2 平凡な男と飴
「何なのあれ……」
私は思わずつぶやいた。
店内の雰囲気が固まり、そしてみんなが我に返ったようにほわっと緩んだ。
うん、よくやった。頑張ったね。
私は心の中で、その若い店員さんに拍手を送った。
店員さんが涙目ながら「次のお客様」と声をかけたところで、甲高い子供の悲鳴が店内に響いた。
子供がふざけているときに出す声ではなく、本当に何かあったときに出る声だ。
人間というのは、人の声のトーンやニュアンスから危機を察知する能力を本能的に備えている。対象が子供であれば、人はより敏感に反応するものだ。
『今度は何だ?』と、店内の客の視線が一気に声がしたほうに集まる。
前を見ると、小学校低学年くらいの女の子が苦しそうに喉に手を当てていた。 呼吸の仕方がおかしい。息とも声ともいえない音が口から溢れ出ている。
「あの、この子、飴を食べてたんですけど、今のでびっくりして、喉に詰まっちゃったんじゃないかと……」
女の子の隣で、白髪のおばあさんが誰に話しかけるわけではなく、オロオロとそう言った。
左手には杖、右手は体を前傾させた女の子の肩を掴んでいるが、どうすることもできないといった様子だ。
え。嘘。
私は思わず固まった。他のお客さんも動かない。
店内の人間がみんな固まる中、私の目の前に立っていた男の人が動いた。女の子の元へ駆け寄ると、女の子のお腹に腕を回してひょいと抱き上げた。それからパンパンと女の子の背中を叩き始めるではないか。
え。ちょっと何?この人何してるの?
背中を叩かれたまま苦しそうにしてる女の子からは、泣き声のような悲鳴が聞こえる。が、男の人は容赦なく女の子の背中を叩き続けた。
パン、パン、パン
パン、パン、パン
コロン
女の子の口から飴玉が飛び出て、床に転がった。
男の人は女の子をゆっくり床に下ろすと、しゃがんで女の子と向き合った。
「大丈夫?苦しかったね。 飴はもう出たから大丈夫だよ」
穏やかに話しかけながら、女の子の頬の涙を手で拭った。
女の子は怯えたような顔で男の人を見上げた。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 本当にこの子ったら、大丈夫?佳代ちゃん」
おばあさんは男の人に頭を下げながら女の子を抱きしめた。
「とんでもない。飴玉は一つで大丈夫ですか?何個か一気に食べてました?」
「一つ……一つよね、佳代ちゃん?」
おばあさんが自信なさげに女の子に聞いた。女の子は無言のままうなずいた。
男の人は、床に転がった飴玉をティッシュでくるむと、一瞬どうしようかと首をかけて、自分のジーパンのポケットに突っ込もうとした。
「申し訳ありません!」
おばあさんが慌てて男の人の手からティッシュを受け取りながら、「ほら、あんたも、ありがとうしなさい」と女の子を促した。
「ありがとうございました」
女の子はまだ呆然としながらも、男の人にお礼をいった。
「大丈夫。飴を食べるときは気をつけるんだよ」
そう言って女の子の頭にポンと手を乗せると、商品棚に置きっぱなしにしていたお菓子を手に取って、私の目の前に戻ってきた。そして申し訳なさそうに会釈すると、また私の前に並んだ。
店内の客からは自然に拍手が沸き起こった。
「兄ちゃん、よくやった」
「よかったわね! お嬢ちゃん」
「や、あれは、あのマナーのなってないガキが悪いよ。そりゃびっくりするよな」
「お兄さんすごい」
お客さんから声が上がる。私も力いっぱい拍手をした。
男の人は申し訳なさそうな顔で笑いながら会釈をしている。
すごい、すごい、この人すごい。
私も何かこの人に言ってあげたい、そう思うのに、言葉が頭の中をぐるぐる回って、声にならない。
普段、パソコンとばかりにらめっこしているコミュ障の弊害は、こういうときに出るのだ。言葉の代わりに、私は気持ちを込めて拍手をした。
何かとてつもなく尊いものを見たような気持ちで、私はふわふわとした気持ちのまま会計を済ませた。
ちょうど男の人も会計を済ませているところだ。お菓子二つの会計の彼と、家飲みセットを買い込んだ私の会計が同じくらい時間がかかったのは、彼が店員から何度もお礼を言われていたからだ。
「ありがとうございます。お恥ずかしながら、とっさのことに対応できなくて。スタッフ一同、心から御礼申し上げます」と頭を下げる店員に、「いえいえそんな、たまたまです」と謙遜する彼。
チラチラと隣の会計を見ていたからか、私は、カードで払うか、バーコード決済にするか、一瞬パニックになる。バーコード決済で、と思ったら、チャージしてない!
そんなこんなでバタバタしていると、彼は先に店内を出て行ってしまった。
土曜日のデパ地下は混んでいる。私は必死になって、彼の姿を探した。
人より頭一つ抜きん出ている彼を見つけられたのはラッキーだった。
人混みをかき分けながら、彼の後を追う。子供に人気のキャラクターのエコバッグが、彼の左手で揺れている。
急いで歩きながらも、私は思ったのだ。追いかけて、どうするの?と。『すごかったと思います』とでも言うのだろうか。
そんなの、さっき後ろに並んでいたんだから、そのときに言えばよかったのに。
いや、でもあれは店内だったし、他の人も聞いてるかもしれないし。
他の人が聞いてたっていいじゃん。ただ、『すごいですね』って言いたいだけでしょ?
そうなんだけど、でもそれだけじゃなくて……
それだけじゃないって何?
わかんないけど!
いろいろな思いが頭の中を駆け巡る。
彼は店通りを抜けた。このままエレベーターか階段で上がって、帰ってしまうのか、そう思ったが、彼は歩みを止めた。
デパ地下の端にはベンチと自動販売機が置いてあり、ちょっとした休憩スペースになっている。もう少し先には、お手洗いがある。
トイレに向かう人に声をかけるのも気まずいと思い、私は歩くスピードを落とした。
彼はベンチの隣の壁に背中を預けて、スマホを取り出した。
幸いなことに、ベンチには人が座っていない。話しかけるなら、今がチャンスだ。
話しかけるって何を?
わかんない。
でも、今のこの気持ちを、今この瞬間に言わなかったら、きっと私は後悔する。
店内が凍りついたあの一瞬。誰も動くことができなかった――彼を除いては。
次の瞬間にはもうみんな動き出していた。店員さんは女の子に駆け寄っていたし、周りの人も女の子の周りに集まっていた。でもそれも、彼が動いたからだと思うのだ。
私は何もすることができなかった。ただ見るだけで、女の子を助けることができないだけじゃなくて、女の子にも彼にも声をかけることすらできなかった。
好みじゃないなんて、冴えない男だなんて、私は何様なのだろう。
人を見かけで判断するずるい私とは違って、行動で語る彼は、間違いなくかっこいい。