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【 四 】 軍議二  長坂釣閑斎


 五月十九日

 全く厄介な事態となった。城が落ちなければ家老共が邪魔立てするに決まっている。鳥居強右衛門とか申す小者の分際が出すぎた真似をしおって︙︙。

 釣閑斎は親指の爪を噛み締めながら、眼前の諸将に睨みを効かせた。

 開戦から十二日、兵糧庫が焼失し落城寸前であった長篠城だが、未だに抵抗を続けていた。これが強右衛門の決死の抵抗の賜であることは言うまでもない。息を吹き返した城側に手を焼き更に二日を費やしている内、岡崎に集結していた織田徳川連合軍が遂に押し寄せてきたのである。

 透破の報告によれば、兵力は大凡二万程であるという。予想通り織田は総力戦を望んではいない様である。佐久間水野の内応の取り決めもある今、ここで信長を徹底的に叩きのめす好機となろう。敵は長篠城から一里程西方の設楽原に陣取り、そこで何やら土塁や柵をせっせと造っているという。我らとの正面衝突を恐れている事は明白である。

「信長自ら出陣して来ている事は物見の報告から間違いないかと。ここが我ら武田軍の更なる隆盛の分岐点となりましょう。消極論を唱える臆病者共を黙らせ、必ずや戦へと向かいましょう」

 釣閑斎は勝頼を励ました。

 そして再び軍議が開かれる。

 集まった諸将を前に、勝頼は声高に言う。

「ようやく信長めが出向いて参った。ここから一里程先の野原に陣取った様じゃ。ここが勝負時と考えるが、皆の意見を聞こう」

 勝頼の言葉に対し場内は色めいたが、山県昌景はいち早く応じる。

「殿、お気持ちは分かりますが、今はあまりに状況が悪くございますぞ。織田は数多の兵を率い、何やら土塁や柵を構築して待ち構えておるとか。わざわざ敵の策中に嵌る必要はありませぬ」

 勝頼は、昌景の意見は想定通りといった表情で腕を組むと、黙ってその言葉を聞く。

 昌景の言葉に続き、馬場信春や内藤昌秀なども口を揃えた。

「殿、山県殿の仰る通りですぞ。ここは一度退却して信長が撤退した後、改めて攻め入れば良いのです。長篠の様な小城など、いつでも落とせます故」

 また同じことばかりを言いおってと思いながら、釣閑斎はちらりと勝頼の方を見る。当然、勝眉間に皺を寄せ、憮然としていた。

 山県ら信玄子飼いの宿老衆は、勝頼が信玄の後継者として進退を誤らぬ様、事あるごとに諫言を重ねている。側近としてそのやり取りを常に見ていた釣閑斎には、彼らの諫言が耳障りでならない。勇敢で分別も弁える若き大将に敬意が足りないと不満が溜まっていた。この家老衆こそ勝頼の本質が分かっていない。いつまでも童のように扱うのはお門違いだと思い、憤りが募る。

(何も知らぬ癖をしおって。我らが進める調略が、どれほどの成果を見せていると思っているのか︙︙)

 忌々しく様子を窺っていると、家老衆に同調するように「山県様らの言う通りですぞ」と退却を勧める声が方々から上がり始めた。釣閑斎は居ても居いられず、口を挟もうと顔を上げた瞬間、横の秋山昌成が声を張り上げた。

「何を腑抜けた事を! 奥平が移り身変わり身で変心を繰り返すのは、我らを甘く見ておるからですぞ! これを落とさずして撤退など以ての外! 織田徳川など物の数ではございませぬ。信玄公御在世の時には、我らを恐れ、尻尾を巻いて逃げるばかりでございましたでしょう。今は信玄公に勝るとも劣らぬ将器であられる勝頼様が、あやつ等如きに背を向けるなどあり得ませんぞ!」

 昌成は意気揚々と叫んだが、居並ぶ多くの諸将が興ざめた表情を浮かべたのが分かった。新参者の分際でと、周囲の目は厳しい。しかし彼らの反応に反し、勝頼の隣に座っていた跡部勝資は声高に同調した。

「そうじゃ! 弱敵相手に及び腰では、これまで勝頼様が残してきた功績が台無しじゃ!」

 今では家中並び無い権勢を誇る勝資の言葉に、多くの者は閉口する。

(いいぞ、もっと言ってやれ)

 自身の意見を代弁するかの様な二人の意見を聞き、釣閑斎はほくそ笑んだ。どれ儂も捲し立ててやろうかと身を乗り出した矢先、末席から突如として大声が上がってくる。

「この戯け者め! お主ら佞臣が勝頼様を唆し、無謀な戦に巻き込む事など、言語道断であろうぞ!」

 釣閑斎他、全員が一斉に後方へ首を向ける。声の主は、使番の小宮山友晴であった。

 釣閑斎は奥歯をグッと噛み締めた。こやつは事あるごとに勝頼様に盾突き、自我を押し通そうとする痴れ者である。信玄公には可愛がられていたが、勝頼様はすこぶる嫌っている。

「何だと! 今のは聞き捨てならぬぞ!」

 友晴の思わぬ物言いに、昌成は立ち上がった。

「なんじゃ! 儂は真実を言っておるだけじゃ!」

 二人の言い合いが始まると、周囲からもそれぞれを推す様に怒声が上がる。

「何でもかんでも否定ばかりでは話が進まぬではないか!」

「戦機も読めぬ愚か者共の言う進退など黙って聞けようか!」

 騒然となる場内に対し、勝頼は腕を組み無言を貫いているが、友晴を睨みつけるような不機嫌な表情である。それを見兼ねたのか、中央に座る武田信豊がゴホンと咳払いを起こした。

「皆、落ち着かぬか。儂も山県殿らに同意じゃ。後方に敵城を残して戦うのは得策ではなかろう。物見の報告によれば、織田の兵力は二万、これに徳川の八千程が加わる。対し我らは国元に兵を残し、更にはこの長篠城へ押さえに兵を割かれれば、戦場に出られるのは一万二千程じゃ。今無理に戦う必要もないのではないか」

 場内は静まったが、釣閑斎の顔は歪んだ。

 織田軍二万という報告は大げさだと思っている。畿内で手を焼く信長に、今それ程の余裕は無い筈である。あらかた総員十万と喧伝される織田軍を見て、物見も腰が引けたのであろう。恐らく多く見積もっても織田徳川合わせて一万五千人程が良いところだ。我らを前に、柵や土塁を構築しているのが何よりもの証拠であろう。それにこちらには調略の切り札もある。

 しかし、信豊の発言はやっかいである。

 信豊は勝頼の従兄弟であり、穴山信君や武田信廉と並ぶ親族衆の筆頭であった。彼の父は、信玄の実弟信繁である。武田軍副将であり、信玄の片腕として戦を重ねた剛の者であったが、永禄四年(一五六一年)に上杉謙信との川中島の戦いにおいて戦死していた。信豊は父の死後跡を継ぎ、勝頼を補佐する立場にある。その彼が決戦を回避するように進言したのは大きな弊害となる。

(普段は人ごとの様に傍観しておる癖に、忌々しい奴め︙︙)

 どう反論しようかと考えている矢先、横の跡部勝資が強く反発した。

「これは信豊殿までもが思いもよらぬ事を口に申しますな! 京を我が物顔で支配する織田信長自ら参っておるのは天の与えし好機でございましょう! ここで一挙に家康・信長と打ち負かせば、天下は大いに動揺し、我ら武田家の中枢への影響力は計り知れぬモノとなりますぞ!」

 釣閑斎はしめたとばかりに大きく頷き、勝資に続けと勝頼に言い寄った。

「殿、敵は我らを恐れ、姑息にも待ち伏せしておる状況でございます。東美濃侵攻時、信長は三万という大軍で来ましたが、我らを恐れ戦いもせず逃げ帰りました。畿内統治に苦心する信長が今、自軍の損害を顧みず徳川を救う理由もありませぬ。敵の喧伝に惑わされ、戦機を見誤ってはなりませぬ! 今こそ亡き信玄公をも上回る器量を見せる千載一遇の好機でございますなれば、何卒出撃の御決断を!」

 信豊は言葉を発しなかったが、明らかに腹を立てた様子で二人を睨みつけた。多くが側近衆の物言いに憤る中、今一度大きな喚き声が響いた。

「またも戯言を! 勝頼様の腰巾着が、いらぬ事ばかり申すなと言っておろう!」

 またしても友晴である。この阿呆には何を言っても無駄であろう。陣所の外まで響き渡る大声であったが、釣閑斎は友晴の声など届かぬとばかりに無視した。そして横の勝頼へ訴える。

「勝頼様、今は恐れている時ではありませぬ。早急に手柄を立て、信長や家康めに、武田手強しと見せつけてやりましょう」

 すると友晴は、顔を赤らめ更に喚いた。

「生意気な爺め! 儂の声が届かぬなら、耳元まで言って叫んでやろうぞ!」

 友晴が大きな足音を立て近寄ってきたが、釣閑斎は涼しい顔で友晴を見据える。しかし事態を懸念した勝頼は、突如厳しい表情で大喝した。

「これ友晴! 軍議の席でいらぬ諍いを起こすでない! 案が無いのであれば黙っておらぬか!」

 場内に緊張が一気に走った。しかし友晴は目を怒らせ、尚言い返そうと身を乗り出す。しかしそこで信春と昌景が咄嗟に声を上げた。

「いい加減にせぬか友晴! 殿の言う通り、場を荒らすのみなら黙っておれ!」

 友晴はさすがにバツが悪くなったのか、ぐっと歯を食いしばり、渋々と腰を下ろした。

 誠に短慮極まりし愚将よと思い、屈辱に歪む友晴を嘲るように見下す。

 勝頼の一喝により、軍議は一旦落ち着きを取り戻したが、一つ気掛かりなのは、混乱した軍議でのやり取りを、表情を変えず無言で見つめている、穴山信君、武田信廉、小山田信茂ら親族一門衆である。反論され苛立ちを見せていた信豊も、もはや話は無いと言った表情である。

(武田軍の中核を担うあやつ等が、何も言わぬのはどういうつもりじゃ)

 その不安は勝頼も同様の様で、勝頼は多少不安な面持ちを浮かべ、斜め向かいの信廉をチラリと横目で見ながら声を掛けた。

「信廉様は、どうお考えであろうか」

 一同が信廉に注目すると、彼は俯き加減であった顔をゆっくりと上げ、ため息交じりに重い口を開く。

「儂は何れにせよ、当主である四郎の決断に従うまでじゃ……」

 勝頼が口元にぐっと力を込めるのが分かった。

 釣閑斎はその様子を見て、何故その様に気を使うのだと眉を顰める。

 武田信廉は信玄の弟であり、その容姿は兄に酷似していた為、屡々影武者の任を受け持ったという。勝頼は亡き父の面影を追う様に、信廉に親しみを感じているのであろう。しかし信廉は冷たくあしらった。一門衆の重鎮として君臨する信廉の意見に皆静まり返ったが、頃合いを見計らい、昌景が再び声を上げる。

「色々と思惑もあろうが、ひとまずは状況をまとめよう」

 戦場往来を重ねた武者らしい腹に響く低い声である。

「敵は数万の軍勢で設楽原にて、柵や土塁を設け待ち構えておる。一見我らを恐れている様にも思えるが、織田信長という者は短き期間で畿内を席巻する程の計略家、何か策を練り、罠を仕掛けているに違いない」

 昌景は勝頼の方へ向きを正すと、瞳をじっと見つめながら、父が子を諭す様に、ゆっくりと語り掛ける。

「功を逸る気持ちも分かりますが、みすみす敵の策に乗る必要はございますまい。織田は現在徳川の要請で参ったとなれば、深追いは致さぬでしょう。柵や土塁が何よりもの証拠。ここは一度退き、時機を見定める事が肝要ですぞ」

 静粛した一同は、勝頼の反応を伺う。勝頼はやはり無言のまま考え込んでいたが、昌景の言葉に反応する様に、周囲を見回しながら話し出した。

「お主らの言い分はどれももっともである。しかし、儂の懸念はただ一つじゃ。今信長自ら三河にまで赴いたこの時を、みすみす逃して良いものかと。確かに不利な戦にはなろうが、敵を前にして逃亡すれば、織田徳川の奴らは、武田は臆病にも敵前逃亡したと吹聴するに決まっておろう。さすれば、亡き信玄公にも顔向けが出来ぬというもの」

 勝頼の意見に対し、静まっていた場内は再び沸き立った。

「殿、焦らずとも好機はまた巡ってきますぞ!」

「よくぞ申してくれました! 今こそ決戦の時です!」

「敵の策略に嵌まってはいけませぬ! 退き戦は逃亡ではございませぬぞ!」

 勝頼は再び荒れる場内諸将に対し続けた。

「皆の意見も理解しておるが、これより内々の報告がある故、聞くが良い」

 そして徐ろに釣閑斎に合図した。

 段取り通りである。釣閑斎はここで忌々しい家老衆を黙らせようと、ゴホンと咳払いを起こし、ゆっくりと立ち上がった。

「皆! 勝頼様は何の考えもなく、敵の策に嵌まるような無謀な戦を始めようとけし掛けているのではないぞ!」

 皆の注目が一斉に集まる。釣閑斎はゆっくりと懐から書状を取り出し広げた。

「これは、織田の宿老佐久間信盛からの祈請状じゃ。あやつは信長を見限り、我らに味方すると申してきておる」

 城内は再び大きくどよめいた。息巻いて反対していた武将たちも困惑の表情を見せている。

 どうじゃ愚か者共めと周囲の反応を満足そうに眺めながら、その書状を高々と掲げた。すると呼応するように、跡部勝資も声を上げる。

「内応の取り決めは佐久間だけではござらぬぞ! 織田家の宿老であり、徳川親族衆でもある、水野信元からも同様の約束を取り付けておる!」

 諸将は皆同時に、勝資へと目を向け、そして驚愕の表情を浮かべている。佐久間・水野が寝返れば、戦は勝ちも同然というのは間違いない事実である。

(どうじゃ驚いたか。分からず屋共め)

 釣閑斎は満足そうに諸将を見渡した。  

 彼等は、頃合いを見てこの書状を披露する様、事前に打ち合わせていた。

 ― 家老共が織田との戦に反対することは明白でございます。然らば軍議の場でこの書状を示し、あやつらを黙らせてやりましょう ―

 二人の言葉に対し、一部の者は俯いて言葉を失っている。しかし、山県、内藤、馬場らは、動揺する素振りも見せず、鼻で笑うかのように冷静に意見した。

「何とも浅はかな考えよ、釣閑斎。信長は表裏比興の者と誰もが知っておる。あの手この手の計略は行ってこようが、まさか佐久間の裏切りなど信じようとは、笑止千万も良いところじゃ!」

 釣閑斎は目を怒らせ、呆れる昌景に凄んだ。

「何を申す! これが偽りの書状と申すのか! なんぞ根拠があろうか!」

「愚か者め、何故大局が見えぬのじゃ。信長は我らとまともに戦う事を恐れておるから、自らに都合よい戦地へ誘導してきておるのじゃ。敵の流言に惑わされ、破滅の道へ連れ込まれるなど、正に愚の骨頂であろうぞ」

「儂は、根拠はと聞いておるのじゃ! 虚偽だとどうして言い切れる! 祈請文を寄越せし者が、騙し討ちをしようと言うのか!」

 釣閑斎は声を荒げるが、ここで再び小宮山友晴が後方から大声を上げる。

「祈請状など只の紙切れだと申しているじゃ! あやつらが比叡山、長島願正寺に行った事を思い出してみよ! 神をも恐れぬ所業の数々が示しておろう!」

「……なにを!」

 釣閑斎はぐっと歯を食いしばった。

 何も知らぬくせに、こやつは何ということを言うのだ。敵からは続々と内応を求める者が後を絶たない状況である。佐久間の内情も透破から多数報告が届いている。奴らの裏切りは確信があるから言っておるに決まっているであろう。その上で祈請文まで送って参ったのだ。長年調略を行った相手が、祈請文の反故など出来ようか。苛立ちが次から次に湧いてくるが、分からず屋に今更仔細を説明する気にもならない。

 祈請状の反故など、考えるだけでも恐れ多い暴挙である。神仏への誓いを明言したこの文書の効力は、裏切りが日常であった戦国期においても絶大であった。信長も将軍義昭との交渉時などで度々祈請状を発行し、この力を利用している。迷信、まじないが横行するこの時代、人々は目に見えぬ超常的な力に救いを求め、安心を得ていた。

 釣閑斎からすれば、家老衆の反応こそ奇異であり、まともな考えであるとは思えない。

 起請文を見せれば、この場の全員を黙らせることが出来る決定打と思っていたが、予想に反した反応が多く、困惑する。勝頼に目をやると、硬い表情で家老等を睨みつけている。儂と同様の思いであろう。

 何とも言えぬ重い空気の中、後方の幕を潜るように、取次の小姓が恐々として現れた。そして背を丸く縮めながら、諸将の間を縫って勝頼の耳元まで来ると、小声で言上する。

「織田が、使者を寄越してございます……」

 勝頼は俄かに険しい表情を浮かべ、低い声で言った。

「通せ……」

 突如の使者の訪問を知った山県ら家老衆は、明らかに厳しい表情を浮かべ、場内にはこれまでと違った殺気が立ち込めた。そして小姓に引き連られて現れたのは、目鼻立ちの整った、精悍な若武者であった。

 釣閑斎の顔色が曇る。

(ふざけおって、交渉にこんな童を寄越すとは︙︙)

 刺さるような視線を周囲から浴びながら歩む青年は、勝頼の面前で膝を付くと、丁寧に礼を述べる。

「お目通りをお許し頂き、誠に感謝を申し上げます。私は織田家家臣、堀秀政と申す者」

 秀政は殺気立つ武田諸将を前にして尚、堂々とした態度で言った。

「では堀殿、我ら敵兵を目前に、織田は何をお望みであろうか」

 勝頼はその様子が気に入らぬ様子で、吐き捨てる様に言う。

「然らば、両軍御大将自ら大兵を率い参った上は、ここは正々堂々、西方は設楽ヶ原にて、両家全軍挙っての戦を所望したいと、我が主人からの希望にござります」

 秀政は低頭しつつも、鋭いまなざしで迫った。

 勝頼は目を怒らせ応える。

「言うではないか、お主共は我らを不利な土地に誘導し、何やら汚き罠を張り巡らせていると、物見から聞いておるぞ」

 勝頼の物言いに秀政は動じる事無く、多少大げさに返す。

「何をおっしゃいます。我が主人は、長篠城を取り囲み、背を向ける相手に戦を仕掛けるなど、卑怯な振る舞いを避けるべきと、このご提案をしているのですぞ」

 勝頼は大笑した。

「これは面白き事を言う! おぬし共は、昨夜から柵や土塁をせっせと作っているではないか! それで正々堂々というか!」

「陣所を築く事に何の問題がございましょう。それとも、天下に名高き武田軍は、たかだか木柵や土塁を越えられぬと申すのでございましょうか」

「何と申した!」

 勝頼は思わず大声を張り上げた。横に控える跡部勝資も声を荒げる。

「お主が如き小者の分際で、殿に大言を申すとは、無礼極まりないぞ!」

 場内は、抑え込まれていた殺気が放たれた様に、一触即発の空気に包まれた。しかし、秀政は不動で勝頼を見据えている。

 秀政は続けた。

「これは我が主人よりのご提案にございます。受けるか否かは勝頼様次第となれば、是非ともご熟考頂けましたら幸いでございます」

 そう言い、退去しようと立ち上がった。

 武田の諸将は色めきだった。ここまでの挑発と無礼を受け、只で返すにはいかない。

「……殿」

 釣閑斎は勝頼に目をやるが、彼は無言で片手を差し出し、制する。

「……(通せ)」

 秀政は諸将の動揺を他所に、慇懃無礼に去っていった。

 山県、馬場、内藤らは、険しい表情で堀の背中を見送る。

(……誠、忌々しき奴らだ……)

 秀政が去ると、釣閑斎と勝資、秋山昌成ら側近たちは、大声で勝頼に言い寄った。

「殿! あのような挑発をお見過ごしで!」

 勝頼は目を怒らせ言う。

「分かっておるわ! あのような侮辱許されぬ! しかしあそこであやつを斬り捨てては、武田は交渉事も出来ぬ、痴れ者だと吹聴され兼ねぬ。この屈辱は戦で返してやるわ!」

 勝頼は吐き捨てるが、視界の隅に一門衆を捉えている。彼らは織田の使者に憤慨している様子でもあり、そして勝頼の対応を見定めている様にも感じる。

 一方で勝頼の意見に慌てた馬場信春が悲痛な表情で諌止した。

「殿、屈辱と感じるのは我らも同じ。しかしながら、信長は我らを挑発する為、敢えてあのような使者を寄越したのです。戦となれば仕方ありませぬ。しかし、このまま長篠を落とせず敵陣へ向かうのはあまりに無謀。まずは後方の憂いを断ち、設楽ヶ原になど依らず、鳶巣山の砦を拠点に、山地から敵を迎え撃ちましょう。さすれば敵方は手を出せず、自ずと兵を退く事は、火を見るよりも明らかでございましょう!」

 その言葉に釣閑斎は憤る。武田を代表する家老がなんとも情けないことを言うのか。正面衝突であればむしろこちらの望むところではないのか。敵を過大評価し、戦機を失うなど以ての外。必死に叫ぶ姿がむしろ滑稽に映る。

 そして釣閑斎にも、一門衆の態度が気になっており、ここで優柔な対応は出来ない。

「殿! 何度も言いますが、焦る必要がございません! 奴らを打ち負かす好機は今後いかようにも訪れますぞ!」

 信春が続けた矢先、ここで秋山昌成が声を荒げた。

「なんと申すのだ! 我らはあのような小者に大言壮語を叩かれ、侮辱されたのですぞ! これを黙っていては、信玄公にも申し訳が立たぬと思いませぬか!」

 勝資、釣閑斎ももはや後には退けず、声高に続けた。

「そうじゃ! わざわざ敵から正面衝突を希望してきておるのに、何を躊躇う必要があろうか! 織田が二万もの大軍で来られる筈がなかろう! 仮に我らよりも多くとも、調略が進んでおる今、追い込まれているのは敵の方ではないのか!」

 二人の怒声は、反対する諸将の声を掻き消した。

 しかし、これに反応した小宮山友晴が、我慢ならぬと再び立ち上がり大音声で叫ぶ。

「この忌まわしき狐共が! この戦に出ては破滅への入り口であると分からぬのか! 無謀な戦を仕掛け、どうせ死ぬのならば、この場でお主らを叩き斬ってやるわ!」

 友晴は激昂し喚いたが、今度は勝頼が我慢ならぬと怒声を上げた。

「黙れ友晴! 度々の暴言もはや我慢ならぬ! 今すぐ陣所から出ていくがよい! さもなくばこの場で成敗いたすぞ!」

 もはや理屈ではないのだ。集結している家臣衆すべてに、大将としての威光と尊厳を示さねばならない。大喝したが、友晴は全く怯む事もせず尚何か叫ぼうとした。

「ま、待て! 落ち着かぬか!」

 しかし信春が咄嗟に口を挟んだ。

 信春は、激昂した勝頼が本当に友晴を斬り捨ててしまい兼ねないと思い、咄嗟に遮ったのである。そして何事か喚く友晴は、信春に同調した周りの侍衆にも両腕を抱えられ、引きずられる様に陣所を後にした。

 友晴が去り陣中が俄かに静寂に包まれると、釣閑斎は呆れた様に溜め息をつく。

「戯け者が……」

 場が落ち着き、その後じっと考え込んでいた勝頼であったが、徐ろに大きく息を吸うと声高に語りだした。

「皆の不満もあろう! しかし、あのような侮辱を受けて尚、決戦に及ばねば、武田は天下の笑い者である! 亡き信玄公に顔向けできぬぞ! ここで信長が出てきた事は好機の他ない! あやつらが我らを挑発した事、必ず後悔させてやろうぞ! 皆、腹を決めてはくれぬか!」

 勝頼は自身を叱咤する様に叫んだ。

「殿! 逸ってはいけませぬ! あくまで決戦を望むのであれば、長篠城を落としてからで遅くはありません! 落とせぬのであればこの城を諦め、再挙すべきでしょう!」

 信春らは、それでも何とか翻意させようと説得を試みる。

 しかし勝頼は、あくまで諫止を止めぬ彼らに対し、声を荒げ反論した。

「何を戯けた事を! あの挑発を受けて尚、逃げろと言うのか! もう良い! そんなに織田が恐ろしいのであれば、お主達だけで逃げるがよい!」

 釣閑斎は、勝頼の心情が理解出来た。無論諫止する家老らの意見も理解しているであろう。しかし冷笑するように様子を伺ってばかりの一門衆に示しを付けねばならない。あのような侮辱を受けて尚、戦にも及ばなければ後で何を言われるか見当も付かない。ようやく地盤が築き上げられつつある勝頼の威信が、再び揺らいでしまう。

 信春は激しく罵られると、厳しい表情で口を噤んだ。横に控える昌景も無念の表情で目を伏せる。宿老衆は臆病者と言われ反論は出来ない様子で、皆俯き拳を握りしめた。無論勝頼の心情も多少は察しているであろう。しかし一門衆への根深い葛藤は、幼少期から接してきた釣閑斎にしか分からない。何としても、いつかは彼らの手綱を握ってやりたいという思いと共に、強い劣等感を抱えているのだ。

「明朝、設楽原へ進軍致す! 各々準備を怠る事のないよう!」

 勝頼は怒声にも似た声色で指示を送ると、苛立つように陣所を去っていった。

 釣閑斎はその後を追い退出するが、ちらりと一門衆へと目を向ける。

 信豊、信廉、信君らは、無表情のまま意見もせず、各々が持ち場へ戻っていった。


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