【 三 】 軍議 小宮山友晴
天正三年五月十六日
ジメジメとした湿気が身に纏い、甲冑が蒸れ不快である。狭い陣幕の内に数十名の甲冑武者が肩を寄せ列座している為当然か、いや何よりも不快なのは佞臣共が揚々と戯言を並べ立てるからだ。誠、戦を知らぬ物言いに呆れるばかりであるが、それを満足気に受け入れる勝頼様も如何なものか。鬱陶しき爺め、一体何様のつもりであろうか……。
末席で軍議を見守る友晴は、怪訝な様子で家老衆の討論を窺っている。
武田軍は今、奥三河、信濃国との国境に位置する長篠城を包囲していた。ここは信玄死去と同時に徳川へ寝返った奥平貞昌が守る小城である。規模こそ小さいが、崖地と河川を活用した天然の要害であり、三河国防衛の要衝でもある。
岡崎城乗っ取りが未遂に終わった勝頼は釣閑斎の助言に従い、三河国攻略の足掛かりとして長篠城攻撃に踏み切った。総勢一万五千の軍勢を引き連れた背景には、徳川本軍の援軍との決戦を見越しての事は明白である。もしも家康が援軍に現れず、高天神城の様に見捨てられてしまえば、三河遠江における徳川の権勢はもはや崩壊するであろう。勝頼にとっては、この城を落とすだけであっても、野戦で徳川主力と戦うとなったとしても、どちらでも良いのだ。
「勇猛果敢で頼りになる主人であるが、ちと逸り過ぎではないか︙︙」
友晴は余裕の表情を浮かべる勝頼の横顔を見て多少不安になる。東美濃、遠江と連戦連勝を重ねる事を頼もしく思うが、二十九歳と未だ血気盛んな彼が奢り、逸るのではないかと懸念が膨らむ。
―およそ戦というものは五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす。五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず―
これは信玄の残した教戒である。要は奢りこそが戦の最大の敵という事であり、戦を重ねた信玄らしい慎重な考えであった。
信玄に従い戦場往来を重ねた友晴もまた、様々な武将の盛者必衰を目の当たりにしてきた。戦は数多訪れる戦機を鋭敏に捉え、速やかに行動に移す決断力がモノを言う。一瞬の読み違いで一挙に形成は逆転し、崩壊の起点ともなる。中国地方の覇者毛利元就は、厳島の戦いで陶晴賢の油断を突き、今では日本の中枢を支配する織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元の慢心を誘い、それぞれ相手の半数以下の軍勢で打ち破った。
どのような有利な展開であっても、過信慢心が敗北を呼び込むことを、戦では常に肝に銘じていなければなら無いのである。
友晴はぐっと奥歯を噛みしめる。
信玄の頃の様に、身近に近侍していれば何かと助言は出来るが、勝頼は信玄子飼いの重臣達を露骨に遠ざけている。そして信濃諏訪時代からの近しい者たちを側に置き、その発言力は日増しに高まっている。今では、側近以外の諸将達が何かしらの報告をする際、彼らの顔色を伺わなければ、何を吹き込まれるか分からない状況である。
「勝頼様、君子は耳の痛き進言を行う者程側に置くもの。口先でへつらう輩を佞臣と申すのですぞ」
友晴は信玄の遺命に従い、勝頼が奢らぬよう屡々諫言を繰り返していた。しかし友晴は遠慮というものを知らない。例え正論であっても、彼の自尊心を否定するような直接的な進言を繰り返していれば、遠ざけられて当然である。
当初は勝頼も父から寵愛されていた友晴の能力を客観的に評価し認めていたが、新当主となり、治世や家臣団の統制など様々な重圧を受け苦心する中、空気も読まずズケズケと正論を並び立てるこの男が目障りでならなくなっていく。
「お主の戯言をいちいち真に受けてはおれぬわ!」
勝頼はいよいよ我慢ならなくなり、友晴を本陣の護衛部隊である馬廻衆から除外し、前線の伝令役として遠ざけたのであった。
「おのれ、佞臣共が勝頼様に何事か吹き込んでおるな!」
友晴はこれが敵視する側近衆の謀略であると憤慨し、以来釣閑斎以下の側近衆とは特段険悪である。
勝頼は釣閑斎の助言に従い、五月八日には長篠を取り囲み攻撃に出るが、再三の裏切りに後のない奥平衆は頑強な抵抗を見せた。
「押すな! 押すな! 狭間から狙われておるぞ!」
先陣を進む足軽の怒声が響くと同時に、容赦の無い矢玉が頭上から雨のように降り注がれる。絶壁の頂上に聳える小城への攻撃は、幅六尺六寸(約二メートル)にも満たない狭隘な山道の一本道を登らざるを得ない。足軽たちは縦列に隊を作って攻め上るが、当然格好の的であった。
パァーンという炸裂音と共に、先頭の足軽がもんどりを打って坂を転げ落ちると、後に続く兵士達は恐れ慄いて動きが止まる。
「止まるな! 進まねば餌食になるばかりだぞ!」
「馬鹿を言うな! 銃口の正面を進めようか! お主が行け!」
後ろから進んでくる兵士達と揉み合いになると、その間も容赦の無い銃弾が四方から猛射される。身を伏せたくても味方ともつれ合い、左右は高く積み上げられた土塁と山の傾斜に阻まれ逃げることも出来ない。敵は城内だけでなく周囲の木々にも射撃の達者が隠れている様で、四方から飛び交う矢玉に大混乱である。寄せ手は戦果を見出だせぬまま、只ひたすらに死体を積み上げていく有り様である。
「これは窮鼠といったところか。中々手強き相手であるぞ」
使番として先陣と本軍を行き来する友晴は、雨のように降り注がれる敵の矢玉によって多数の被害が出来ている事に驚く。敵兵は多くとも五百程の小勢であろうが、その数に見合わない鉄砲を備えているようであった。
「何をしておる! 竹束を使い前に進まぬか!」
後方から物頭の叱咤が飛ぶ。竹束はいわゆる竹製の盾である。火縄銃の玉は丸型で貫通力には乏しかった為、竹束は有効な防御策であった。
友晴は果たしてどうなるかと、額に汗を浮かべ様子を伺う。
「進め、進めー!」
物頭の掛け声と共に、六尺程の小型の竹束を前面に押し並べた足軽が二人一組となって、一歩一歩地面を固める様にゆっくりと坂を登って行く。その背後を、身を伏せる様に数人の足軽が塊となって進んでいった。しかしその表情は不安に歪んでいる。
その瞬間、ドォーンという不気味な爆発音が響き渡った。これまでにない程大きく、地面を震わせる程の轟音である。そして同時にバァンという、耳をつんざく破壊音が響き、足軽は弾け飛んだ竹束もろとも二人揃って後方へ吹き飛ばされた。後ろに続く足軽たちも突き飛ばされる様に転げ落ちる。一町程先から見守っていた友晴でも耳を塞ぎたくなるような爆音であった。目線の先には、粉々に砕かれた竹束と、味方の肉片が散らばっている。
「なんと恐ろしき兵器を使うのじゃ︙︙」
味方は皆暫し呆然とする。敵は凡そ百匁(三百七十五グラム)もの重量のある弾丸を用いた、大筒と呼ばれる最新兵器まで装備していたのである。竹束も大筒の前では無力であった。
友晴は状況を見極め、踵を返すと即座に本陣の勝頼へ注進する。
「勝頼様、敵の火力は尋常ではございません。恐らく鉄砲を数百挺は装備しているでしょう。加えて、大筒という恐ろしい兵器も持ち込んでおる様です。あやつらは到底降伏は出来ない立場でありますから、死兵となって抗っております」
友晴は長年戦場往来を重ねてきたが、これほどの銃撃を目にした事は無かった。
武田軍にも鉄砲衆は存在し、数百挺は備えている。しかし発砲に必須である火薬は国内でほとんど入手する事が出来ず、海外からの輸入に頼らざるを得なかった為、元々海上の貿易路を持たない武田家では弾薬数も訓練も足りず、鉄砲を主力兵器として実戦投入する事は現実的では無かった。
勝頼はギリと奥歯を噛みしめる。
「仕方無し! 我攻めは控え、損害を最小に敵方を調略せよ」
「承知致しました!」
友晴は再び踵を返し、先陣へ一時攻撃取り止めを指示する。
(さすが若様よ)
内心は勝頼が強攻に出ないか不安であった。奥平は勝頼が世継ぎとなると即座に裏切った憎き相手である。奴らの背信が周辺国に動揺を与えた事は言うまでもない。更に、四郎では信玄には及ばないと即座に判断されたという事であり、何としても潰して置かなければならない相手であった。当然友晴も勝頼と同様に憤りを感じているが、敵の火力を目の当たりにした今、無謀な我攻めを行えば大きな被害を覚悟しなければならない。ここで疲弊し、もし徳川家康本軍が現れ捨て身の攻撃を仕掛けてくれば、かなり不利な戦となるであろう。
(儂が心配するまでもなかったか︙︙)
友晴は、もし強攻を続けると言われれば反対するつもりであったが、勝頼が感情に流されずに的確な判断力を有する事に、改めて敬意を示した。
そして五月十六日早朝、戦況が膠着し城攻め開始から八日程経った頃、勝頼から軍議の招集がかかった。
(膠着が続いておるが、何かあったか)
友晴は城側の索敵を随時行っていたが、敵に大きな動きはなかった。
東に臨む山々の頂から朝日がゆっくりと顔を除きはじめ、野鳥の平穏な囀りが周囲に響く中、陣幕の内には招集を受けた一門衆、家老衆他将校クラスの武将が居並ぶ。友晴も末席ながら侍大将として軍議に参加した。信玄死去により百足組は事実上解散となり、勝頼の側近からは遠ざけられたが、戦況把握に長けた友晴は、その後も使番としての地位は保っている。
「中々に手強き城であるが、そうこうしておる内に、織田も重い腰を上げたようじゃ。状況によっては総力戦も召さないと考えしが、皆の意見はいかがか」
(いよいよか)
友晴は心のなかで呟いた。
畿内の覇者として君臨している織田信長が、遂に徳川援軍へと出兵してくるというのである。織田の総動員兵力は十万とも言われ、国内最大規模の勢力を誇っている。
勝頼は織田など物の数では無いと言った様子で悠然と語っており、友晴はその様子を実に頼もしいと思うと同時に、やはり危うさも感じた。連戦連勝による奢りが生じているのではないか。友晴も織田軍など戦となれば負ける訳もないと自負しているが、それは綿密な戦略を以てしてである。勝頼の後ろを囲む側近たちが大きく頷いているのを睨みつける。あやつらが勝頼様を増長させているのは明白であると思った。
すると徐ろに、勝頼の前方に座る小男が低い声で話し出す。
「まずは城を落とすことを第一に考えるべきでしょう。家康は信長参陣まで動かぬでしょうから、時間はまだあり申す︙︙」
勝頼はムッと口をへの字に曲げた。
語り出したのは、武田家筆頭家老の山県昌景であった。齢六十を数える戦場往来を重ねた猛者であるが、身の丈は四、五寸(約一三〇~一四〇センチメートル)程の小男であり、口唇から鼻にかけ一部が裂ける兎唇の醜男である。しかしその身から湧き出る威圧感は、歴戦を重ねた周囲の武将共をも怯ませる威圧感を放つ。彼は具足を赤色に統一した赤備えの部隊を率い、その旗を見た敵将は、「信玄の小男が参ったぞ」と恐怖した。
友晴は昌景の意見はごもっともと思ったが、勝頼は不満そうである。
すると昌景の隣の馬場信春が続ける。
「左様。織田が動いたとなれば、早々に城を落とし、これに備えねばなりません。畿内を席巻している信長の総兵力は十万とも言われております。迎え撃つか否かは城を落としてから考えるべきでしょう」
両名とも、甲斐武田氏における筆頭家老として先代の当主武田信玄から重宝されていた。信玄の後年は山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信という四家老が軍務・政務において権勢を誇っていた。特に山県と高坂は元々百足組出身であり、後任となった友晴は彼らを尊敬し、信玄の台頭を支えた老臣としてその能力を高く評価している。
友晴が小さく頷いていると、徐ろに横から憎たらしい声色が発せられる。
「何を弱気な事を。織田が早々に参ったならばこれを迎え撃つのは当然であろう」
ふんと大きく鼻を鳴らしながら言ったのは長坂釣閑斎であった。
(またしゃしゃり出おった)
友晴の腹からは瞬時に憤怒が込み上げる。宿老衆も瞬時に顔色が変わり何事か言おうとしたが、それを察した勝頼は遮る様に言う。
「お主等の言い分も分かっておる。城を先に落とす事は当然であるが、思いの外頑強に抵抗しておる故、ここで無理に強攻すれば織田が参った時に不利になろうかと思っておるのだ」
友晴は驚いた。場合によっては城を残して敵を迎え撃つというのだ。それがどれほど危険か、勝頼が分かっていない筈が無い。友晴の思いと同様なのであろう、昌景は驚くように言った。
「勝頼様、逸ってはなりませぬぞ。まずはなにより城を落とす事をお考え下さい」
勝頼は言われると、尚不満そうな顔をしたが、腕を組んで黙りこんだ。
そんな事は分かっておるわ。しかし及び腰なのが気に入らぬ。もし城が落ちなくとも迎え打ってやろうという気概を何故見せぬ。家老がそのように弱気では、全軍の士気に関わるのだ︙︙、そんな声が聞こえてくるような不快な表情である。
すると勝頼の耳元で側近たちが何やら耳打ちしている。友晴はぐっと拳に力を入れた。小身の自分が差し出がましい事を言うことは出来ないが、戦を然程知らない側近たちの意向に、勝頼が靡いている事に焦りを感じている。
取り巻きの内、最近特に台頭しているのは長坂釣閑斎の他、跡部勝資、秋山昌成らである。勝資は元々信玄の側近も務めていた譜代衆であり、昌景や昌信に引けを取らない重臣であったが、勝頼の代となると出頭人として更に台頭していた。出頭人とは側近の中でも第一の寵臣として権勢を振るう人物であり、配下衆の取次ぎ役を務める為、勝頼への報告はすべて勝資の意思と裁量を受ける。先代では同列であった昌景らを蹴落とそうと、勝頼に色々と余計なことを吹き込んでいるに違いない。
更に気に入らないのが、秋山昌成である。秋山は、昌成の父万可斎の代に尾張から甲斐に流れてきた新参者であるが、母が諏訪御料人の侍女であった関係から、幼少期から勝頼と近しい人物であった。色白の顔につり上がった細い目が、何とも内心の狡猾さを現しているようで不快である。能力も経験も乏しい彼が、第一線で活躍してきた譜代衆を差し置いて側近として台頭している事に、友晴のみならず多くの者が嫌悪を抱いていた。
(あの細い二の腕を見てみよ。戦などまともに経験した事もない弱将めが。ああいった佞臣に限って、いざとなれば主人を捨て真っ先に逃げるのじゃ︙︙)
憤る諸将を他所に、彼らの暗躍によってか、信玄期の最要職であった山県、馬場、内藤、高坂といった家老衆までもが勝頼から遠ざけられている。当然彼ら家老衆を支持する層は多く、家中は心理的内紛状態と言っても過言ではない。
「ご無礼仕る!」
険悪な雰囲気が立ち込める軍議の中、慌てた物見の武者が、陣幕に姿を現す。軍議中に注進に入るのは余程の事であった。
「何事か」
勝頼は緊張した面持ちで問いた。
「敵方の足軽を捕まえたのですが、例の狼煙を上げた者だと言っております」
「誠か。ここに連れてこい」
勝頼は息巻いた。
二日前、突如長篠城北西の雁峰山から狼煙が上がった。勝頼は驚き、すぐに物見を急行させるが、既に蛻の殻であった。
「敵方の何事かの合図であろうが、今更何を企んでおる」
武田軍は怪訝に思い警戒を強めるが、今朝再び雁峰山から狼煙が上がったのである。
「同じ場所からじゃ! 犯人は近くにおるぞ!」
大人数で周囲を探索すると、城近くの無人となった村の民家から一人の足軽が見つかる。
「狼煙を上げたのはお主の仕業か!」
大勢の足軽が詰め寄ると、男は怯むこともなく声高に言った。
「そうじゃ! 儂は奥平の家臣じゃ!」
取り囲まれても物怖じしない男に対し、武田の兵士達は殴る蹴るの暴行を加え、捕縛した。
そして殺気立つ諸将が見守る中、男は後ろ手と両足を縛りあげられ、両肩を掴まれながら引き摺られる様に陣幕内に現れる。腫れ上がった顔面は流血に染まり、泥に塗れた質素な小袖と褌ひとつの出で立ちである。明らかに下級武士であろう。友晴は引き摺られながら横切るその男の顔を凝視するが、鋭い眼光は意思を失っていなかった。
連行された男は、中心の床几に座る勝頼の前に付き押され、顔から倒れこんだ。男はギリと歯を食いしばり、倒れながらも顔を上げ、睨みつけるように勝頼の顔を見据える。
「お主はどこぞの者じゃ。城の周辺で何をしておった」
勝頼は無表情で男を見下し、ゆっくりと問いかけた。
すると男は怯える様子も見せずに言う。
「儂は奥平が家臣、鳥居強右衛門と申す者。城の危急を伝え、徳川に援軍を頼みに参っておったのだ」
勝頼は黙って強右衛門の顔を睨みつけている。強右衛門は勝頼の目を見据えながら続けた。
「儂は数日前に城を出、岡崎へと参った。岡崎には徳川の兵に加え、織田の軍勢も雲霞の如く仰山おったぞ。既に数多の大軍が岡崎を出発しこちらに向かっておるであろう。儂は城の仲間たちにそれを伝えに戻りし次第じゃ」
睨み続ける勝頼に対し、強右衛門も目を逸らさず訴え続ける。
暫しの沈黙の後、勝頼は表情を緩め、フッと鼻で笑いながら話し出した。
「中々肝の据わった者だ。死ぬのが怖くないのか」
強右衛門は強い口調で応じる。
「城を出る時から命は捨てたようなものじゃ」
殺気立つ諸将が見守る中、勝頼は突如にこりと笑顔になった。
「見たところそれほどの身分の者でもなかろう。城が落ちるのは目前であるのにも関わらず、逃げずに主君の元へ戻ろうとするのは中々の忠義者ではないか」
強右衛門は突然笑顔で語る勝頼に対し、表情は崩さずも困惑する。勝頼は立ち上がると、倒れながら睨む強右衛門の前に座り込み、耳元で囁くように語り掛けた。
「どうじゃ強右衛門。これからお主を城兵皆が見える場所へ磔に掛ける。そこでこう叫ぶのじゃ、徳川は武田を恐れ、援軍を出す気はない。勝頼は降伏すれば城主共々助命するといっておる。このまま無駄死にせず、直ぐに城を明け渡せ、と」
強右衛門は表情を変えず、無言で聞いている。勝頼は続けた。
「もし儂の願いを受け入れし時は、お主を我が配下武将として取り立てよう。今の身分よりも破格の待遇じゃ。悪い話ではなかろう」
そう囁いた勝頼は強右衛門の目をのぞき込む。半ば放心した表情で沈黙した強右衛門は、しばらく黙った後、ぼそりと応じた。
「それは誠にありがたいことじゃ……」
半農民の足軽であろう強右衛門にとって、侍に取り立てられるというのは望外の恩賞である。小国の奥平家に一生仕えても得られない好餌を強右衛門に提示し懐柔したのである。
友晴も周囲の諸将も、このやりとりには内心驚いていたが、存外に悪い作戦ではなく、反対する声も上がらない。勝頼は優しい表情で応える。
「中々に聡い者じゃな。安心せよ。約束に違わねば、必ず当家の侍として取り立てよう!」そう言い立ち上がると、後ろの床几に勢いよく座る。
「磔の用意をせよ!」
勝頼は今や甲斐・信濃・駿河・西上野・東美濃という大国を支配する武田家の当主であったが、信玄在世の頃は戦場往来を重ねた、矢玉を恐れぬ命知らずの猛将であった。強右衛門の様な主人の為に命を懸け、処刑目前でも怯むことなく使命を全うしようとする無骨な戦国武者に好感を持ったのである。
地面に顔を押し込みうなだれる強右衛門は、兵士に首を掴まれ立たされると、繋がれた縄に引き摺られるように、陣所から連れ出された。
友晴は改めて感心した。通常であれば強右衛門は城兵が見守る中、より残忍な方法で処刑されるモノである。いつまでも抵抗していればこうなるぞという脅迫は、戦国の世では日常であった。しかし勝頼は、無慈悲で残忍な行為を極力嫌った。過去抵抗を続けた飯羽間城の遠山友信や、高天神城の小笠原氏助も同様の手段で懐柔し、実際に大禄で配下に取り入れている。両城の寛大な措置は周辺諸国にも大きく喧伝され、同時に武田に対抗する国人衆は激減し、勝頼の権勢は一層高まったのであった。
「勝頼様は人道と武道を弁える立派な大将よ」
友晴は改めて若き主人に敬意を示すのであった。
五月十六日昼
長篠城西岸には豊川を挟み、見渡しの良い丘が広がっている。友晴は槍を片手に、目を細めながら城方を望んでいた。梅雨の生暖かい風が丘から城へ向かい強く流れている。丘の頂上にはすでに磔台が用意されており、丘下の本陣から磔へと向かう様に数多の軍勢が規律正しく整列している。方々に掲げられた旗指物がバサバサと音を立てるなか、泥と血にまみれ、褌のみの裸体にされた強右衛門は、武田の兵に引き摺られるように丘を登る。友晴はその様子を険しい表情で見守る。強右衛門は一切の抵抗を見せないまま、項垂れながら磔台に縛り付けられた。
「これでこの城も降伏するであろう。誠、計略も長ける大将よ」
友晴は強右衛門の哀れな様子をじっと見守っている。自分であればどうするであろうか。武士としての恥辱を受けても尚、屈するべきか。いや、捕縛される前に暴れまわって討ち取られてこそ本望であろう。生き恥を晒す事は何よりも耐え難い苦痛である。勝頼の寛大な措置には感心しているが、自分はどのような立場においても、主家を裏切ることは到底できないと改めて思う。
「この男を否定する訳では無いが、儂は最期まで武士道を貫き通すであろう︙︙」
複雑な思いで強右衛門の背中を見守っていると、対岸の城内から声が上がるのが分かった。
「あれは強右衛門ではないか!」
一人の叫び声が聞こえると、城内は一斉にどよめいた。
「捕まってしもうたのか……」
「援軍はどうなったのじゃ」
「武田は強右衛門を見せしめに殺すつもりか!」
城兵たちは絶望的な状況に落胆し、悲鳴のような声がここにまで届いてくる。するとこれを見計らったかの様に、馬に乗った勝頼が数人の近習を連れ、丘の下から颯爽と登ってくるのが見えた。城側を恫喝すような険しい表情を浮かべ、ゆっくりと磔台の前で止まると、項垂れる強右衛門に話しかけた。
「覚悟は良いな」
両手足を広げ、十字に組まれた柱に縛り付けられている強右衛門は、無言で頷いた。風は一層強く吹き流れ、砂や埃が裸の強右衛門へ容赦なくぶつかる。勝頼はにこりと笑うと馬を降り、正面に置かれた床几へと、ゆっくりと腰を掛けた。
「始めよ!」
勝頼の合図と共に、屈強な兵士が二人、強右衛門の左右に立った。周囲を取り囲む諸将の緊張感も一層高まる。そして頃合いを見計らった右側の兵士が、催促するように彼の脇腹を槍の柄で突いた。強右衛門は一瞬の間を置き、胸を張ると、大きく息を吸い込んだ。勝頼他、居並ぶ兵士たちはじっと強右衛門を見つめている。そして強右衛門は吸い込んだ息を一挙に吐き出すように、大音声で叫びだした。
「城の皆! 儂は使者として岡崎へ参った鳥居強右衛門じゃ! 城の皆に伝えたき事がある故、よく聞くがよい!」
強右衛門の声を聞いた城兵達は大きく落胆した。城内の動揺は、磔場にまで伝わってくる。
勝頼が厳しい眼差しで見つめる中、強右衛門はそっと目を瞑り、二度三度大きく深呼吸した。そして俄に目を開くと、再び大音声でこう続ける。
「あと二、三日の内に織田徳川の大軍が援軍に参る! それまで諦めずに持ちこたえるのじゃ!」
よもやの言葉に、脇に控える兵士は慌てて叫んだ。
「な、何を言う! 乱心しおったか!」
憤怒した兵士は、構えていた槍を力一杯強右衛門の脇腹に突き刺した。
「ま、待て! 殺すでない!」
勝頼は驚き叫んだが、血相を変えた兵士の耳にその声は届かない。
「あと、もう少しの辛抱じゃ!」
強右衛門は口から血を吐き出しながらも続ける。
「まだ言うか!」
周囲を囲んでいた兵士たちも激昂し、数人掛かりで執拗に槍を突き入れる。地に染まりながらも暫しの間叫び続けていた強右衛門は、遂に息絶えた。
「待てと言うのに……」
立ち上がって制止していた勝頼は、血に染まる強右衛門を見ながら暗い表情で呟いた。
莫大な恩賞を捨て、そして命を捨て使命をまっとうした強右衛門の勇士を見た勝頼は、この勇者を殺すのは惜しいと思ったが、もはや遅かった。
友晴はその様子を呆然として見つめていた。気付けば、力一杯に握りしめた拳はブルブルと震え、血が滲んでいる。
(これこそが武士の真髄ぞ︙︙)
友晴は自分の追い求める武士道を貫き通した強右衛門の勇姿を目の当たりにし、凄まじいまでの衝撃を受け、そして同時に嫉妬をも感じた。
強右衛門は半農半士の足軽である。戦では雑兵という扱いで、武士と違い、仕える主人に忠誠など持っていない。当時の雑兵は、味方の形勢が不利と見れば忽ち逃げ出す、或いは変心し、それまで横で戦っていた味方の首を取って手柄とするという事も珍しい事ではなかった。日々貧困に苦しむ百姓たちは、大義の戦などには興味がなく、眼の前の恩賞だけが全てであったのである。
だからこそ、この強右衛門の行動は誰もが驚き、そして称賛した。
忠義などという都合の良い言葉ではない、自分自身への誇りの為に命を捨てたのだ。これは主人に忠誠を誓う譜代の臣であっても簡単に出来ることではなかった。命の可愛さはいつの時代でも同じである。故に育まれたのが、己に恥じぬ行為、廉恥の精神なのである。志の高い武士ですら難しい、この行動を体現出来る者を人々は称え、羨望するのである。
「これこそが、この世を象徴する武士の志である」
そう友晴は信じて疑わなかった。
その時、友晴の耳元をヒュンという鋭い空気を切る音が通過した。同時に前方の地面が大きく音を立て破裂する。城兵達が強右衛門の処刑に怒り、一斉に鉄砲を撃ちかけてきたのである。城主の奥平貞昌は城兵を叱咤する。
「強右衛門は命を賭して使命を果たせしぞ! 我々も強右衛門の勇士に応えるのじゃ!」
息を吹き返した城兵は、喚声を上げ磔台に群がる武田軍を狙撃した。
「勝頼様! ここは城方の射程内でございます! 急ぎ陣所へお戻りください!」
友晴は慌てて勝頼を促し、丘から退避させた。急かされる勝頼は、慌てることなくゆっくりと退却する。徐ろに振り返ると、磔台で血に染まる強右衛門を見ながら独り言を呟いた。
「名こそ惜けれ……か……」
勝頼の背後を護衛しながら退避する友晴は、勝頼の呟きを聞き、グッと唇を噛みしめた。
(殿も儂と同じ気持ちなのであろう︙︙)
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