3 恋は落ちるもの
「あの!」
私は彼から十分に距離を取ったところで話しかけた。
スマホを見ていた彼が、目線を上げた。
「突然すみません、私さっきあそこのお店にいた者で、その、えっと、女の子を助けて、すごい、すごかったと思います! 」
つっかえつっかえ言葉を発しながら、私は自分の語彙のなさに情けなくなってきた。
いい大人がすごいを連発するって、どうなんだ。
「それで、その、私がお礼を言う立場じゃないんですけど、ありがとうございました。それだけ言いたくて。では、失礼しますっ」
私は彼と目を合わせずにそう言い切ると、頭を下げて反対方向に歩き出した。
頭の中は『何やってるんだ自分』というツッコミでいっぱいだ。肩にかけたエコバッグからは、カタカタとワインのボトルがぶつかる音がする。安くなっていたから、ついつい二本買ってしまったのだ。
「あの……」
後ろから彼に声をかけられて、ひぃっと肩が飛び跳ねた。
やっぱり怪しすぎた?何言ってんだこいつみたいな感じ?
「あの」
もう一度、先ほどより大きめな声で、彼の声が届いた。
「……はい」
びくびくしながら、私は彼の方を振り返った。
「あの、僕の後ろに並んでいた方ですよね?途中で抜けたのに横入りしちゃってすみませんでした」
「いえ、とんでもない!」
まさか謝られるとは思わなかった。
私は慌てて手を振った。エコバックからは、またワインボトルの鳴る音がする。
ちょっと静かにしてくれないかな。大酒飲みと思われたら困るんだけど。
エコバックからはみ出ているワインボトルに目を移した私に気がついたのか、彼は「ワインお好きなんですか?」と聞いてきた。
「いや、好きというか、週末に時々飲むだけで、これは予備というか、全部は飲まないです」
久しぶりに人と話すと、訳のわからないことを言い出すというのもコミュ障あるあるだ。
「あー! ゆうくんいた!」
幼稚園児くらいの男の子が、彼のもとにぱっと駆け寄ると、足にタックルした。子供の身長は、彼の膝下にも満たない。
「ゆうくんどこ行ってたんだよ?探したんだぞ」
もう少し身長の高い男の子が駆け寄ってきて、彼の太ももにパンチする。
「悪い悪い。どこって、お前らが欲しがってた菓子を買いに行ってたんだよ。ほら、これだろう?」
彼はエコバックからスポーツカーの形をしたお菓子を二つ取り出すと、二人の前に差し出した。
「おれ、あかがいい」
下の子が赤の車に手を伸ばした。
「じゃあ俺青にしよう。赤なんて女みてえ」
「ちがうもん。そんなんじゃないもん! おれもあおがいい!」
「はいダメー! お前が赤がいいって言ったんですー。青は俺がもらうんですー」
「にーちゃんのケチ!」
「ちょっとあんたたち、静かにしなさい。まったくもう」
いきなり現れた子供二人に気を取られていた私は、声がした方に意識を向けた。
スラリと背の高い女の人が、ゆっくりと彼に近づいてくる。
「だって母ちゃん、俺が青のやつもらうんだ。こいつに先に選ばせてやったんだ。これは俺の!」
「ヤダヤダかーちゃん、おれもあおのやつがいい! にーちゃんばっかりいっつもずるい」
「やめなさいって、あんたたち。怒るわよ」
お母さんの声が一段低くなったからだろうか。二人はおとなしくなった。
「もう、本当にチョロチョロして、嫌になっちゃう。買ってきてくれてありがとう」
彼のすぐそばに立った女の人は、涙目をした下の子の頭をなでながら、自分の方に引き寄せた。男の子はお母さんのチュニックに頭を埋めて、「だって、あおいくるまが」と訴えている。
女の人はふうとため息をつくと、そこで初めて私に目を向けた。
「あら、お知り合い?」
「いえ、その……」
私は言葉を濁して一歩距離を取った。
『あら、お知り合い?』
これは家族ほどに近しくなければ出てこない台詞だ。
あれ?何か、何かが……
私は混乱しながらもチクチクと突き刺さる違和感の正体を探ろうとした。
背の高い女の人は、ストンとした型の生成りのチュニックに、八分丈のレギンスを履いている。スラリと伸びた脚も、腕も細い。
だが、男の子が顔をうずめたことで強調されたお腹は、ぽっこりと膨らんでいる。
あれ、この人、妊婦さんなんじゃ?
彼の足元に絡みつく二人の男の子。
彼と彼女の距離感。
そして妊婦さん。
さっと血の気が引いた。
やだ、この人既婚者じゃん。
私、あからさまに人の男に声をかけてる空気の読めない女じゃないか。
違います、すみません、ごめんなさい、あなたの旦那さんを盗るつもりなど全くなくてですね!
違う! そもそも、そんなつもりで声をかけたんじゃなくて、ただお礼を言いたかっただけで……
頭の中でぐるぐると言い訳をしながら、私はきっぱりと言い切った。
「ただの通りすがりの者です 」
私はにっこりと笑顔を作ると、踵を返した。
嘘だ。にっこりなんて笑ってはいない。きっとこわばった口元を歪めた変な人にしか映っていないだろう。
でも、いいのだ。早くうちに帰ろう。慌てたせいで変な汗をかいてしまった。とりあえずシャワーだ。
それからチーズを切って、ワインを開けて、昼間から飲もうではないか。
慣れないことをするからこんな痛い思いをするのだ。恥ずかしい。いい歳をした大人が、何をやっているんだ。
そもそも休日にデパ地下に来る男性なんて、十中八九、既婚者だろう。
電車の子供連れの男の人も既婚者だったじゃないか。土日にフラフラと外を歩いているのは八割方が既婚者だろう。独身は、私のように家に引き込もるのだ。多分。わからないけど、ゲームしたりとか?漫画読んだりとか?
ずしりと肩に食い込むワインが、私を慰めてくれている気がする。
ワインはいい。
飲めば中身は美味しいし、ワインボトルは硬いし重いから、いざという時は武器にもなる。
週末に飲むワインを、デパートが閉まるギリギリの時間に買って帰るのが、最近の習慣だった。金曜日の夜に、へとへとに疲れた残業の後に駅を早足で歩くのはなかなかしんどいけど、『ワイン、ワイン』と頭の中でマントラのように繰り返せば乗り越えられる。
大丈夫。私には命の水があるから。
「あの!」
軽い力で肩を掴まれて、私は後ろに振り向いた。
「すみません、ご家族でいらしたところを邪魔してしまいまして」
「いえ、大丈夫です」
彼は頭をかきながら、私の方を見ては目を逸らすということを繰り返している。
「これで失礼します」と言おうとしたところで、彼の咳払いが聞こえた。
「あの、僕、鈴木 裕太と申します。こんなことは普段はしないんですけど……よければ僕とお茶をしませんか?」
「はい?」
何を言い出すんだこの男は。奥さんと子供の目の前でナンパかよ。
私はドン引きしながら、奥さんの方をチラリと見た。
「あの人たちは大丈夫です、言っておきますので」
彼が慌てて付け加えた。
……あの人たち?自分の奥さんと子供を、あの人たち呼ばわり?
すっと頭の熱が冷めていく。
「いえ、私はこれで失礼します。奥様とお子さんに申し訳ありませんでしたとお伝えください」
私は無表情で答えた。
「ええ! 違います。あれは姉とその子供たちです。甥っ子です! 僕の子供ではありません」
「お姉さんと甥っ子さん……?」
確かに女の人はスラリと背が高いし、目元が一重のところとか、彼と似ていないでもないけど……(ちなみに子供たち二人は揃って一重で、瓜二つだ。)
「本当です。姉さん! ちょっと説明してよ!」
慌てている彼に興味をそそられたのか、それまでじっとこちらを伺っていた男の子二人が駆け寄ってきた。
「なになに、ゆうくん、彼女?やるじゃん」
「お前、どこでそんな言葉覚えてくるんだ」
「母ちゃんが、ゆうくんはいつも休みの日は家でゴロゴロして、彼女の一人もつくらない、て言ってた」
「いってた」
「お前たち! ちょっと黙れって! すみません、甥っ子の冬馬と風馬です。ほら、ご挨拶して」
「おばさん、ゆうくんの彼女なの?」
「おばさん言うな! お姉さんだ!」
慌てて否定すると、彼は申し訳なさそうに私の方を見た。
おばさん……
濁りのないまっすぐな瞳で『おばさん』と呼ばれたその衝撃といったら。
普段大人としか接していないから、面と向かっておばさんなどと言われる機会はそうそうない。
まあ、陰では言われてるだろうけど。
無表情で瞬きを繰り返す私は、おそらく怖い顔をしていたのだろう。彼が何度も謝ってくる。
「いえ、お構いなく。お恥ずかしながら、普段子供と接する機会がないので、ちょっとびっくりしてしまって」
「そうですよね、うるさいですよね、ほら、お前たち、あっち行け」
しっしっと彼が子供たちを追い払った。
「すみません、そういうつもりじゃ……」
「こちらこそすみません」
謝り大会になってしまった。
目が合って、二人で同時に吹き出した。
「すみません、私、鈴木 明奈と申します 」
笑って肩の力が抜けたからか、スルリと言葉が出てきた。
「鈴木明奈さんですね。あ、僕、名刺を持って……あー、すいません、いつもの財布を持たないで来てしまったので持ち合わせがなくて。それで、その、僕とお茶をしていただけたら嬉しいんですけど、ご都合いかがでしょうか?」
「お茶……」
『おばさん』のインパクトが強くて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「いきなり言われても困りますよね。何だったら日を改めて……」
彼は自分の額の汗をぬぐっている。
「ハンカチ使います?まだ使ってないので」
私はカバンからハンカチを取り出して彼に差し出した。
ハンカチを受け取ったその手は、大きくてしっかりとしていて、男の人そのものだ。なぜ平凡な男だなんて思ったのだろう?初めの印象なんて当てにならないものだ。
そうか、表情が柔らかいのだ。だから頼りなさげな印象を受けたんだろう。
「……それで?」
彼が伺うような表情をしてこちらを見ている。
しまった。凝視してしまった。
「あっ! はい。私でよければ喜んで」
居酒屋か、という自分ツッコミは、彼の嬉しそうな顔にあっさりと溶けていった。目尻にくしゃりと笑いジワが寄ったその笑顔に、胸をギュッと掴まれた。
あ、嘘、やばいこれ。
ふらりと足元が崩れていく感覚がした。
心臓がどくどくと鳴って全身を駆け巡っていく。
私、恋に落ちた。