自分を忘れた神と愛された聖女
鬱蒼と木々が茂る森の中で、少年は目を覚ました。
上から下まで純白で染め上げられたような少年の容姿は、この世界でも珍しい。少し癖のある髪も肌も、着ている服も白く、少年のすべての色を集めたのが目であるかのように、目だけが黒かった。美しい容姿をしているため、余計に目立つ。
しかし、ここには誰もいない。
少年は辺りを見渡すが、姿が同じ人という存在を見つけることができずに俯く。
自分は一体誰なのか。
日常生活の基本的なことはなんとなく分かるが、自分に関することがすっぽりと抜けていた。どうやってここまで来たのか、今までどうやって生きてきたのか。何も思い出せなかった。
幸いにも今のところ、この森に危険生物は見当たらない。安堵のため息を吐きつつ、少年は森の探索をすることに決めた。今居る場所がこの森のどの辺りか、まったく見当がつかないのだ。すぐに森を抜けられるならば町を目指したほうがいいだろうし、それが難しいならば安全地帯を探さなければならない。
少年は高いところから見るのが手っ取り早いと、近くのざらついた木肌を撫で、幹を登り始めた。張り出した枝を器用に使い、見上げるほど高い木の天辺近くに腕の力だけで到達する。そこから森を眺めるが、どこへ向かうのにも同じ距離がかかりそうだ。森の最深部で間違いないだろう。
その時、少年の視界の隅で動く何かが見えた。すぐに目で追ってみると黒髪の女性が何者かに追われているところだった。初めて自分以外の人を見て、少年は浮かれる。そして、その女性の顔を見たときに名前が思い浮かんだ。
「聖女シエラ」
思い出したのか、思いついただけなのか。少年は混乱しながら、追いかけられている女性の元へと向かう。記憶がない自分の、おそらく唯一の手がかりだ、と。
「堕ちた神の聖女さまだったとか、俺はどうでもいいんだよなぁ」
「お前、手を出したら呪われるかもしれないぞ」
そんなこと言いつつお前だって追いかけたじゃねぇか、と下卑た笑いを浮かべる男から、女性は必死に逃がれようともがく。男の頬を女性の爪が引っ掻くと、男は逆上する。
「抵抗する気がなくなるまで今から」
「小物だなぁ」
男の言葉にかぶるように、頭上から降ってくる声に顔を上げる。そこには、木から飛び降りた少年がいた。少年は男の見上げた顔に着地し、くるりと一回転して地に立つ。顔を踏み台にされた男は、衝撃で気を失った。残された男は、呆気にとられたように少年を見つめる。
「おじさんも、そうなる?」
軽い身のこなしで空から降ってきた、得体のしれない少年。発する殺気は少年のものとするには、あまりにも禍々しい。自分一人でそのような者の相手をするのは荷が重いと悟ったのか、のびた男を抱えると逃げていった。
「怪我はない?」
少年は色々と尋ねたいのを我慢し、地べたに座り込んだままの女性に手を差し出す。躊躇うような素振りを見せたが、女性は少年の手を借り立ち上がった。
「危ないところを、本当にありがとうございました」
「間に合ってよかった」
「でも、この森でいったい何を……人に捨てられたものが集まる森なので、普段は人が寄り付かないのですが」
逡巡した少年は、へらりと笑い告げる。
「じゃあ、僕も捨てられたのかも。記憶がないんだ」
「まぁ! では、行くところも……」
「そういうことになるかな。基本的なことは多分体が覚えてるんだけど、名前も思い出せないし。とりあえず町にでも行けばと思ったけど、あんなのが居るなら行きたくないなぁ」
少年は重いため息を吐く。絡まれたら面倒だと心の底から思っていた。
「もしよければ、私の家に来ますか? 助けていただいたお礼もしたいので」
森の中にあるので、おもてなしというおもてなしはできませんが、と女性は言う。少年は手を叩いて喜び、女性の手を取った。
「ありがとう! お姉さんのお名前は?」
「私はシエラと申します」
名前を聞き、少年は確信する。自分に繋がる鍵を見つけたと。
「シエラお姉さん、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「あ、僕に畏まった口調はやめてほしいんだ。だって、僕の方が年下だし」
上目遣いで少年が言うと、シエラは困った表情になる。
「何故でしょう。あなたにはこの言葉遣いで合っているような気がするのです。でも、やめてほしいと仰るならすぐには直せないと思いますが、頑張りますね」
普通に話すのを頑張るのか、と少年が笑うとシエラもつられて微笑む。
つい先刻、襲われていたのも忘れ、二人は仲良く帰路へとつくのだった。
艷やかな黒髪と黒い瞳のシエラは、垂れ目でおっとりとした雰囲気の女性だ。美しいがそれよりも先に柔らかな印象を相手に与えるため、整っている容姿に気付きにくいということもあるのだろう。
手慣れた手つきでお茶を淹れるシエラの向かいに座り、少年は観察する。
帰ってくる途中、シエラと手を繋ぐと、頭の中でカチリという音が聞こえた。何かがはまったような音だ。次は、シエラと視線を合わせたとき、同じ音が聞こえた。そして今、シエラの口からこの森に来た話を聞いていて音が鳴る。
「この森は人を追放するために作られました。自らの手で殺すと神罰が下るため、殺したいけれど殺せない邪魔者が置き去りにされるのです」
「じゃあ、この家は……」
「私の場合は少々特殊で、ここに家を与えられました。腐っても聖女なのだから、この地を浄化し続けよ、と。自給自足しながら神に祈りを捧げて暮らすのは性に合っておりますし、罰だと思う要素はないのです」
シエラの淹れたお茶は薬草茶なのか、香ばしさと渋みのある香りが調和している。口に含むと仄かな甘みを感じる旨味のあるものだった。
少年の口元に笑みが浮かぶのを、シエラは嬉しそうに眺め呟く。
「魔物は出ませんし、怖いのは肉食の野生生物と先程のような人間ですね。それ以外は、この森で暮らすのに不自由はありません」
「あの……僕もそこに混ぜてもらえないかな。記憶もないし、過去に何をしてここに置いていかれたのかもわからないけど」
「私はかまいません。話し相手までできてしまって、もっと快適に過ごせますね」
パチンと胸の辺りで両手を合わせ、シエラは無邪気に喜ぶ。
少年はそれを見て、昔からの癖は変わらないな、と思ったところで首を傾げた。
昔からシエラのことを知っていた。その仕草がかわいいなと思っていたのだ。ずっとシエラを自分だけのものにしたくて、それで……、と少年はシエラを見つめる。
シエラは不思議そうな表情を向けながら、少年にお腹が空いてるでしょう、とスープとパンを差し出した。それを受け取りながら、少年は尋ねる。
「ねぇ、この国の神様って誰だっけ」
「あ……えっと、今はデール様ですね。でも、私が仕えているのは今も昔もクリシェル様なので。異端としてここへ送られましたけど」
カチリと脳内に再び音が響き、少年の失われた記憶が蘇った。注ぎ込まれる記憶は溢れることもなく吸収されていく。
少年はこの国の神だった。皆に愛され、それと同じだけの愛をこの地へ還元していた。
しかし、神は気付いてしまった。誰よりも愛をくれる者がいることに。その者は、美しく愛らしい容姿の少女だった。聖女と呼ばれ、神に献身的な愛を捧げる少女に神は心を奪われた。
神の愛は聖女に惜しみなく与えられるが、国への愛はまばらだった。次第に作物の実りが悪くなり、天変地異が頻発するようになる。そうなると他の神たちも介入せざるを得なくなり、聖女への贔屓で国を一つ滅ぼしかねないと、神の地位を剥奪されたのだ。
だが、神の民への興味が薄れたのは、聖女が何よりも眩しく映ったからではなかった。人々の醜さが目に余ったからだ。そこから目を逸らしたとき、聖女の無垢な祈りが尊く思えたのだ。
神である自分を信じ、世の中に光が溢れるよう祈りを捧げる聖女。他の何よりも眩しく、愛おしく思えた。だから、神は聖女を愛したのだ。
神の力を奪われる前に、寝ている聖女へありったけの力を注ぎ込んだ。神の黒い髪は白くなり、代わりに聖女の金色だった髪が真っ黒に染まった。褐色の肌も力を注ぎこむうちに、力が色として現れていたからか肌色へと変わる。目覚めたときに驚くだろうと思ったが、再び出会うためには必要な儀式だった。
聖女の中に、幾つもの自分の欠片を散りばめて。再び出会ったときに、すべてを思い出せるようにと策を練ったのだから。
神は力を奪われ、しばらく監禁された後、地上へと堕とされた。記憶喪失になった、ただの人間として置き去りにされたのだ。
だが、記憶の戻った神はそれでいいと思った。誰にも邪魔されることなく、愛している聖女と共に暮らすことができるのだ。しかも、聖女はまだ神のことを愛し、祈りを捧げ続けている。それが、力を奪われた神の、新たな力となる。
神は森に強力な結界を張り、誰も入ってくることができないようにした。認識阻害により、この森は完全に孤立した空間となる。そのうち人々は、聖女のことも堕とされた神のことも忘れるだろう。
「シエラお姉さん、スープ美味しいね」
「あら、お口にあったようで嬉しいです。まだ、たくさんあるのでどうぞ」
ありがとう、と神が告げると昔と変わらぬ笑顔を向けられホッとした。吹き込んだ風で、シエラの黒髪が緩やかに舞う。目の前を通るそれを眺め、神は言う。
「お姉さんの髪の毛綺麗だね」
「私も気に入ってるんです。突然黒くなってしまったんだけれど、クリシェル様と同じ色だから」
「そっか。僕も同じ色が良かったな」
口ではそう言いつつも、彼女を染め上げたのが自分の色だと分かっているため、少しも残念そうではない。シエラの黒髪と黒い瞳は、神に愛された印だ。
「そう? 私はあなたの色がとても素敵だと思います。クリシェル様の力を浴びたとき、あなたのような色を感じていたから」
どこまでも喜ばせるのがうまい、と神は胸の内で笑う。これからはこの聖女を独り占めできるのだ。今はまだ記憶を失ったフリを続け、打ち解けた頃に種明かしをする。
しかし、シエラはとても強い者だと神は思う。一方的に弁解の余地なく、くだされた罰。先に国を見限った神がいたため、連続してそのような事態は避けねばならないと他の神たちが示し合わせたのだ。その出来事に加え、突如として髪の色が変わったシエラは、周りからひどい言葉をたくさん浴びたに違いない。その前にも、シエラが神の愛を独り占めしたからだ、皆が苦しいのは神を誘惑した聖女のせい、などと言われていた。言った者には神が自ら罰を下していたが、それすらもシエラへの妬みに変わる。とても苦しかったはずなのに、それを神のせいにはしなかったのだ。そして、未だに当時の神だったクリシェルを慕っている。
「とても優しく温かい方なのよ」
遠くを見つめ懐かしむ様子のシエラに、もう少ししたら会えるよ、と神は小さく呟く。シエラの側で新たな力を蓄え、早く成長しなくてはならないな、と思いながら。
閉鎖された森で、世界に捨てられた者同士が寄り添い暮らしているのを、この世の誰も知らないのだった。
神に愛された印を持つ少女( https://ncode.syosetu.com/n0350ii/ )と同じ世界です。