【 十七 】 武田勝頼
ヒュンという無機質な音が、耳元をかすめた。
その刹那、地面を打ち付ける鉄砲玉の破裂音が、山々に鳴り響く。
左方に従っていた土屋昌恒が、身を挺して守ろうと覆い被さって来るが、腕を大きく振り、彼を振り払った。
「お主までもか! 不忠者の行く末は地獄のみであると、後に後悔するが良い!」
喉も裂けよと叫んだが、関所の塀からは、さらに鉄砲の轟音が鳴り響く。
周囲を固める主従達が、何事か叫びながら両手足にしがみつき、身動きを封じられると、担がれる様に後退させる。
「小山田の裏切りは間違いございません! ここにいては鉄砲の餌食となりましょう」
勝頼は抑えられぬ憤怒の色を見せたが、従者たちに抱えられるように、木々生い茂る山間へと消えていった。
ーーー
新府城を落ち延びた勝頼主従は、一門衆の小山田信茂を頼り、郡内へと向かっていた。
「小山田様を道案内に、最後の抵抗を見せましょう。難攻不落の岩殿城へ籠城すれば織田も簡単には落とせませぬ」
岩殿城は、東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており、東西南北、全ての方面が急傾斜で覆われ、東国でも随一の堅城として名高い。
小山田の軍勢は二千程であるが、ここに籠城すれば数万の兵に取り囲まれても暫しの間は凌ぐことも叶うであろう。その後どうするかは、その時に考えれば良い。今は何としても、路上で無様に野垂れ死にせぬことだ。
すると小田山領へと先行していた秋山昌成が、息を切らして戻って来る。
「小山田様は鶴瀬の関所にて、我らを迎えに軍勢を送ると申しております。鶴瀬までは僅かの道のりとなれば、急ぎ参りましょう」
勝頼は危地に光明を見出した様な気持ちになった。
「相分かった! 疲労困憊であろうが、皆もう少しの辛抱じゃ!」
配下たちを励まし行軍を強行する。しかし勝頼は、追従する兵達を見て密かに落胆していた。新府城を出る時にいた五百の軍勢はもはや百にも満たない有り様である。皆気付いているが、口にはしなかった。
そして一行は半刻程険しい山道を突き進み、闇夜になる頃、ようやく関所の松明が見えてきた。
そこへ小山田一門の武田信堯と小山田八左衛門が迎えに来ていた。
「勝頼様、長旅ご苦労にございます。今信茂様は、軍勢を集結させ、ここに向かっております。関所の脇に空き寺がございますので、まずはここで身体を休め、迎えをお待ち下さい」
促された勝頼は、荒廃した寺の広間でドスンと腰を下ろした。信濃での大敗から着の身着のまま、新府城を捨て、ここに及んだ。疲労の色は隠せない。
織田や徳川、北条がどこまで領内に侵攻しているのか、もはや予測も出来ない。
しかしこの関所を超えれば小山田領である。武田一門ではあるが、国人大名としての色合いも強く、相応の戦力も擁している。堅城と名高い岩殿城に入る事が出来れば、多少の落ち着きも取り戻せよう。
「勝頼様、儂は信堯殿と八左衛門を連れ、これより小山田の手勢を迎えに行って参ります」
昌成が言うと、柱にもたれ掛かっていた勝頼は身を起こし労う。
「お主も疲れておるであろう。夜も更けて参ったとなれば、明朝行けばよかろう」
昌成は頭を振る。
「いえ、今は一刻も早く勝頼様を安全な場所へ移動させることが大事。儂の疲れなど、勝頼様に比べれば何でもありませぬ」
「そうか……、誠忝い。くれぐれも無理はせぬように……」
勝頼は優しい表情で言った。
――――――
昌成が小山田領に向かってから、数日が経った。しかし味方の軍勢は一向に現れず、昌成も戻らなかった。
「織田が迫って来ておる中、一体いつまで待たすつもりじゃ!」
勝頼はしびれを切らし、跡部勝資を呼び出す。
「関所の連中に聞いても、何も知らぬと応えるばかり。昌成も戻らぬとなれば、何か異常があったのでは……」
勝頼は歯ぎしりして言う。
「もはやこれ以上待つ事は出来ぬ! 皆を連れ岩殿城まで参るぞ!」
勝頼は百名程の一行を引き連れ、関所の門まで押し寄せた。
すると驚くことに、昨日まで開け放たれていた冠木門が固く閉ざされてる。
先頭の勝資が激しく罵る。
「何故門を閉めておる! これより勝頼様がご出立致すぞ!」
しかし、関所内からは何の応答も無い。
「不届き者めが! 何も言わぬなら、門を破壊して押し通るぞ!」
勝資が叫んだ瞬間、櫓からバーンという破裂音が響き渡った。
地面の土を跳ね上げた一発の銃弾は、勝頼主従の士気を奪うのに十分であった。
突如の銃撃に一行は慌て、怒れる勝頼は配下衆に腕を引かれながら、山間へと消えていったのである。
「小山田の人質達は皆逃げ失せたとの事にございます」
勝資は恨めしい眼差しで静かに言った。
勝頼は新府城を出立する時、各武将から取った人質を同行させていた。無論裏切りの抑止の為であるが、敵に追い込まれながらの逃避行の最中では、逃亡者を抑え込むことはままならず、兵士と共に人質たちも徐々に行方をくらましていた。
その様な中、小山田の人質達は特に厳重に監視する様厳命していたが、関所に到着した事で気に緩みが生じたのか、まんまと逃げられてしまった。
人質を任せていたのは、昌成である。
「恐らく昌成は、小山田の人質を解放する代わりに、郡内での保護を約束されたのでしょう。とんだ痴れ者です……」
勝頼は無言で木に拳を打ち付けた。
(恩知らずの痴れ者めが……)
勝頼は暫し立ち尽くすと、勝資に向かい、静かに言った。
「信茂にも裏切られ、もはや四面楚歌。ここで腹を切るしかあるまい……」
しかし、投げやりに言う勝頼を、勝資は諌めた。
「左様、お味方は悉く裏切りました。しかし、この様な場所で人知れず腹を切っては、武田の名が汚れましょう。幸いここは因縁の地に近い場所。天目山の栖雲寺を目指すべきかと」
天目山は応永二十四年(一四一七年)に武田家当主信満が、杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した因縁の地である。勝頼が死ねば甲斐武田家の直系は滅びる。武田武士の棟梁として、諦観して腹を切るなど、無様な死は許されない。
勝頼は顔を強張らせるが、一つ息を吐くと、静かに頷いた。
「歴史は繰り返すと申すか。ご先祖の餞にはまたと無い場所であろう」
絶望し退却する勝頼一行に追従する家臣は女中を含め五十人ばかりとなっていた。
同行する士分は土屋昌恒、秋山源三郎、秋山紀伊守、小原下野守・継忠兄弟、木部範虎、大熊朝秀ら三十人ばかりである。
勝頼は言葉も出ず、唇を噛みしめ、闇夜をひたすらに進む。敵や野盗がいつ襲って来るか分からぬ状況の中、細い林道を縦列に進んでいると、前方の茂みが突如騒がしく音を立て揺れた。
前を歩く勝資は槍を扱き、威嚇の怒声を上げる。
「何者じゃ! 顔を見せ、名を名乗れ!」
その声に反応する様に、茂みからゆっくりと一人の男が顔を見せた。
「お主は……」
泥にまみれた勝頼は、言葉を失った。
現れたのは、小宮山友晴であった。勝頼は、振り絞る様な声で問う。
「お主は勘当としたはずじゃ。今更何用じゃ。儂を笑いに来たのか」
投げやりな言葉を発するが、友晴は彼の前に歩み寄ると、膝をつき言上する。
「この度は勘当の中、誠に申し訳ございません。しかしながら、譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは、末代までの恥辱と思い馳せ参り申しました。勝頼様。旧来のご恩に報いる為、どうか某が御盾となる事をお許し下さい」
後ろからは弟昌親も姿を現し、共々頭を下げた。勝頼は涙を浮かべながら応える。
「親族・譜代衆が悉く裏切る中、儂が嫌い、遠ざけて来たお主がまさか現れるとは……」
声を震わせながら、途切れ途切れで続ける。
「儂は、お主達の様な勇者を数多く死なせてしまった。この度の失態はそのツケが回ってきたのであろう。しかしこの期に及び、お主の忠義を無下にできる訳もなかろう」
そう言うと、大粒の涙を流した。
泥に汚れた友晴は、やつれた頬を緩め、柔らかい表情で返す。
「誠に忝くございます。しかし、まだ戦は終わっておりませんぞ。これより後世に残る働きぶりを見せてみせましょうぞ」
勝頼は友晴の肩を抱き、何度も感謝の言葉を述べた。
絶望の中逃亡する一行であったが、勇者の帰還に励まされ、武田家の先祖・信満の墓のある天目山栖雲寺へと急ぎ向かうのであった。
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