【 十三 】御館の乱 釣閑斎
天正六年(一五七八年)六月
「ここは両者の仲介役を務めるべきかと」
海津城内に集まった諸将を前に、釣閑斎は勝頼に進言した。
周囲には、信豊、跡部勝資、秋山昌成、春日昌元、小山田信茂らが居並んでいる。どの者も緊張の面持ちで、それぞれの意見を探るかの様に無言であった。
すると昌元が口を開く。
「我が父上は、景虎殿支援、即ち北条家との盟約を重んじる事こそが武田家繁栄の鍵と申しておりました。二股膏薬では両派閥からも指示を得られぬかと、某も感じております」
昌元は虎綱の次男である。虎綱は病の為、数日前に世を去っていた。未だ若武者であるが、父の意思を受け継ぎ、居並ぶ諸将に臆する様子もない。
「二股膏薬とは外聞が悪い。両者の間を掛け合って上手く事を運べば、上杉における武田の影響力が高まるであろうと言っておるのだ」
釣閑斎は、虎綱の面影を感じる昌元に反論されると、息子までも生意気言うかと、ムッとなり反論した。
大方の予想通り、謙信死後早々に上杉家の後継者争いが勃発していた。
三月二四日には早くも、上杉家本本城である春日山城内で戦闘が起き、景勝側がいち早く本丸と金蔵を占拠した。本城を取られた景虎は三の丸を占拠したが、暫しの交戦後不利を悟り、城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠る。
春日山での戦況は、本丸を占拠した景勝側に有利であったが、景虎側には前関東管領・上杉憲政や、古志上杉家の景信、信虎親子ら上杉一門衆に加え、家内で大身の北条高広、謙信側近の本庄秀綱らが味方し、更に奥州の大名衆、伊達氏・蘆名氏・大宝寺武藤氏らも加担している。そして最大の後ろ盾として、関東の雄、北条氏政が弟の支援を行った。
一方で景勝側には、直江信綱や斎藤朝信、河田長親といった謙信側近・旗本の過半数が加担しており、その他に新発田・色部・本庄といった下越地方の有力豪族である揚北衆の多くも加担している。上杉家内のみを考えると、その勢力は五分、いや景勝側がやや優勢と言った所であろうか。しかし、景虎には北条が後ろ盾にいる為、どちらが勝利してもおかしくはない。従って武田家の加担した側が有利になる事は間違いはなかった。
当然、両派閥から後援を求める使者が来ているが、勝頼は北条氏政との関係を重んじ、景虎側として越後へ信豊軍を派遣した。景虎が勝てば、上杉の実権は北条の血縁者が握る。当然北条家と婚姻関係である勝頼にとっても利がある。
五月に信豊の先遣部隊を送り込み、六月には勝頼自身が本軍を率い、信越国境にまで出陣する。これで景虎勝利は間違いないと、多くの近隣諸国の大名衆は勘考した。
「このままでは不利ぞ。何としても勝頼を味方に、いや中立を保ってもらわねば……」
追い詰められた景勝は、ここで勝頼に以下の破格の交渉を持ち出す。
1.友好の証として、景勝から黄金一万両を送る。
2.上杉支配下の東上野と信濃飯山領を勝頼へ割譲する。
3.勝頼の妹の菊姫を、景勝と婚姻させる。
景勝は乱の勃発時に、春日山城の本丸、金蔵及び兵器庫を制圧していた為、謙信以来の豊富な資金があった。敗戦後、慢性的に戦費に仇している勝頼にとって、またとない申し出である。更に、飯山領が割譲されれば、信玄の悲願であった信濃国の全域支配が実現する。
景勝側は、勝頼の心理を突いた、実に巧妙な外交工作を行ってきたのである。
勝頼はこれまで景勝側との交渉を見送ってきたが、この提案を受け、検討すべしと諸将を集め検討する。
「景勝も必死じゃ。提示された条件は旨味そのモノではあるが、北条との約定もある。武田の存在感を示す最良の手段が何か、皆から聞きたい」
勝頼は野心的な表情を浮かべ、諸将を見渡しながら問う。
これに対し、虎綱の意思を継いだ昌元は、景勝との交渉は不要と言い、釣閑斎は両者を天秤に掛けながら、上手く取り持つ事を提案する。この案には信豊、勝資、信茂ら有力武将達も概ね賛成している。しかし、これまで他者の意見に同調ばかりであった、秋山昌成が得意げにこう主張した。
「ここは景勝殿を支援すべきでは。景勝殿は謙信の甥、血縁では正当な後継者でございましょう。それを証明するかの様に、謙信側近旗本衆の多くが景勝殿を支持し、その他の謙信養子である上条政繁や山浦国清らもが景勝殿を支援しております。大義のある側へ味方するべきかと」
勝頼が小さく頷くのが分かった。釣閑斎は、驚き声を上げる。
「それは戦機の読めぬ物言いで。現状の戦況を見てみよ。本城を抑えし景勝であるが、上越は蘆名、伊達らに侵攻されこの後、北条も本格的に参画して来よう。今無理に旗幟を顕にする必要はあるまい。そんな事をすれば、北条が黙っておらぬぞ」
釣閑斎に反論されると、昌成はチッと舌打ちするように睨みつけた。勝頼は特に意見を言わない。
(こやつは何を言い出すのだ……)
釣閑斎は、このやり取りに一抹の不安を感じる。これまで昌成が自分の意見に反論することは無かった。昌成の発言力が弱い事もあるが、成り上がり者の彼には、戦場の経験や外交経験も乏しく、そもそも俯瞰的に情勢を読む力量は無い。
「……確かに、景勝の方が正当ではあるな」
勝頼が一言呟いた。
釣閑斎は、内心激しく動揺する。この様な小者の意見に同調するのか。
勝頼の顔色を伺うように見つめると、サッと目を逸らされた。釣閑斎は、胸の奥底で感じていた違和感が浮き彫りとなった心境である。
振り返れば、長篠での大敗から徐々に落ち着きを取り戻し始めると、勝頼の態度に違和感を感じるようになっていた。これといって具体的に示すような事由が起こった訳では無いが、彼の目線のやり場、言葉尻の一つ、些細な挙動が気になる様になっていた。以前では父親のように慕ってきていた、恭敬の眼差しに陰りを感じていたのである。
それは、穴山との会合の後、顕著となっていたと思う。
長篠での敗戦について、勝頼から決戦を促した事を一切責められていない。最終決断をしたのは自身であると納得していたからだ。しかし、やはり人間である。すべての責務を背負うには、彼は若すぎた。武闘派の彼は、そもそも信玄ほど泰然自若ではない。
ふと、切れ長の皮肉な目つきの昌成と目が合う。
まさか、こやつが唆しておるのか。そう思わざるを得ない。元々狡猾な人間である。
金子一万両、大方これに欲が眩んだのであろう。
勝資はどう思っているのか。動じる事無く、横に鎮座する様に見える彼の些細な挙動を見るに、恐らく同様の心情であろう。
これまで金魚の糞の様に、我らの後ろで虚勢を張っていたこやつは、この期に我らをも蹴落とそうと画策しているのではないか。
すると黙っていられなくなったのか、勝資が俄に口を開いた。
「儂は釣閑斎殿に賛成でございます。確かに景勝殿を支援する道理もございますが、今それを鮮明にすることは避けるべきでしょう。我らにとって最良なのは、両者を仲裁する事で両勢力への影響力を高める、という事でございましょう。これまで長年敵対してきた上杉の内政に対し、武田が介入するまたとない好機でございます」
信豊、信茂もこれに同調する様に発言すると、昌成はそれ以上声を上げなかった。
勝頼は周囲を見渡し、それぞれの反応を伺いながら言う。
「……では我らは、景勝との交渉は継続させつつ、景虎支援の姿勢は崩さず、両者の調停役を務めよう。それに異論はないか」
勝頼が問うと、諸将はゆっくりと頷いたが、昌成は多少不満気であった。
昌成のみならず、武田家の諸将にとっても景勝の提案は魅力的である事は間違いなかった。北条と共に景勝を殲滅させるよりも、景勝を生かし、景虎と共存させる道を示すことが出来ないか、武田家の思惑がこう揺れ動いたのは仕方がない。
客観的に見ても、景勝側に突いた武将は、上杉家の基盤となる勢力である。戦力的にもこれを一網打尽には出来ない。たとえ景虎が勝っても、当面の間は越後の治世は混乱するであろう。
勝頼にとって、そうなっては困る。
東から織田家の圧力を受けている為、上杉にはなるべく無傷の状態で内乱を収束してもらい、その後は連携してこれに当たりたいのだ。釣閑斎、信豊、信茂、勝資らは、調停役として両者の間に入り、妥協案を以て、両者に手を引いて貰えないか模索する事とした。
これは決して武田よがりの安易な考えではない。
実際に、謙信は越後守護を景勝に、関東管領職を景虎に継がせようと考えていた節があるという。いかにも権威主義者として有名な謙信らしい考えであるが、義理堅い彼は、両者に相応の役職を就ければ仲違いをせず、その職務を全うすると考えていたのかも知れない。越中方面を景勝に、関東方面を景虎に委ね、二頭制を執って上杉を強化していこうと考えていたのではないか。それに配下衆も従うと信じていたのであろう。
つくづく、下剋上の戦国期にはそぐわない豪傑であった。
ともあれ、遺命を残さず世を去った謙信の本意は測れず、勝頼は自らの威信を掛け、両者を取り持つ事を決意すると、景勝との交渉に入ったのである。
「武田を上手い事籠絡出来たぞ! 今が好機!」
勝頼たちの思惑を知ってか知らずか、後背の憂いを取り除いた景勝は、一挙に攻勢に出ると、直峰城主・長尾景明や、上杉景信などの景虎派の諸将を次々と討ち取り、勢いに乗り、中越地方への圧迫を強めていく。これまで景虎優勢だった戦況は、一挙に景勝に傾く。
「これは景勝に分がありそうじゃ。時期を見て、首尾よく両者の仲介が出来れば、武田の権勢は大きく回復しよう」
春日山近辺まで進撃し、中立の立場で形勢を伺っていた勝頼は、ここが景勝との本格的な交渉の時期と見る。そして二十九日、景虎側には秘密裏に、正式な同盟を成立させたのである。
「景勝めの勢いが増しておるのは、勝頼殿の圧力が足りぬ為ではございませんか!」
そういった状況を知らず、次第に劣勢に立たされる景虎は、勝頼に苦情を申し立てた。
景虎側の追求を受けた交渉役の勝資、釣閑斎らは宥めつつもあしらう。
「滅相もございませぬ。景虎様ご支援の気持ちに変心はございませんが、景勝を支援するのは謙信公直臣の勇将ばかり。我らも手を焼いておるのです」
釣閑斎は、納得しない使者を宥めながらも、一言釘を刺した。
「しかし、このまま戦が長引けば、思いもよらぬ災を招くやもしれませぬぞ……」
景虎勢にとり、勝頼の進退は死活問題である。
というのも、頼みの本家、北条軍が越後に進軍するには、三国峠を超えなければならない為である。三国峠は上野と越後を隔てる山間地帯手であり、冬期の積雪に雪崩、夏場の集中豪雨による土砂災害や、気象の急激な変化などが起こる難所である為、即座の支援が期待出来ないのである。更には、北条家は現在関東で佐竹家と交戦中であり、越後に手が回らない状況にあった。その為武田家に対する依存性は大きい。
景虎は不信感を募らせつつも、武田と決別する訳にもいかず、交渉を進める。
勝頼は両者に恩の売れるこの状況を利用し、ここぞとばかりに和平交渉を提案した。
「家中でこれ以上いざこざを抱えても仕方ないでしょう。領内は疲弊していくばかりですぞ。領民の為、一度鉾を収めては如何であろうか」
より攻勢に出たい景勝ではあったが、武田の意向に従い動きを潜め、北条本家の支援が不明瞭な景虎もこれに納得した。
そして七月、武田を仲介として景虎、景勝は和平交渉に応じ一時停戦するのであった。
「さすが勝頼様! これで両陣営共に、武田に頭が上がらぬでしょう!」
昌成が大げさに勝頼を称賛すると、釣閑斎は複雑な気分となる。確かに一時的な調停は実現できたが、交渉はここからである。両者には今後領国を二分する形で、共存の道を選択させなければならない。反発は免れないが、これを調整する事で、武田の真価が問われるのである。
「まずは初動の成功を喜びましょう」
釣閑斎が同調するように言った。
―――
八月
交渉はやはり難航した。
北条氏政は、同盟関係にある武田の支援に期待し、越後への介入は消極的であったが、景虎からの報告を聞くと、俄に色めく。
「優柔な四郎めが、よもや我らを裏切るつもりではなかろうか」
北条の反応を見越していた勝頼は、これまでも北条との交渉役を努めていた小山田信茂を派遣し、停戦の利を説く。
「越後は国人衆の勢力が強く、一筋縄にはいきませぬ。加え景勝側には、大身の直江や山吉が味方している故、簡単には攻め落とせぬ事は、お分かりでしょう。内乱が長引けば、他の勢力に付け入られ、織田や他の大名家が攻め込んで来ぬとも言い切れませぬ。ここは妥協案を模索する事も北条家の為といえませぬか」
関東で佐竹家や結城家、宇都宮家と交戦を続ける氏政も、遠国の越後まで介入出来ないのが本音である。中越の一部でも景虎が支配できれば、北国への足がかりとして十分ではあった。
「……まあ良い、まずは四郎めを立て、時期が来た時に越後を制圧すれば良いのだ」
氏政は不満を抱えつつも一応の理解を示し、本家の介入が得られない状況下で大きな戦を行いたく無い景虎もこれに応じた。
「よし、事は思惑通りに進んでおる。あとは気の逸る景勝を抑え込むのみ」
勝頼は景勝への説得を進め、一月ほどの交渉の後、勝頼と敵対できない景勝もついに和平に応じた。
勝頼は本音として、景虎の勝利を望んでいない。
北条家と武田家は、長年離合集散しながら、敵味方という関係を繰り返してきた。北条の影響力が東海・関東に加え越後にまで及ぶ事に懸念が無い訳ではない。戦国期の同盟など呉越同舟に等しく、いつ手のひらを返されるか分からない。勝頼の本心としては、この争いに乗じ、武田家の存在感を大きく示すことで、その後も上越への影響力を有しておきたいのである。
「上手く事が運んでおります。あとは気長に交渉を続け、領土の分割を進めるのみでございましょう」
非常に難しい問題であるが、まずは勝頼の手腕を見せる事が出来た。
今後はいざこざも起こるであろうが、上杉領内は取り敢えず疲弊を免れ、対織田という景勝との連携が構築できる筈である。
信濃全土を支配下に置くことが出来、美濃、東海方面に注力出来る。劣勢に立たされている遠江の奪還も、時を待たずして行うことが出来るであろう。
長陣が続く中、勝頼は祝杯を上げた。
「他勢力中とはいえ、上杉は今後我らを無碍に出来まい。皆の慰労を兼ね、ささやかな宴を開こうではないか」
勢力回復に向け、着実に成果を上げる勝頼に、諸将は満足していた。
長篠の大敗により大きく権勢を失っていた武田家であったが、この交渉の成功で、改めて名声を高めた。
上杉の内紛を収束させた後は、小賢しき徳川家康を打ちのめし、東海の勢力を奪回する大規模な侵攻作戦に出る。徳川への恨みを募らせた家中の諸将の期待は、大きく高まっていくのである。
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