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【 十 】追放 長坂釣閑斎

 

 ようやく長かった逃避行が終了する。釣閑斎は馬に揺られながら一人大きく息を吐いた。

 信濃からいくつもの山々を抜け、数日に及ぶ撤退劇であったが、本拠地躑躅ヶ崎館が視界にはいると安堵の気持ちがこみ上げる。

 敗兵をまとめ千人程で本国へと凱旋すると、町人たちは道の端に寄り、帰陣を喜ぶような歓声が上がるが、目の奥に潜む、何とも言えぬ視線を送ってくる。敗戦の報が既に届いているのであろうか、町には不安と緊張という重苦しい雰囲気が漂っていた。

 釣閑斎は、彼らを苦々しく睨みつけると同時に、虎綱の言葉が頭に過る。

 ― 敗戦の将として帰還は出来ますまい、行装を整え、民衆には勝利の凱旋として国へお帰り下さい ―

 敗戦を察知した虎綱は大軍勢を率い、新品の甲冑を用意した上で勝頼の元に現れた。

 抜け目のない奴めと苦々しい気持ちになったが、町内の様子を見るとあ奴の言う事は間違っていなかったと理解できた。しかし気掛かりなのは、自分をのけ者に、何事か密議を行った事である。その後勝頼様は深く考え込んだ様子で何も口にしない。

 館の門が開けれ、これで本当に生還が出来たと安心する。

「国人共は浮足立っていることでしょう。すぐに動揺を鎮める書状を各国に発給するべきかと」

 勝頼の背中に語りかけたが、分かっておるとひとこと言い、館に籠もってしまった。

 いち早く国人共に健在を知らしめる書状をばら撒かなければ、流言に踊らされる者が続出し兼ねない。自らの屋敷に戻った釣閑斎であったが、居てもいられず直ぐに館へ向かった。

「失礼致し申す」

 釣閑斎が入室すると、勝頼は呆然と空を見つめていたが、直ぐに表情を改めた。

 釣閑斎は言葉を探しながら勝頼を励まそうとする。

「この度の敗戦は、誠言い訳の出来ぬ次第。戦況を見誤った儂に責任がございます。処分は、何なりと申し付け下さい」

 釣閑斎は勝頼の目をまっすぐに見つけて言った。この敗戦の責任を誰かに問わなければ、散っていった者たちの家族が許さないであろう。自分はもはや老齢、後事は息子に託し、自らの処分で方を付けようと観念していた。

 しかし勝頼は何も言わずやはり考え込んでいる。釣閑斎は続ける。

「この度の敗戦は勝頼様の責任ではございませぬ。織田が卑怯な手法により罠に嵌められたのです。そしてその罠にまんまと引っ掛かるよう促したのは、儂の他ございません」

 勝頼の表情が怯むのを確認したが、釣閑斎は励ますように続ける。

「しかしながら、いつまでも敗戦を引き摺ってばかりではいけませぬ。徳川は既に三河で積極的に動き始めております。政務に取り組み、一刻も早く体勢を整えましょう」

 この言葉に応答するように、勝頼は目を落としながら、ようやく小声で応えた。

「分かっておる。戦後処理は虎綱から耳にタコが出来る程言い聞かされた。……しかし、友晴に続き虎綱までもが同じ事を申しておる為、苦慮しておるのだ……」

 そうだ、虎綱はよりによって友晴に後事を託したというのだ。因縁の深いあ奴を間に挟むあたり、いかにも虎綱らしい意地の悪さであると憤る。

「同じ事とは! まさか、信豊様と信君様に、腹を切らせよと申していた事では!」

 思わず大声が出たが、勝頼は眉間に皺を寄せ無言である。

 釣閑斎は悲痛な面持ちで訴えた。

「確かに彼らの申す事は尤もなる部分もございます。しかしながら、多くの家臣を失った当家にとり、彼等二人の影響力は家内でも特に重要でございます。彼らを粛清してしまっては、家内は反発する者で大混乱し、崩壊してしまい兼ねませぬ」

 勝頼は、思い悩んでいる理由を指摘された為か、すこし和らいだ表情を浮かべ応じた。

「やはりお主もそう思うか。確かにあの者共は許せぬと憤慨しておるが、その感情で粛清してしまっては、それこそ織田や徳川の思う壺ではないかと案じておるのだ」

 釣閑斎は大きく相槌を打つ。

「左様でございます。今は心苦しいと存じますが、彼らの助力無くして再起は適いませぬ。あの者共を上手く懐柔し、徳川を駆逐した後に処置を考えれば良いかと存じまする」

 心底に燻っていた懸念が晴れたような心境の勝頼は、身を乗り出す様に言う。

「であるか! やはり儂の考えを理解してくれるのはお主だけじゃ!」

 その姿を見ると、慈しみの思いがこみ上げる。勝頼様には信頼できる助言者が側にいなければならないのだ。

「左様、しかしながら敗戦の責任を問う声も上がって来るでしょう。その際は躊躇らず儂を名指し下さい……」

 釣閑斎がそう答えると同時に、広間前方の襖がバンッと大きな音を立て開かれた。

「また戯け者が殿を唆しおったな! もはや勘弁ならぬぞ!」

 顔を真っ赤に染め上げた友晴であった。

「な、なんじゃ! 殿の主殿に断りもなく無礼者め!」

 釣閑斎は驚いて罵声を上げたが、友晴はドスドスと大きな足音を立て、釣閑斎の元へ歩み寄る。息を荒らしながら腕を振り上げ、今にも飛び掛かろうかという勢いである。

「儂は虎綱殿から後事を頼まれた、虎綱殿だけではない! 昌景様、信春様、昌秀様、家老衆皆からも直々にお任せ頂いたのだ! それは、お主のような痴れ者が勝頼様の邪魔立てをせぬように儂が指名されたのじゃ!」

 拳を振り上げる友晴のあまりの迫力に、高齢の釣閑斎は怯み座りながら多少後ろに後ずさりした。

「軍令違反を犯した憎たらしき穴山の切腹は、敗戦の動揺を鎮める唯一の方法じゃ! お主のような小物一人を処分したところで何の意味があろうか!  大言壮語も甚だしいぞ!」

 あまりの罵詈雑言に腹から怒りがこみ上げるが、見かねた勝頼が憤怒の表情で叫んだ。

「戯け者はお主であろう! その拳をどうするつもりじゃ!」

 友晴は勝頼の言葉に呼応するように、勢いよく首を向け、悲壮な表情で訴える。

「殿! 佞臣に騙されてはいけませぬ! 穴山などは、何かと顔色をうかがっておる勝頼様を甘く見ておるから、軍令違反を犯したのです! ここで何も咎を与えねば一層増長する事は間違いありませぬぞ!」

「何だと!」

 勝頼は、またしても内心の蟠りを直に指摘され色めいた。

「殿も分かっておるでしょう! 殿は信玄公に及ばぬ、毅然とした対応の取れぬ臆病者だと思われているから、彼らが甘く見ておるのです! ここで断固たる決断を行わねば、変わる事はありませぬぞ!」

「勘弁ならぬ! もはや許す事は出来ぬぞ!」

 勝頼は激昂し立ち上がると、後ろに掛けてあった佩刀を手に取り、友晴に向かい大股で歩き出した。友晴は動じずに訴える。

「儂を斬り、気が済むのならそうなされよ! しかし穴山等の処罰は譲れませぬぞ!」

 勝頼は佩刀を抜き、鞘を後ろに放り投げた。

「忌々しき戯れ者め! 今直ぐ黙らせてやろうぞ!」

 友晴は意を決した様に勝頼に向かい合い、目を見つめる。

 釣閑斎は迷った。

 主人にここまで罵声を浴びせた罪を償わせるべきか、いや、敗戦直後に当主自ら家臣を斬ったとなれば、混乱を助長してしまう。特に友晴は厄介者ではあるが、その愚直さが家中でも評判である。使番筆頭で、親信玄派の代表格である友晴の粛清は、家中の反発を招く可能性が高い。

「殿、御殿で大将自ら配下を手打ちにするのはあまりに浅慮でしょう。数多の諸将を失った今は、この様な者であれど、感情に任せ斬っては、家中の不穏は高まるばかりですぞ」

 釣閑斎が咄嗟に諭すと、刀を振り上げていた勝頼は我に返った様に静止する。しかし形相は厳しく、歯を食いしばり、友晴を睨みつける。

 すると、斬られる覚悟をして首を差し出そうとしていた友晴は、静止した勝頼を見直し、涙を流し訴えた。

「今儂は、この身を持って殿に諫言しようと覚悟を決め申した。しかし、この狐はその覚悟までをも愚弄する卑怯者でございます。儂の言葉が届かぬとあれば、潔く腹を切らせて下さい……」

 友晴は泣きながら言うと、膝から崩れ、畳に頭を打ち付ける様に突っ伏した。

 勝頼は振り上げた刀をゆっくりと下ろすと、冷たい表情で友晴に告げた。

「お主の言動は許されるものではない。しかしこのまま腹を切らせては、まるでお主の勝ちの様ではないか。……それは許さぬ。良いか、腹を切る事は許さぬ、しかしこれより勘当と致す上は、二度と儂の前には現れるな」

 友晴はもはや言い返す事も出来ず、肩を落とし、すごすごと躑躅ケ崎館を後にするしかなかった。

 釣閑斎は、精々とする反面、複雑な気持ちも無い訳ではない。誰よりのも武士の意志を大事にする友晴に対し、勘当はある意味もっとも手厳しい仕打ちである。

「いや、仕方あるまい」

 釣閑斎は、小さく呟く。

 勝頼は信玄とは違う。人の心の機微を察する事に鈍感な友晴に、側近としての助言は無理なのだ。屋敷を後にする彼の背中は、いつもの威勢を張った堂々とした姿ではなく、小男の様に小さく丸まって見えた。

 武田家譜代として、信玄お抱えの百足衆として武勇を誇り、忠節を尽くしてきた小宮山友晴は、その後この館に戻る事は無かった。


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