表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

【 二 】 長坂釣閑斎

「殿、この様な書状が届きました」

 釣閑斎は懐から書状を取り出すと、正面に座る主人勝頼にゆっくりと差し出した。

 時刻は亥の刻頃であろうか。月明かりが障子の隙間から漏れている。人払いした室内には、長坂釣閑斎と若き主人が神妙な面持ちで対座していた。部屋の隅に置かれている行灯の炎が、壁に浮き上がる二人の影をゆらゆらと揺らしている。

 勝頼はゴクリと唾を飲み込み、筋張った腕を伸ばすと、ゆっくりと書状を受け取った。緊張した表情でゆっくりと目で文字をなぞっていたが、その瞳は徐々に大きく開き、興奮を隠しきれず左右に何度も読み直している。そして書状を握る太い腕を下ろすと、うすらと笑みを浮かべながらこう言った。

「これで織田も年貢の納め時というべきか」

 釣閑斎は長く伸びた白い顎髭を揺らしながら、大きく頷いた。年の差は三十程になろうか。齢六十を数える釣閑斎には、筋骨逞しい屈強な若武者を前にしても、子供の様に目を輝かせる姿に慈しみを感じてしまう。改めてご立派になられたなと感傷に浸っていると、勝頼はまるで父親に助言を請う様に聞いてくる。

「これはいち早く動くべきと勘考するが、じいは如何考えよう」

 釣閑斎は表情を引き締め、戒める様に応える。

「左様、善は急げと申しますが、この密事が漏れぬよう慎重に行うことが肝要ですぞ」

 勝頼は鋭い眼差しを向け、ゆっくりと頷いた。

 襖の隙間から、生暖かい風が流れ込んでくる。昼間は城下の活気が微かに届いてくるが、今は夜虫の羽音が静かに響く程度の静寂が広がっている。

 武田家の本拠地躑躅ヶ崎館は、甲府盆地北部に位置し、周囲を外濠・内濠・空濠の三重構造で囲われ、東・中・西曲輪から形成された、東西約二〇〇メートル・南北一九〇メートル程の荘厳な居館である。館の背後に備える要害山城を北端に、相川扇状地に沿って南北に城下町を形成する、甲斐信濃駿河上野と版図を広げる太守武田家に相応しい、大規模な町並みであった。

 釣閑斎は、四男として不遇な待遇を受けてきた勝頼を幼少期から何かと気に掛けており、当主となった現在も親密な関係を維持している。

(大国の大名として腰が座って参りましたな……)

 釣閑斎は感慨深く心で呟き、彼の曇りのない真っ直ぐな瞳を見つめていた。

 勝頼は幼名を四郎と言い、正当な後継者として養育された人物ではなかった。長兄には信玄嫡男の義信がおり、勝頼の母は信濃の豪族、諏訪頼重の娘諏訪御料人という側室であった。

 天文十二年(一五四三年)当時、信濃国統一を目論んでいた信玄は、それまで同盟関係であった諏訪氏の当主頼重を裏切り滅ぼすと、その勢力圏及び配下衆を手中に入れる為、頼重の娘を自らの側室としたのである。家臣衆の多くは、信玄が諏訪御寮人を側室に迎えると聞き猛反発した。一門衆である武田信廉や穴山信君はあからさまに訴える。

「敵方の娘を室に迎えるなど言語道断でございましょう! 何卒お考え直しを!」

 しかし信玄はこれらの意見を一蹴した。

「何を言うか! 諏訪の家は、代々諏訪大社上社の大祝おおほうりを世襲する神氏(諏訪明神直系の末裔)! この名族と武田が血縁を結ぶ事に何の憚りがあろうか!」

「しかし、敵方の娘を側室にするとは、あまりに横暴では! 戦で家族を失った配下共は動揺いたしますぞ!」

 しかし信玄は頑なにこれを拒絶した。

「儂が決めた事だ! 誰にも指図させぬぞ!」

 彼は美貌を持つ諏訪御寮人を、何としても手に入れたかったのである。

 そして諏訪御寮人は、泣く泣く父を殺した仇の側室となる事を強要され、そして天文十五年(一五四六年)息子の勝頼を生んだ。

 釣閑斎はこの時三十歳。武田家筆頭家老であった板垣信方麾下の足軽大将として上原在城衆の一人であった。

「諏訪の血を引く若君か。母君もお気の毒であるが、ご子息も何かとご苦労されそうじゃなぁ……」

 板垣は諏訪氏滅亡後の諏訪郡代として諏訪衆をまとめる立場であった為、釣閑斎も自ずと諏訪家の人間との関わりも多くなる。諏訪家の遺臣の中には、武田憎しという感情をひた隠し、無念の想いで恭順している者も多くいる。一方で武田家の中でも、敵国であった諏訪家に対する心象は芳しくない。区々たる感情の入り交じる両家の間で板挟みとなるであろう勝頼が生まれたことを知ると、複雑な思いとなった。

 そして釣閑斎の予想通り、勝頼は気苦労の多い幼少期を送る事となる。誕生後は母と共に居城である甲府の躑躅ヶ崎館で育ったが、元は仇敵であった諏訪家の血縁に対し、家中の当たりは強かった。

「まったく、諏訪の娘とその息子など信玄公も人が悪いと思わぬか」

 信玄の従兄弟である穴山信君は嫌味ったらしく釣閑斎に陰口を言う。

「い、いえ私めは信玄公のお考えに従うまでですので︙︙」

「ふん、つまらぬ奴だ」

 信君は釣閑斎に限らず家中の様々な武将に陰口を広め、勝頼は信玄近習や一門衆の眼底に潜む、蔑みを日々感じながら幼少期を過ごしていた。

 そして天文一七年(一五四八年)に板垣信方が戦死し、後任の諏訪郡代に抜擢されていた釣閑斎は、諏訪衆との取次などで度々躑躅ヶ崎館を訪れる事になると、その度に哀れなこの四男に声を掛けた。

「四郎様、母上はお元気であろうか。諏訪衆は皆四郎様が早く元服され、諏訪に還って来られる事を待ちわびておりますぞ」 

 未だ五歳程の幼子であるが、勝頼は凛として応える。

「左様か。私も立派な武士となって戻る故、宜しく伝えてくれ」

 釣閑斎はグッと胸から熱いモノが込み上げるのを感じる。

(なんと健気な事よ)

 近習の陰口など不遇を受けている事を同僚からそれとなく聞いていた。しかしそれを一切表に出さずに、気丈に振る舞う童子が哀れでならない。

(諏訪に戻られし時には、母子共一層守り立てていこう……)そう心に決めていた。

 しかし、世は無情と言うべきか、弘治元年(一五五五年)になると勝頼の母諏訪御料人は病に倒れ、幾ばくもしない内に死んでしまう。父を殺した張本人の側室となり、そして家中では敵国の息女として蔑まれた彼女は、息子勝頼を愛し慈しんできたが、失意を抱えたまま病死したのであった。二十五歳という若さであった。

 若い時から諏訪家に関わってきた釣閑斎は、御寮人が不憫でならなかった。

(儂らの前ではいつも気丈に振舞っていたが、内心は常に悲愴に満ちていたのであろう)

 今でも物憂げな彼女の表情が忘れられない。

「四郎、今後どのような扱いを受けても、決してお家を恨んではいけません。信玄公の命に従い、心身共に強き武将になるのですよ」

 病床で息子に語りかける彼女は、混沌とした戦国期を象徴する強い女性であり続けた。

 必死で涙を怺え、母の言葉に何度も頷く勝頼は、その時九歳。泣きわめいても許される歳である。そんな勝頼の様子を見て思わず涙が込み上げるが、同時にこの若君を生涯守り立てて行こうと、改めて心に誓うのであった。

 そして永禄四年(一五六一年)、勝頼が十五歳になると、信玄は当初の目論み通り信濃国伊那谷の高遠城主を任せ、諏訪四郎勝頼として諏訪氏の後継をさせるに至る。

「四郎様! お待ち申し上げておりましたぞ!」

 釣閑斎はじめ、麾下の諏訪衆も勝頼の帰還を喜ぶ。

「じいよ待たせたな! 儂は武田に四郎ありと全国に名を轟かせてやるわ!」

 彼は未だ幼い顔一杯に笑顔を作りながら、声高に応じた。

 武田、諏訪両家の懸け橋として勇敢な青年に育った勝頼は、体躯に優れ十五歳にして大人顔負けの膂力を誇った。武芸鍛錬に熱心で、軍学は父信玄に幼少から叩き込まれていた。


 釣閑斎は、キラキラと目を輝かせる勝頼の眼を見つめながら、過去を思い出し感傷に耽ける。武田家の今後を決める重要な密談の場ではあるが、彼の成長をなぞる様に、ふと彼の初陣の日を思い出した。

 それは永禄六年(一五六三年)の事であった。

 当時信玄は、上野国の豪族長野氏を殲滅するため、居城である箕輪城へと攻め入った。

「四郎様はこの戦が初陣でございます。くれぐれも無茶はなさらぬ様に」

 釣閑斎は血気盛んな十七歳の若武者に対し、口を酸っぱくして忠告したが、当然素直に言う事を聞く様な者ではない。

「じい! あそこに物見が参っておるぞ! 儂が捕えてやろう!」

「お、お待ち下され! 勝手な行動は慎まねば……!」

 釣閑斎が叫ぶも束の間、勝頼は単騎馬を飛ばす。

 敵兵は気付いて逃げ出すが、追ってくるのが逸った単独の若武者と分かると踵を返す。童子相手に逃げたと言われては面目を失うと思ったのであろう。

「小癪なわっぱ! 死に急ぎたければ参るが良い!」

 敵は小高い丘の上で止まると、馬を降り、槍を扱いて態勢を整えた。堅牢な当世具足に荘厳な兜を被った屈強な騎馬武者である。相応の身分の侍である事は間違いない。

「手出し無用であるぞ!」

 勝頼は後を追いかけてくる釣閑斎ら従者達に向かって叫ぶと、速やかに馬から降り、躊躇すること無く敵方へ突っ込んでいく。

「若! 待ちなされ! 無謀に過ぎますぞ!」

 息を切らせて追いかける釣閑斎は、喉も裂けよと大声で諌めるが、両者は丘の上でお互いに体当りすると、そのまま揉み合うように丘の先へと転げ落ちていってしまった。

「な、なんたる事! 皆! 急ぎ手助けせよ!」

 釣閑斎は数人の従者と共に、慌てて丘へと駆け上がる。すると眼下には、既に敵を組み伏せ、脇差を首筋へ押し当てている勝頼の姿があった。

 勝頼は息絶えた敵の首を掻き切ると、片手に大きく掲げて言う。

「どうじゃ見たか、じいよ! これで儂も一端の侍じゃ!」

 釣閑斎はあまりの出来事に呆然とするが、掲げられた敵の首を見て更に驚愕する。

「若、その首は長野家で名の知れた藤井豊後かと。これはとんでもないお手柄にございますぞ!」

 嬉しさなのか、勝頼が討たれなかった事に対する安堵からなのか、釣閑斎は声を震わせて褒め称えた。顔面を返り血に染める勝頼は、今しがた殺人を行った後とは思えぬ屈託の無い笑顔を振り撒き、声を上げ喜んでいた。


 遠い目で振り返っていると、勝頼は不意に問いてくる。

「段取りは進んでおる。あとは信長めをどうおびき寄せるか。何よりもまずは憎き奥平を叩き潰さねば気がすまぬぞ」

 釣閑斎は緩んだ表情を改め、あぐらを組み直しながらゆっくりと応えた。

「焦りは禁物でありますが、長篠をこのまま放っておいては国境に配する者共の士気も下がりましょう」

「そうであろう。表裏比興の痴れ者には目にもの見せてやらねばならぬ!」

 釣閑斎は大きく頷く。

「仮に長篠攻めに織田が援軍で参れば、この書状の通り、殲滅の好機となるやも知れませぬ故」

 目を光らせながら低い声で応じると、正面の勝頼は満足そうに頷いた。

 手渡した書状は、織田家の家老佐久間信盛及び水野元信からの密書であった。二人が夜間に密議を交わす程の書状の内訳はこうである。


 ――― 織田信長からの圧政に長年耐えてきたが、ほとほと愛想が尽きた。今信長は、徳川への面目を保つために武田家討伐の機会を探っている様であるが、本音では分が悪いと思い、浮足立っている。この様な優柔で弱気な主人とこれ以上共にし、滅亡する気は無い。勝頼様は古今比類ない勇将と織田家中でも評判であるから、今度戦になれば、我らは武田家へ内応し、信長の首を土産として持参しましょう ―――


 佐久間といえば、織田家内で最大の勢力を持つ家老であり、尾張の小国主時代から現在までの信長の台頭を支えた譜代の臣である。水野元信もまた、尾張知多郡東部から三河碧海郡西部を領し、その石高は十万石を超える織田軍団の中枢を担う武将である。信元の異母妹は、徳川家康の母である於大の方であり、彼は家康の伯父にあたる人物であるが、長年織田側として尾張三河の国境に睨みを利かせてきた。水野家の勢力基盤は大きく、半ば独立勢力の体裁で織田家に所属しているのである。これらの書状が事実であれば、信長は圧倒的不利な立場となる。

「……しかし、これは信ずるに値するであろうか。出方を間違えれば、我らも只では済まされまい……」

 勝頼は不安な眼差しで問うが、釣閑斎はこの書状に対しある程度の手応えを感じていた。

「ご安心下さい。佐久間の元へは五郎左衛門が潜入しております。あやつの報告でございますとなれば、間違いないかと……」

 釣閑斎が織田徳川家に送り込んでいるのは、五郎左衛門という透破(忍者)であり、武田家内では器量者と名の知れた存在であった。

 透破とは亡き武田信玄が組織した隠密集団であり、家中でも忠誠心が強く、武略に優れ、謀略に長ける者が選抜された精鋭部隊である。今では三百人規模と言われる透破が全国の大名家に潜伏し、工作活動を行っている。彼らは僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行い、他国の内情や家臣の動向、保有兵力などをはじめ、城主の能力や趣味嗜好、城や砦の造りまでをも把握している。釣閑斎の元には、彼らから日毎に織田軍内部における軋轢や叛意の燻りの報告、謀反を匂わせる者達が続々と仲介されて来ている。

 無論すべてを真に受ける訳にもいかず、虚々実々の報告を取捨選択しているが、透破の中でも特に評判の働きぶりである五郎左衛門から、佐久間水野の裏切りという戦況を覆す程の報告を受けると、流言であろうと一蹴する訳にもいかない。

 事実であれば小躍りするほどの大手柄であるが、やはり簡単には納得できず、五郎左衛門を呼び出し問い詰める。

「佐久間は信長に長年付き添う最長老的存在であろう。さすがにその様な者が裏切るとは俄に信じがたいが︙︙」

 しかし五郎左衛門は冷静に説いた。

「私は長年織田の内部調査を行って参りました。佐久間は確かに信長の第一の重臣でございますが、近年ではその関係にも綻びが生じております。信長が若き頃から付き従ってきたが故、何かと諫言する機会も多く、屡々勘気を被っております。特に最近では、いつまでも若様扱いするこの者を信長は煙たく思い、遠ざけている状況にある事は、内部の者であれば薄々感じ取っております」

「ううむ︙︙」

 釣閑斎がやはり納得いかぬと、眉間に皺を寄せ腕を組む。すると五郎左衛門は続けた。

「近年信長は外様の者を抜擢し重宝しております。羽柴、明智といえば殿もお聞きになっているでしょう。譜代衆がこれを懸念することは至極当然かと」

 確かに五郎左衛門の言うことは理にかなっている。

 信長は勢力が拡大するに連れ独裁色が強くなっており、人事政策軍事すべてを自らの指図で動かしているという。寄親・寄子制度を敷く武田家と違い、当主のさじ加減ひとつで配下武将の運命を決めることが出来る。身分の低い者は当主自らの裁量により望外な出世が出来る為がむしゃらに働くが、既に大身となっている武将衆は、手柄が少ないと直ぐに切り捨てられるのでは無いかと、戦々恐々としているのが実情であろう。

 釣閑斎の若干の表情の緩みを感じてか、五郎左衛門は早口に続けた。

「水野は更に難しき立場にございます。彼らは元々織田家と同盟関係であったにも関わらず、今では配下衆と同等以下の扱い。これを不満に思わぬ訳はございますまい」

 水野信元もまた、信長の台頭を支えた国主であるが、巨大化した織田政権内部において彼の立場は微妙なモノとなっているらしい。元々は尾張国を織田家と分かつ形で支配しており、同盟国という側面の強い関係であったが、信長の勢力が畿内へと拡大するにつれ、本国膝下に根を張る水野家の存在が、信長にとって目障りになってきているではないかと、織田家内でまことしやかに囁かれていると言うのである。

 水野家の勢力地盤は三河国にも及んでおり、徳川家が武田に潰されれば、次に矢面に立たされるのは自分達である。勝頼後継後も武田に連敗が続いている状況を鑑みれば、水野家内において「織田徳川に身を委ねる事を再考すべきではないか」という考えが出ていてもおかしくはない。

 この状況をいち早く察知した五郎左衛門は釣閑斎の許しを得て、裏切りの暁には水野家へ三河尾張国の一部を、佐久間家へは尾張の一部と美濃国を与えると、好餌で釣ったのである。

 釣閑斎は考え込む素振りを見せているが、内心は固まりつつあった。手元にはこの二将以外にも、多くの織田家武将から密書が届いている。

(すべてが事実と言えぬまでも、織田の足並みが乱れているのは間違いなかろう)

 釣閑斎が返答する間もなく、五郎左衛門は最後に付け加えた。

「ご安心を。織田は急速に勢力を拡大した為、忠誠を誓う臣下は数少なくございます。加えて、敵味方を問わず苛烈な仕置をすることで有名でございますとなれば、あの者から逃げ出したいと思う者が続出するのは必定かと存じますぞ」

 釣閑斎は、決心する様に大きく頷いた。

「お主ほどの者が言うのであれば、間違いはなかろう」

 危険な掛けとなる可能性はあるが、織田に鼻を明かす千載一遇の好機であり、勝頼の更なる躍進に繋がる分岐点となろう。

 釣閑斎は、ここが一世一代の好機であると、膝を進めて戦略に取り込む様提案するのであった。


 ――――――


「左様か。お主がそう言うからには間違いはあるまい」

 報告を聞いた勝頼は、何度も大きく相槌を打った。

 釣閑斎は無事彼を説得できた事を喜ぶ。連戦連勝を続ける武田が、織田に引導を渡すまたとない好機である。もし勝頼が何色を示せば、何と説得しようかと様々想像していたが、思いの外すんなりと受け入れられた。

 作戦を聞き、意気上がる勝頼を見ると、彼の更なる彼の躍進を願う気持ちが一層込み上げる。二人は無言でお互いに頷きあった。

 行灯の灯りに惹き寄せられた一匹の蛾が障子の隙間から入り込み、ひらひら二人の間を待っている。

 釣閑斎は、その蛾を目で追いながら、ここで一つの気掛かりというか、不安を吐露した。それは、勝頼の唯一の弱点とも言える。

「この機を逃してはなりませぬ。いち早く行動を起こし成果を挙げ、何かにつけ口煩き穴山や逍遙軒らを黙らせてやりましょう」

 釣閑斎は息巻いて促すが、勝頼は歪んだ顔で口早に応えた。

「じいよ、分かっておるぞ」

 自らを鼓舞するような力強い口調であったが、一門衆の名を言った矢先に表情が歪んだのは直ぐに分かった。東美濃国の征伐、高天神城の攻略と、破竹の勢いで活躍を見せても、勝頼を蔑む冷ややかな内心を眼底に宿し、嫌味で横柄な態度を改めない一門衆への蟠りは募る一方であった。勝頼は、もっと成果を見せつけてやらねばという、焦燥にも似た思いを常に抱えているのであろう。

 釣閑斎は今一度鋭い表情で、勝頼の目の奥を覗き込む。

(あやつらの鼻を明かす最大の好機じゃ。何としても成功させねばならぬ)


 勝頼は勇猛果敢で武略にも長ける一方、人心にも配慮できる優しさも持っている優れた将器である。これは不遇な幼少期を送った故、弱者の痛みが分かるといったところであろうか。その為降将にも寛大で、高天神城の戦いでは、捕虜に対し望む者には徳川への帰参を赦した。敵味方多くの武将がこれを称えたが、武田信廉や穴山信君などは、勝頼の対応に不満を漏らしていた。

「誠寛大な事も良いが、小賢しき徳川の連中を恫喝する気概も必要ではないか。このままでは奴らに甘く見られようぞ」

 勝頼の耳に届く様に不満を語られると、釣閑斎も激しい憤りも感じるが、同時に彼らの言い分も理解出来、若干の懸念を感じてしまうというのも本音である。弱肉強食の戦国時代である。時には峻厳な処罰を行わなければ敵味方に示しがつかない。即ち舐められるという事である。甘く見られた当主には寝首を掻かれる危険が付き纏う。

「お優しさは利点でもあり、欠点でもあるか︙︙」

 ため息交じりに一人呟く。勝頼を幼少からよく知る釣閑斎は、彼の心の奥にある弱さを知っている。元々当主となるべくして育っていない為か、どこか決断力に乏しい部分がある。特に一門衆には、釣閑斎が驚いてしまうほどに顔色を伺っていた。これは諏訪家の血筋という出自に後ろめたさがある為であろう。

「四郎様は信玄公より直々に後継者として指名され武田家を受継がれました。これを誰が咎められましょう。自信を持ち、当主としての威厳を配下に示す事が肝要ですぞ」

 釣閑斎は、あやつら如きの小言など気に留める必要もないと、事ある毎に助言していた。

 勝頼の勢威は既に信玄をも凌ぐ程となり、周辺諸国にも恐れられる存在として認知されつつある。

 畿内を席巻する織田信長でさえも、上杉謙信に宛てた書状の中で「四郎若輩に候といえども、信玄の掟を守り、表裏たるべきの条、油断の儀なく候」(勝頼は若いが、信玄の掟を守り、表裏を心得た者であり、油断ならぬ)と評価しており、本心では直接対決を望んではいまい。

 家中においても、当初は怪訝な様子で勝頼の力量を推し量っていた連中も、多くが恭順の姿勢を見せているのである。そして勝頼自身も、当主としての自信を少しずつ強めている。ここでさらなる成果を示せれば、未だ懐疑的な視線の見え隠れする一門衆をも、黙らせる事が出来るであろう。


「四郎様の心情を誰よりも理解しておるのは、儂しかおるまい︙︙」

 釣閑斎はそんな彼を更に躍進させる為、今後の行動を起こすにあたっての考えを巡らせる。

 まずは裏切り者の奥平守る長篠城を殲滅せねばならない。奴らの離反は、新当主となった勝頼の顔に早速泥を塗り、周辺諸国への動揺を招いた。

 今三河国の最前線である長篠城を守っている為、大軍で速やかに攻略し徳川侵攻の足掛かりとする。しかしこれを織田信長が放っておく訳にもいかない。恐らく援軍に来るであろうから、両軍対陣に持ち込んだ後、佐久間、水野が裏切れば、忽ち家康、信長の首も討てよう。

 釣閑斎の表情は徐々に自信に満ち溢れてくる。

 信長は今、本願寺衆という強大な宗教勢力と敵対している。

 本願寺の本拠地大阪は数万の兵力と門徒を抱える要塞都市であり、現状手も足も出せない状況である。更に朝倉氏を滅亡させ奪い取った越前国は、織田の治世が定着する前に一向一揆の反撃に合い、事実上手放していた。伊勢長島の一向一揆衆に対しては、数万人規模の殲滅作戦を行ったが、あまりに苛烈な仕置に対し領内は動揺している。

「信長が徳川の援軍を出せても、数千から一万人程度でしょう」

 度々届く透破達の報告はこうである。五郎左衛門らの報告により、畿内の情勢にも精通していた。仮に信長が無理を押して数万の大部隊を率い現れようとも、畿内の情勢を鑑み、戦意は乏しいであろう。昨年の勝頼による東美濃侵攻の際にも、信長は凡そ三万の兵で救援に来たが、戦を避け、六千の山県昌景による威力偵察部隊に恐れをなし即座に退却した。この時昌景の追撃を受けて損害を出している。

 畿内の情勢が不安定な今、数万の軍勢を長期間三河などに留めては置けない。

 そのような状況下、徳川織田連合軍との正面衝突は、勝頼の勢威を一層高める好機であり、むしろこちらの望むところである。恐らく敵は総力戦を避けるであろうから、多少の小競り合いが続き戦況が膠着すれば、信長は早々に和議を求めてくるに違いない。そうなれば、こちらは一時的に停戦姿勢を示し、織田撤退後、再び孤立化した徳川に最後の引導を渡してやれば良いのだ。万が一、佐久間らの内応が虚偽であったとしても、こちらが有利であることには変わりはないのだ。


 どう考えても有利な展開しか浮かばない釣閑斎は、ここが東海地方征伐の絶好の機会であると確信する。そうなれば、いよいよ一門衆も手のひらを返したように恭順してくるであろう。

 釣閑斎は自信に満ち溢れた表情を隠さず、再び膝を進めて力強く言った。

「この好機を逃してはなりません。まずは小手調べに憎き奥平めを滅ぼしてしまいましょう」

 勝頼は、いよいよ吹っ切れた様子で、野獣の様な鋭い眼を光らせ、再び大きく頷いた。


現在、Amazon kindleにて、会員向けに無料公開している作品もあります。


本作をご評価下さいましたら、是非kindleにも足を運んで下されば嬉しいです。


『叛逆の刻~ 明智光秀と本能寺の変~』


『勇将の誤算:~浅井長政~』


『裏切りの関ヶ原 ~脇坂安治・吉川広家・小早川秀秋~』  


https://www.amazon.co.jp/Kindle%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2-%E6%84%8F%E5%8C%A0%E3%80%80%E7%91%9E/s?rh=n%3A2250738051%2Cp_27%3A%E6%84%8F%E5%8C%A0%E3%80%80%E7%91%9E

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ