろう。どう見積もった」

「……さ、三万は下らぬかと……」

 三人は数を聞いて流石に驚いた様子をみせたが、昌秀は続ける。

「そうか、思った以上の大軍勢じゃな。それに敵は何か策を用意しておるであろう。僅か一万数千の兵力でどうこう出来る数でもあるまい。即ち逃げ戦になる以上、我らが敵を食い止めねばならぬのは、分かるな」

「ならば儂もその中に加わらせて頂く!」

 友晴は食って掛かるが、今度は昌景が口を開いた。

「お主の気持ちも十分に分かるぞ。儂も同様に言われれば必ず反発しよう。しかし、これを頼める者は他におらぬのだ。誰に後事を頼むか考えた時、我ら三人が同時にお主の名前を思い浮かべたのだからな」

 これだけの名誉の言葉貰えば流石に反論出来ない。納得は出来ないが、悔しさが腹から込み上げ、膝から崩れ落ちるように座り込んだ。

「良いか、万が一劣勢となれば、何としても四郎様を戦場から退却させよ。四郎様の事であるから、自ら突撃してもおかしくは無い。逃げ切るまでの時間は我らが稼ぐ」

 昌景は項垂れる友晴を見つめながら、念を押すように続けた。

「退却に成功した後は信濃の虎綱の元へ向かい、この度の戦の状況を伝えよ。虎綱であれば全てを察する筈じゃ。そして敗戦処理を二人で執り行うのじゃ」

 友晴は聞き入るが、頷きはしなかった。

 虎綱とは春日虎綱の事であり、昌景以下、信玄子飼いの四家老の一人である。現在、上杉謙信対策の為、越後国の国境守備として海津城に在城している。万が一、三家老が死ねば一門衆や側近衆と対等に渡り合う事が出来るのは、彼しかいないであろう。

 要するに、友晴はこの戦を生き延び、戦の証人として虎綱と共に体制を立て直せという事である。

「……儂には荷が重すぎますぞ……」

 友晴はぼそりと呟いた。そして独り言の様に続ける。

「何より儂の言葉は四郎様には届きませぬ。儂のような小者一人が生き残った所で、何が変わりましょう……」

 三人はその言葉に反応しなかった。頑固者であるが故、誰よりも律儀者である事を知っているからである。

 友晴は虚ろな目で立ち上がると、多くは語らず静かに去って行った。


 決戦に備え、明日設楽原への進軍の指示が既に発せられていた。


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