【 十二 】釣閑斎
天正六年(一五七八年)三月
「越後の上杉謙信が死去したとの事」
勝頼の元に、透破からの報告が入った。
躑躅ヶ崎の館で雑務に追われていた勝頼と釣閑斎は、突如の訃報に暫し呆然となる。
「あ、あまりに急な事であろう! 何者かによる仕者(暗殺)であろうか!」
釣閑斎は驚きのあまり、勝頼を差し置いて透破に問いた。
横目で勝頼の強張った表情を認める。
「いえ、戦の準備中に春日山城内の厠で倒れ、その後意識が回復しないまま、亡くなったとの事で……」
透破の言葉に、勝頼が横でふぅと大きく嘆息するのが分かった。釣閑斎は透破の言葉を遮るように、矢継ぎ早に確認する。
「毒殺ではなかろうか! いや、もはや死因などどうでも良い、謙信は後継を決めておったのか」
釣閑斎は、動揺のあまり透破を叱責するように言った。
「あ、あまりに急な事でして、遺言のようなモノは無かったと聞き及んでございます」
勝頼と目が合うと、お互いに押し黙った。
(これは由々しき事態じゃ……)
弥生の候、群青に広がる甲斐の空には、暗雲が不気味に迫っていた。
織田徳川連合軍による完膚なきまでの大敗後、両国の攻勢は、手を休めること無く続けられた。
戦の翌月、天正三年六月には、東美濃国に楔の様に打ち込まれていた岩村城が、織田信長の嫡男信忠を総大将とした五万人の大軍勢に包囲される。城主秋山虎繁は実に五ヶ月もの間孤軍奮闘したが、結局は勝頼からの援軍を得られず十一月には投降し、その後処断された。
敗戦直後でもあり、遠江国には徳川軍による進行が執拗に繰り返されており、防衛に忙殺されていた勝頼は、美濃国にまで手が回らなかったのである。そして十二月には遠江の要所、二俣城が徳川家康の攻撃により開城する。
ジリジリと領国を圧迫される勝頼であるが、浮足立つこと無く、慎重に行動していた。
「ここは我慢の時、必ず我らの好機は巡って来る」
勝頼は戦線を縮小し、後背の憂いを無くした上、反撃の機会を伺おうと心に決めていた。
勝頼は敵の侵攻に耐えながらも、長篠の戦いで失った家臣団の再編入と、戦死した武将達の後継者を指名し、傾いた勢威の回復を図った。そして同時に側近衆と相談を重ね、外交強化を加速させる。
勝頼は独力での対抗は難しいと考え、同盟関係にある北条家との更なる関係強化を望み、そして父信玄とは宿敵であった越後の上杉謙信との同盟を模索した。二家との同盟が実現すれば、後背の憂いを断つことが出来、中部東海への対策に専念することが出来る。
そして戦から四ヶ月後の十月、信長に追放された旧室町幕府将軍、足利義昭が打倒信長を画策し、武田と上杉との和睦を提案すると、勝頼は渡りに舟とばかりにこれに同意し、謙信も受け入れた為、長年抗争を続け得ていた両家の同盟が実現された。そして天正五年(一五七七年)一月には、北条氏政の妹を後室に迎え入れる事が合意され、二大国との同盟を結ぶことに成功する。
当初勝頼はより強固な関係を構築する為、上杉武田北条の三国同盟(甲相越三和)を望んだが、上杉と北条の関係が険悪で実現は出来なかった。しかし両国の仲介役という立場を得る。その他、天正四年には足利義昭の要請により、遠国ではあるが、安芸国の毛利家とも盟約を結び、対織田信長包囲網に加担する事となる。
このように、勝頼は敗戦の痛手を癒やしながら、各国の有力大名と誼を通じ、一通りの外交策の成功を収めたと言える。
しかし、その矢先での謙信の死は、武田家にとっても無視できない非常に重要な問題であった。謙信は、信玄とは宿敵というべき相手であったが、権威主義的で、旧将軍義昭の要望を受けると、これまでの方針を覆し速やかに武田との同盟を締結させた。
謙信の義理堅さは信玄も認めるほどであり、敗戦という痛手を被った勝頼にとって、上杉との同盟は非常に心強いモノであったのである。
報告の透破が退出すると、釣閑斎は口早に言う。
「まずは仔細の確認を致しましょう。後継は誰となるか、北条との同盟もあります故、慎重に行動せねばなりませぬ」
釣閑斎が言うと、勝頼は無言でゆっくりと頷いた。
「まずは、儂は海津城へ向かい、仔細を確認して参りましょう。上杉との交渉は虎綱が行っております故、あ奴と今後の方針を相談して参ります。北条との交渉はこれまで通り小山田と穴山に任せるのが良いでしょう」
明らかに動揺を隠せないでいるが、勝頼は意外にも冷静に聞き入っていた。
「左様か、まずは上杉の件、頼んだぞ」
釣閑斎は思わずはっとした。受け応える勝頼から、信玄の様な威光を感じた為である。
最近の勝頼は、以前と比べ明らかに思慮深く冷静になっている。
「負けを糧に、儂も成長せねばならぬであろう」
釣閑斎にそう呟いたのは、穴山との会談後の暫し経っての事である。
あの時の屈辱を忘れている筈はない。穴山粛清を止めた釣閑斎でさえ、その考えを改めよと思う程、武士の尊厳を汚された。
勇敢で武勇優れる事は、父信玄からも認められていた。無骨な武者として、槍働きこそ武士の誉れという考えがあり、それは毛嫌いしていた小宮山友晴と通ずる。いや、武田武者の精神には、この考えが今も根付いている。
勝頼が一武将として仕える立場でいれば、恐らく近隣にも轟く武功を上げ、一門衆の中でも特別な存在となっていたであろう。
しかし、突如として武田家の後継者となると、その考えは改めなければならない。全家臣団を動かし、運命を決めねばならない事態に直面する立場となれば、武勇だけでは無く、人心掌握、領土経営、外交的視野など相対的な政治力が必要となる。
特に弁舌や交渉力などは経験が必須であり、若く経験に乏しい勝頼には荷が重かった。
しかし、穴山との件で、交渉には駆け引きが必要であるという事を悟ったのであろうか。
「勝頼様は、どうやら穴山と典厩(信豊)には、腹を切らせるつもりのようじゃ」
勝頼は穴山との会談の後、領国内に自らこのような噂を流した。
「これは危険では、もし謀反でも起こされたらどうなります……」
釣閑斎は、これを止めたが、勝頼は語気鋭く言う。
「そうなれば速やかに討ち取るまでよ! 儂を甘く見るとどうなるか、分からせねばならぬと、儂もあ奴から学ばせて貰ったわ!」
勝頼の予想外の強い姿勢に、釣閑斎や秋山昌成らはそれ以上口出し出来なかった。
勝頼はその後、外様はもとより、一門衆や自分達側近衆に対しても峻厳な態度で臨む様になり、その噂が徐々に家中に広がっていく。
「四郎が取り乱し、非礼者は粛清されるそうじゃ」
この様な評判が立ち恐れたのか、信玄死後横暴な態度を示していた穴山や信豊は元より、小山田や信廉なども、これまでの強硬な姿勢を和らげた様で、従順さを見せ始める。そして北条、上杉との交渉も成功させると、大きく揺らいだ勝頼の威厳も以前以上に取り戻しつつあったのである。
釣閑斎は、この危急の事態をうまく舵取りできるよう、急ぎ各方面への書状を認める。
まずは越後の国境守備をしている春日虎綱に仔細を確認し、交渉先を決めねばならない。虎綱とは反りが合わないが、そんな事を言っている場合ではない。釣閑斎は、勝頼の許可を得て、急ぎ虎綱の居城海津城へと向かった。
「謙信の死は間違いない……」
城を訪れると、虎綱は小姓に両脇を抱えられながら姿を現した。
釣閑斎は、虎綱のやせ細った弱々しい姿に驚く。
(ここまでひどいとは……)
病床に臥している事は聞き及んでいたが、良い病態ではない事は、顔色を見ればすぐに分かる。しかし、武田家の一大事となれば、そんな事は関係ない。
「左様であるか。謙信は世継ぎを指名していないと噂であるが、どうであろう」
釣閑斎は、虎綱の状態を気にする素振りも見せずに問う。
「それは事実のようじゃ。早くも景虎派、景勝派とで対立が始まっておる。儂の元に両陣営から続々と使者が来ておるわ。どちらに付くか、これは慎重に事を進めねばならぬ」
虎綱は時折息を詰まらせながら、苦しそうに応える。これでは交渉事を進められまいと思った。
「左様、長年上杉と関わってきたお主の意見を聞きに参った次第じゃ」
釣閑斎は内心を表に出さずに淡々と言うと、虎綱は眉間に皺を寄せながら、俯き考え込む。具合が悪いためか、返答に困っている為なのか分からないが、室内は奇妙な静寂に包まれた。
確かに一言で応えるには難しい問いではあるが、いつも明晰であった虎綱も、もはや思考力がまともに働かないのではと思ってしまう。
謙信には実子が無く、景勝と景虎という二人の後継者候補となる養子がいた。
景勝は謙信の姉仙桃院の息子であり、上田長尾家当主・長尾政景の次男である。そして景虎は、北条氏康の七男である。上田長尾家に北条家、両者共に強力な後ろ盾があり、謙信も遺言として後継者を定めていない。相続争いが勃発する事は明白であった。
当然勝者側に付き、越甲同盟を継続させる事が武田にとって重要である。そして武田が支援した側が有利になる事は間違いない。勝頼の上杉に対する影響力を強める絶好の機会である。
「当然、北条との同盟がある故、景虎を支援するべきと勘考するが……」
釣閑斎が、恐らく誰もが支持するであろう意見を言うと、虎綱は静かに応える。
「それが一番であろう」
釣閑斎は、虎綱の返答を聞き安堵した。長年反目し合っていた為、また何事か否定的な事を言われるのではないかと懸念していた為である。
それでは、その様に勝頼様に伝えようと言おうととした瞬間、虎綱は鋭い眼光で語り掛けてきた。
「お主は目先の利にばかり目が眩んで周りが見えぬ。その調子で交渉を続ければ、いつか災いを引き起こすことは必定であろう。ここは勝頼様の、武田家の潮目とも言うべき事態じゃ。よくよく考え行動する事じゃ」
思わぬ物言いに、釣閑斎は思わずカッとなる。
「何を言う! いつまでも儂の文句ばかり言いおって! 景虎支援に他意は無いと言ったであろうが!」
虎綱は鋭い目つきを崩さず、荒い息を吐きながら言う。
「交渉事は流動的じゃ。戦と同様、戦機を捉えねばならぬ。お主にはその能力が乏しいと言っておるのじゃ」
なんたる物言いか。釣閑斎は、腸が煮えくり返る。どいつもこいつも儂の事を軽んじおってと思い、友晴の顔が脳裏に浮かぶ。
釣閑斎も鋭い目つきで睨み返し、反論しようと腰を浮かせたが、同時に虎綱はゲホゲホと咳き込み、苦しそうに畳に手を付いた。小姓が慌てて歩み寄り、肩を抱く。
釣閑斎は、その哀れな姿を見ると落ち着きを取り戻し、姿勢を整えた。
「お主の戯言を聞く機会も、もう暫しの事の様じゃのう。儂はこれにて失礼する」
そう皮肉を言うと、大股で屋敷を後にする。
(口煩き連中も直にいなくなろう。暫し辛抱するのみじゃ)
釣閑斎は、急ぎ勝頼の元へと帰った。
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