【 十一 】 粛清 長坂釣閑斎
友晴の追放後、勝頼に直接諫言する者はいなくなった。
自らの処分を願った釣閑斎であったが、勝頼の希望により処分の沙汰も無く、側近の地位も維持する事となった。
戦では本軍を守り、他の譜代衆と共に勝頼を守り奮戦した跡部勝資や、秋山昌成も変わらずに勝頼の身辺に近侍する。
混乱する領国を鎮める為、方々の勢力への懐柔や織田徳川上杉対策などに忙殺される日々を過ごすが、戦況は悪化するばかりである。
「三河の徳川は遠江・駿河の我が領内に積極的に侵攻しております。口惜しいながら、東海の守りは穴山様の他おりますまい……」
釣閑斎が言うと、勝頼は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべるが、反論も出来ず頷いた。
「致し方ない……」
劇的な大勝により息を吹き返した徳川家康は、果敢に攻勢に出ると、奥三河の田峰城・武節城・作手城を瞬く間に奪い、遠江の拠点にも続々と侵攻を開始した。
そして遠江国の拠点高天神城の補給地点であった諏訪原城が落とされると、遠江国防衛の為に有力武将を配置する必要性に迫られ、それを穴山に任せる事に同意したのである。
勝頼は、軍令違反者の粛清という、虎綱や友晴の献策を実行する決断が出来なかった。
これは側近衆の助言が影響した事は言うまでもないが、勝頼の脳内は、宿老達の諫言を無視し、多くを死なせてしまった事に対する、振り払う事の出来ない不安と焦りで満たされ、家中崩壊と言う危惧を抱えながら、重職を担う一門を粛清する勇気が持て無くなってしまったのであろう。
釣閑斎も同様に、敵の罠に嵌るという大失策の後だけに、友晴や虎綱の意見が果たして正解なのではないかと頭をよぎる事もある。それとなく秋山昌成などに意見を効くが、何を血迷った事をと一笑に付されてしまう。
「ここは穴山に恩を売り、勝頼様への忠誠を高めさせましょう」
釣閑斎は励ます様に言うと、勝頼は複雑な表情で頷いた。
そして数日後、呼び出された穴山信君は、軍勢を引き連れ屋敷を訪れる。
「穴山様の軍がお越しにございます」
取次の小姓が伝えると釣閑斎は驚いて言う。
「軍勢じゃと! 一体どれほど連れて参った!」
「凡そ三百程かと……」
釣閑斎はうぬぬと唇を噛みしめる。敗戦で不穏な情勢とはいえ、甲斐国内の主人の元に来る為には不要な数である。明らかに処罰を警戒しているのであろう。いや、あるいは勝頼を威圧するためか。
釣閑斎は、険しい表情で信君を迎え入れた。
山々に囲まれた真夏の甲斐国は、吹き抜ける風も無く、終始蒸した空気が漂っている。
信君は、取り纏う熱気に苛立つようにしながら、釣閑斎に促され、勝頼の待つ館へと入る。
「今年は、いつに増しての猛暑じゃな」
勝頼の面前に現れた信君は、敗戦直後とは思えぬ物言いで、勝頼の前に座り込んだ。
釣閑斎はその態度を見て、一層怒りが腹からこみ上げる。
(なんたる無礼者じゃ)
勝頼は以前から、信君の狡猾な笑みが好きになれないと言っていた。しかし、領国の信頼を大きく損なってしまった今、家中でも頼りになるのは最早親族衆しかいない。
憤る釣閑斎をよそに、勝頼は終始へりくだる様な対応で、本題を切り出した。
「信君様。もはや当家の勢いは、織田はもとより、徳川にも及びません」
信君は、冷たい視線を向け黙って聞いているが、ため息の様な吐息を時折漏らしながら、あからさまに横柄な態度を見せている。勝頼は額に汗を浮かべ、目を落としながら続けた。
「今家中で最も権勢を誇るのは信君様に他なりませぬ。さすれば、徳川は駿河遠江の抑えとして、江尻城をお任せ致したく存じ申します」
無表情で聞いていた信君の口元が、少しだけ緩んだのが分かった。
勝頼と釣閑斎は、事前の打ち合わせから、穴山に江尻城を任せざるを得ないと同意していた。
駿河国庵原郡江尻(静岡県静岡市清水区江尻町)に位置する江尻城は、信玄期の筆頭家老の山県昌景が城主を務め、武田家における駿河支配の要所であり、遠江・三河を領土とする徳川攻略の重要な軍事統轄拠点である。多くの将兵が戦死した今、昌景の後任が務まる程の武将はごく僅かであった。
屋敷には暫しの沈黙が流れる。
外気は炎天により熱せられ、セミの集きが遠く山々からこだましている。
「致し方あるまい」
信君は不愛想に一言答えた。
勝頼と釣閑斎は、腹から込み上げる怒りの衝動を必死に抑える。
本来であれば、切腹の命令を受けても仕方が無い軍令違反を犯したのにも関わらず、領地拡大という褒美ともいえる措置を聞き、礼はおろか、喜ぶ素振りも見せないのである。
(敗因が自分であると、少しでも思わぬのか……!)
釣閑斎は、もはやこの話がなくなったとしても、侮辱にも映るこの態度を改めさせるべきと思った。しかし、ここで事を起こしてしまえば、今まで検討してきた戦略が無になってしまう。悔しいが、今徳川に対抗できる人材はこの者しかいない。どうするかは、勝頼の反応に委ねるしか無い。
様子を伺う釣閑斎にわざと気付かぬ様に、勝頼は愛想を浮かべて応えた。
「それは誠にかたじけなく存じます。北条との連携を強める方針にございますとなれば、安心して徳川の抑えを信君様にお任せ出来ます」
釣閑斎は、思わず身を乗り出そうかと腰が浮いた。あまりに低頭し過ぎではないか、一門衆との共同路線に依存は無いが、あくまで主従関係を示しながらという事である。
横を見ると勝資も険しい表情で穴山を睨みつけていた。
両者の殺気に気付いているのかいないのか、信君は大きく相槌を打つと、表情を変えず、礼を述べること無くそそくさと屋敷を去っていってしまった。
蝉の鳴き声が、騒音の様に耳に纏わりつく。
残された勝頼は、無言で畳に拳を強く打ち付けた。
釣閑斎はその様子を見ながら、無念の思いを噛みしめるしか無かった。
―― あ奴らは、何かと顔色をうかがってばかりの勝頼様を甘く見ておるのです。このまま放っておけば、一層増長する事は間違いありませぬぞ ――
友晴の苦言が、今になって脳裏に何度もチラついてくる。
帰路につく信君は、ゆっくりと馬に揺られながら呟いた。
「愚か者め。大将たるもの威厳と尊敬、そして恐怖を配下には植え付けねばならぬ。厳罰も多少覚悟して参ったものを、まさか加増とはな……」
そう言うと、薄らと笑みを浮かべた。
「信玄公には到底及ばぬ小倅よ。儂が甲斐国の太守になる事も、絵空事では無いやも知れぬ……」
東海の要所江尻を領土とし、徳川に睨みを利かす形となった信君は、あからさまな独立路線を強行する様になり、勝頼の指図には徐々に従わなくなっていった。
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